第五章 最弱の種族
焦土と化したドラグニア竜王領をあとにしたベネット・ド・ドラグニアは、当心のない旅を続けていた。手の中に残されたのは、熱で歪んだ姉セレフィーナの蒼い髪飾りと、黒く焦げた弟ルシオンの木彫りの玩具のみ。それらを胸元の内ポケットに抱きしめながら、彼女は世界の姿をその目で確かめるべく、果てしない荒野と都市群を巡っていた。
一人の力では、種族そのものを守ることはできない――。
故郷の廃墟で突きつけられた残酷な真実の答えを探すように、ベネットは自らの足で広大な大陸を歩き、それぞれの種族が築き上げた幾多の文明の姿を観察していった。最初に立ち寄ったのは、中央大陸の西側に広がるアルヴェリア聖王国であった。そこに暮らすのは、人類の中で最も高い適応力を持つ「人間」たちである。彼らの人口は実に十八億二千万人。聖王国の都に足を踏み入れ入れたベネットの前に広がっていたのは、綿密な法制度と官僚機構によって緻密に統治された広大な都市であった。人間という種族は、個体の寿命も短く、腕力や魔法の素質において他種族に劣る面も多い。しかし、彼らは「学問」と「政治」という術を発明し、大規模な組織を維持する社会システムを完璧に構築していた。千を超える学校が存在し、知識が制度化され、次世代へと絶え間なく継承されていく。「個は弱くとも、制度と教育という仕組みがあれば、何億もの人間が互いを支え合い、恒久的な文明を維持できる……」ベネットは街頭で書物を読む幼い人間の子供たちを見つめ、静かに呟いた。次に向かったのは、大陸北部の原生林を領有するエルセリア森王国。そこは精霊と共生する「エルフ」の郷であった。エルフの人口は四億二千万人。彼らは永い寿命を持ち、古代から受け継がれた「精霊魔法」の技術において他の追随を許さない。森林全体に張り巡らされた巨大な結界と、精霊たちとの深い契約による魔法文明。それは、一人ひとりが高度な知識と魔法適性を保持することで成立している、洗練された知識集約型の社会であった。さらに南方の山脈地帯に位置するグランヴァルト鉄王国へ足を運べば、そこは「ドワーフ」たちの堅牢な要塞都市であった。ドワーフの人口は三億一千万人。彼らは不屈の体力と頑丈な骨格を持ち、「鍛冶」と「建築」、そして「機械技術」の分野で世界を席巻していた。幾重にも組まれた巨大な蒸気機関と黒鉄の城塞。一人のドワーフが鍛え上げた武具や魔導兵器は、何百人もの兵士の戦力を跳ね上げる。彼らは卓越した技術力と産業基盤を背景に、世界中の経済と兵器市場を陰から支配していた。東方の広大な荒野と草原を統べるヴァルガ獣王連邦では、「獣人」たちが独自の生態系を築いていた。獣人の人口は七億六千万人。様々な部族からなる彼らは、強靭な身体能力と俊敏性、そして「部族間の強い血の結束」を誇っていた。個々の武勇を重んじつつも、有事の際には部族連合として一糸乱れぬ大規模な騎兵軍団を編成する。彼らは野生の生存本能と集団行動の美徳を高い次元で融合させていた。そして、大陸の果て、常闇の雲に覆われたゼルファディア魔帝国。そこに君臨する「魔族」の人口は一億八千万人。八大国の中では比較的少ない人口でありながら、彼らが世界から恐れられる理由は、圧倒的な「個の魔法戦力」と「厳格な階級社会」にあった。一人の高位魔族が放つ禁術魔法は、一個大隊の兵力を一瞬で消滅させる。彼らは完全なる力と階級の絶対秩序によって一億八千万の魔族を統制し、他国を震撼させる軍事的威圧感を保ち続けていた。
――そして。
これらの強大な文明の頂点に君臨しているのが、ベネットを追放し、その故郷を焼き払ったリューネゴブリン王国であった。ゴブリン族の人口は、まさに圧倒的な三十億六千万人。全世界の総人口約六十二億一千万人に対し、その過半数を単一の種族が占めている。彼らの強さは、莫大な人口から生まれる「果てしない労働力」と「巨大な消費市場」、そして「尽きることのない動員兵力」にあった。一人ひとりのゴブリンは小柄で、個人の武力は全種族の中で極めて低い。しかし、三十億を超える数が集まり、近代的な行政機構、魔導重砲兵大隊、最新鋭の魔導飛空艇群といった「現代兵器の工業化」と結びついた時、それは世界のどの種族も太刀打ちできない「無敵の津波」へと変貌するのだ。それぞれの国家、それぞれの種族が、固有の強さを持っていた。
