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第四章 竜眼

 灰色の煤煙が、重く垂れこめた空へとなだらかに立ち上っていた。かつて水と緑が織りなす美しい都であったドラグニア竜王領の跡地には、ただ焦熱の匂いと、生々しい鉄の臭気だけが充満していた。風が吹くたびに、焼き尽くされた木々の灰が舞い上がり、静寂のなかでさらさらと乾いた音を立てる。崩落したドラグニア家の館の前に、ベネット・ド・ドラグニアはぽつりと立ち尽くしていた。その小さな掌の中には、熱で歪んだ姉セレフィーナの蒼い髪飾りと、黒く焦げた弟ルシオンの木彫りの玩具が収められている。彼女の指先は冷たく凍りつき、胸の奥はぽっかりと巨大な空洞に穿たれたかのように何も感じられなかった。

涙すら、湧き上がってこない。あまりにも突如として訪れた崩壊と喪失の前に、ベネットの感情は麻痺し、ただ底なしの無感覚だけが全身を支配していた。



「……なぜ」



 掠れた声が、焦土となった街並みに虚しく吸い込まれていく。なぜ、温かかった家族が死ななければならなかったのか。なぜ、この静かで穏やかな街が跡形もなく焼き払われなければならなかったのか。答える者は誰もいない。ただ、焦げた瓦礫の下から微かに立ち上る熱気が、残酷な現実を彼女に突きつけているだけであった。ベネットはゆっくりと視線を落とし、足元に広がる惨状を観察し始めた。彼女はただ悲嘆に暮れるために佇んでいたのではない。彼女の優れた竜族としての感覚と、冷徹なまでに研ぎ澄まされた洞察力が、焦土に残された「痕跡」を正確に拾い集め始めていたのだ。崩壊した石壁に残された無数の打撃痕。それは竜族が使うような個の武力による破壊ではなく、極めて組織的かつ画一的な「魔導重砲」の広域掃射によるものであった。地面に深く刻まれた無限の轍は、重装甲の魔導車両群が幾重にも押し寄せた証であり、焦土に点々と残された足跡の形、破裂した魔導弾薬の刻印、そして空気中に残留する独特の人工魔力の匂い――。それらすべてが、一つの明確な結論を指し示していた。「……リューネゴブリン王国の軍」ベネットの口から、淡々とした言葉が漏れ出た。この世界において、これほどまでの物量と最新鋭の魔導兵器を惜しみなく投入し、一夜にして一つの領域を面で潰し尽くすことができる国家は、世界最大の覇権国家であるリューネゴブリン王国をおいて他に存在しない。では、なぜ彼らはドラグニア領を襲ったのか。竜人族は確かに「全種族最弱」と蔑まれる少数種族であり、政治的にも軍事的にもゴブリン王国に脅威を与える存在ではなかった。数千年にわたり、ただ天竜山脈の麓で静かに暮らし、他国との紛争を避けてきたのだ。国家的な利益も、軍事的な必然性も、ここには何一つ存在しない。ならば、国家の意思としてではなく、純粋な「個人の命令」によってこの暴挙が行われたのだとすれば――。これほどの正規軍と魔導重砲兵大隊を私情で動かし、一国の領域を根絶やしにする指示を出せる人物。王宮の大ホールで浴びせられた、数々の侮辱的な言葉がベネットの脳裏に鮮明に蘇る。



『お前に許されているのは、この国から出ていくことだけだ!』



『不快な竜族め!』



 屈辱に耐えかねたような、あのアラバスターの如く歪んだ緑色の顔。自分にひれ伏さず、屈辱に濡れた顔も見せずに王宮を去った自分に対する、身勝手な逆恨みと傲慢なプライドの誇示。ベネットはそっと目を閉じ、崩落した館の瓦礫に触れた。そこには、父ヴァルディスが最後まで振るっていたであろう巨剣の破片と、無数のゴブリン兵の矢が突き刺さっていた。



「……ジェナール・ド・シンフォニー」



ベネットの口から、その名が紡がれた。



「私の家族を殺したのは、あなたですか?」



 その瞬間――世界が静止した。ベネットの双眸が、緩やかに見開かれる。深く澄んでいた蒼い瞳の奥で、無数の光の粒子が渦を巻き、瞳孔が縦に裂けるように収縮した。青碧の虹彩が眩いばかりの黄金色へと変貌し、その中心に神聖にして凶暴な「十字の光芒」が立ち現れる。