人間は「政治と学問」の十八億二千万人。
エルフは「精霊と魔法」の四億二千万人。
ドワーフは「技術と産業」の三億一千万人。
獣人は「本能と結束」の七億六千万人。
魔族は「個の魔力と階級」の一億八千万人。
ゴブリンは「数と組織と経済」の三十億六千万人。
世界の形をその目で観察し尽くしたベネットは、静かな断崖の上に立ち、眼下に広がる広大な世界を見下ろした。風が彼女の銀髪を激しく揺らす。
「……そして、竜人族は」
彼女の故郷、ドラグニア竜王領に肩を寄せ合って生きていた竜人族の人口は、わずか一万二千人。三十億六千万人対一万二千人。数字があまりにも違いすぎた。ベネットは旅の途中で思い知った事実を、頭の中で冷徹に整理していった。世間の人々やゴブリンたちは、口を揃えてこう言っていた。『竜族は今や全種族最弱の少数種族だ』『時代遅れの滅びゆく生き物だ』と。しかし、自らの内に目覚めた「竜眼」の力と、自分という存在の異常な強さを知るベネットだからこそ、確信を持って言えた。竜人族は、個体の強さという意味において決して「弱い」のではない。むしろ正反対だ。一人の竜戦士は、訓練されたゴブリン兵が百人群がろうと容易く薙ぎ払う。一人の熟練した竜族の老人は、何千何万という人間の兵士が束になっても傷一つ負わない頑強な鱗を持つ。そしてベネット自身に至っては、本気を出せば、拳の一撃で山脈を蒸発させ、ただ一息で世界最大規模の王都を壊滅させられるほどの「絶大な力」を秘めている。個人の戦闘能力という一点のみを抽出するならば、竜人族こそが世界最高、いや宇宙最強の種族であった。「……それなのに」ベネットは胸元の内ポケットに手を当てた。そこには、歪んだ髪飾りと焦げた玩具の触感が確かに存在している。これほどまでに個が優れ、自分が最強の力を持っていながら竜人族は、故郷を一夜にして焼き払われ、一万二千の命を無残に散らされた。なぜなのか。その答えは、各文明の姿を見歩いてきたことで明確になっていた。竜人族は、個人の武力があまりにも強大すぎるが故に、「社会」を作ることを怠ってきたのだ。一人が強すぎるため、複雑な行政機構を作る必要もなかった。一人が独立して生きていけるため、大規模な産業や商業網を発展させる必要もなかった。一人が万の敵を散らせるため、組織的な軍事戦略や、制度的な教育システムを構築する必要もなかった。
その結果として残されたのは、一万二千という極端に少ない人口と、時代から完全に置き去りにされた「構造を持たないただの個体の集まり」であった。個の戦闘能力は「世界最強」。しかし、社会的な組織力、政治力、経済力、持続性という観点から見れば、竜人族は文字通り「全種族最弱」であったのだ。どんなに一人の戦士が強くとも、相手は三十億という無限の兵力を送り込んでくる。どんなに自分が山を粉砕できても、相手は広大な経済網を使って物資を補給し、数千発の魔導重砲を何日も打ち込み続ける。個の強さに胡坐をかき、組織と構造を作ることを忘れた種族は、時代の濁流の前ではあまりにも脆く、儚い。ベネットは静かに腰を下ろし、天竜山脈の方角を遠く見つめた。自分の中にある、世界を滅ぼし得るこの力。一人の男を殺すための暴力。一つの都市を焦土に変えるための破壊。それらはすべて「個の強さ」に過ぎない。そしてその強さは、家族を守ることも、故郷の消滅を防ぐこともできなかった。
「……強さって、何なのでしょう?」
ベネットの口から、寂しげな問いかけが漏れた。山を穿つ力が「強さ」なのか。三十億の人間を統率し、組織として動かす仕組みが「強さ」なのか。それとも、大切な誰かを慈しみ、共に生きていくための温かな居場所を守り続けることこそが「強さ」なのか。自らが持つ「史上最強の武力」と、竜人族という「最弱の種族」が置かれた残酷な現実。その強烈な落差の狭間で、ベネット・ド・ドラグニアは一人、深く、深く自問自答を続けるのであった。風が吹き抜け、彼女の言葉を遠い空へとさらっていった。その深い蒼の瞳には、かつて王宮にいた頃の無垢な凪ではなく、世界の理を捉えようとする静かな覚悟の火が、灯り始めていた。