「竜眼」。



 極限まで精練された竜の最古の血脈を持ち、その内に秘めた圧倒的な力を解き放つ者にのみ現れる、神話の証。古代の文献にすら僅かに記述が残るのみの、真なる竜王の瞳が、いまベネットの顔に顕現したのである。刹那、彼女の身体を中心に、目に見えない圧倒的な圧力が全方位へと放射された。大気が悲鳴を上げて歪み、天竜山脈を包んでいた巨大な雲海が、まるで何かに押し潰されたかのように円状に吹き飛ぶ。焦土に横たわっていた何千何万という瓦礫や巨石が重力を失ったかのように一斉に宙へ浮き上がり、次の瞬間には密度の高すぎる魔力の力場によって粉微塵の砂となって消失した。彼女の体内で眠っていた、次元の異なる魔力が一気に目覚めを告げたのだ。「竜族史上最強」と称される力。本気で拳を振るえば地球の地殻を砕き、吐息一つで大気圏を焦がすほどの絶対的な破壊力。かつて世界の覇者と恐れられた古竜たちすら足元に及ばない、天地を滅ぼすレベルの怪物としての本質が、そこにはあった。ベネットの瞳に宿る竜眼が、遙か数百キロメートル先、リューネゴブリン王国の王都に聳え立つ白亜の王宮を正確に捉えていた。そこにいる。豪奢な椅子にふんぞり返り、自らの犯した惨劇に酔いしれているであろう男、ジェナール・ド・シンフォニーの姿が、まるで眼前に存在するかのように克明に視界に映し出されていた。今すぐにでも、ここから一歩を踏み出せばいい。竜眼の力を解放し、空を破って王都へ跳べば、ほんの数秒でジェナールの首を刈り取ることができる。彼の全身を焼き尽くし、その命を絶つことなど、ベネットにとっては息を吸って吐くよりも容易な作業であった。手の中にある髪飾りと玩具を握りしめ、ベネットの身体が僅かに沈み込む。



王都へ飛び立とうとした、その刹那――。


ベネットの動きが、ぴたりと止まった。



 黄金に輝く竜眼が、激しい感情の波動ではなく、恐ろしいほどの冷徹さをもって何かを算出し始めたからだ。(……ジェナール・ド・シンフォニーを殺して、何になるのでしょう?)彼女の思考は、あまりにも冷静であった。今、自分が王都へ乗り込み、ジェナール王子を討ち果たしたとする。さらにその場にいるゴブリンの貴族たちや王宮を破壊し尽くしたとする。だが、その後に残るのは何か?リューネゴブリン王国の全人口は、三十億六千万人。世界総人口の半数を占め、無限とも思える兵力と、組織化された膨大な行政・軍事システムを持つ超巨大国家である。第一王子一人が殺されたところで、国家という巨大な機構は止まらない。むしろ「最悪のテロリスト」「邪悪な竜族の残党」として、世界中のゴブリン軍が一致団結し、徹底的な復讐へと動き出すだろう。対する竜人族の現状はどうか。ドラグニア竜王領に住んでいた一万二千人の人々は、この悲劇によってほぼ壊滅した。だが、もし生き残りがどこかに隠れていたとしたら? あるいは、世界各地に散らばって細々と暮らしている僅かな同胞たちがいたとしたら?一人の竜人族がどれほど天を突く破壊力を持っていようとも、自分という「点」の強さだけでは、面で襲いかかってくる三十億の圧倒的な物量から、生き残った弱き同胞たちを護り抜くことは不可能なのだ。ベネットは自らの掌を見つめた。この手に宿る、世界を滅ぼし得るほどの絶対的な力。かつて竜族は、この圧倒的な個の強さを誇りとし、世界の頂点に君臨していたという。しかし、時代の変遷とともに、個の強さを超える「数の力」「文明の力」「組織の力」を構築したゴブリン族に敗れ、今や全種族最弱の少数種族へと転落した。どれほど一人の竜人族が強くても、一人の力だけでは種族そのものを守ることはできない。ジェナール一人を殺したところで、途方もない数の暴力と社会構造そのものが存在する限り、第二、第三のジェナールが現れ、残された竜族を完全に根絶やしにするだけだ。ベネットは初めて、自らの内に眠る「強さ」そのものに疑問を抱いた。

山を穿ち、空を裂くこの力は、一体何のためのものなのか。大切な家族一人すら護れず、故郷の壊滅を防ぐこともできなかったこの破壊力が、何の役に立つというのか。圧倒的な武力を持っていながら、世界という巨大な社会構造の前では、自分はどこまでも無力であった。



「……私は」



 ベネットは黄金の光を放つ竜眼を閉ざし、深く息を吐き出した。瞳を開くと、そこには再び、深い蒼色の瞳が戻っていた。しかし、その瞳にはかつてのような無気力な平穏はなく、底知れぬ深い思考の影が宿っていた。彼女は姉の髪飾りと弟の玩具を丁寧に布に包み、胸元の内ポケットへと大切に収めた。焦土と化した故郷の真ん中で、少女はぽつりと問いかける。「……私は、どうすればいいのでしょう」風が吹き抜け、彼女の銀髪を寂しげに揺らした。

単なる復讐の殺戮者となるのか。それとも、三十億という莫大な絶対数と世界の構造そのものに立ち向かう術を見出すのか。答えはまだ、暗闇の中に隠されたままであった。ベネットは崩壊した故郷の焦土を最後に一度だけ振り返り、決意を秘めた静かな足取りで、誰もいない荒野へと歩みを進め始めた。


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