第三章 消えた故郷
ベネット・ド・ドラグニアが旅立ちの朝の風に乗り、天竜山脈の尾根を越えてから、わずか三日の月日が流れた頃。リューネゴブリン王国の執務室において、冷徹な一言が放たれた。「……待て。あの女の故郷を消せ」第一王子ジェナール・ド・シンフォニーは、羊皮紙の報告書に目を通すこともせず、豪奢な椅子に深く腰掛けたまま、冷淡に言い放った。傍らに控えていた長年王家に仕える側近の将校が、息をのんで目を見開く。「し、しかし殿下……! ドラグニア竜王領は自治領とはいえ、我が国の傘下にある平和土地です。何の方策もなく武力を行使するなど、他国への示しが――」
「黙れ」
ジェナールは側近の言葉を鋭く遮り、蔑みの混じった視線を向けた。「あのトカゲの女の顔を思い出してみろ。婚約破棄を突きつけたというのに、悲鳴一つ上げず、あろうことか『好きなことをしてもいい』などと言い放って王宮を去ったのだぞ。我が王国の威信を、第一王子である私の権威を愚弄したのだ」ジェナールは爪を噛み、屈辱に顔を歪めた。彼にとって、自分にひれ伏さず、屈辱に濡れた顔も見せなかったベネットの態度は、許しがたい侮辱であった。「あの女が戻ってくる場所があるからだ。あのちっぽけな故郷と家族という後ろだてがあるから、あのような不遜な態度が取れる。だからこそ、根絶やしにするのだ。家族も、友人も、村人もだ。二度と私の国へ戻ってこられないようにな」
「……御意にございます」
側近は深々と頭を下げた。王子の傲慢と歪んだプライドのために、一万二千の命が消されることが、この場で決定した瞬間であった。リューネゴブリン王国が誇る軍事機構は、圧倒的な機動力と規模をもって動き出した。軍総司令官のもと、動員されたゴブリン正規軍は実に三十二万人。さらに最新型の魔導重砲兵大隊と、空を埋め尽くす魔導飛空艇群が結集された。三十億の人口を背景とする王国にとって、三十二万という兵力はほんの一握りの動員に過ぎない。その大軍勢が、静寂に包まれたドラグニア竜王領へと押し寄せた。「急報! 北の境界線より、ゴブリン軍の膨大な部隊勢が侵攻してきます!」ドラグニア家の館に駆け込んできた報せに、当主ヴァルディスは激しく目を見開いた。「なに……!? リューネゴブリンが、なぜこのような不意打ちを!」理由など考える余裕はなかった。すでに天竜山脈の麓からは、地響きのような行進音が轟き、空は魔導砲の放つ不吉な赤い光に染まり始めていた。「全住民を至急避難させろ! 動ける者は武器を取れ! 我が故郷を、誇り高き竜の民の地を守るのだ!」ヴァルディスの号令のもと、竜人族の戦士たちが立ち上がった。個としての戦闘力において、竜人族は間違いなく地上最強の種族であった。ひとたび竜の力を解放すれば、一人の竜戦士が百人のゴブリン兵を容易く薙ぎ払い、その頑強な肉体は並の鉄剣や弓矢を跳ね返した。弟のルシオンもまた、身の丈ほどの槍を手に取り、前線へと駆け出した。「僕が……僕がみんなを守るんだ! ベネット姉様が帰ってくるこの場所を!」ルシオンの槍は閃光となって敵を穿ち、果敢にゴブリンの群れを押し返した。姉のセレフィーナもまた、高位の古代魔導を詠唱し、迫り来る敵軍に蒼い炎の嵐を浴びせた。しかし――戦争とは、個の強さのみで決するものではなかった。押し寄せるゴブリン兵の数は、まさに無限であった。一人倒せば十人が群がり、十人を討ち取れば百人が地平線を埋め尽くす。無数の魔導重砲から放たれる高熱の砲弾が、何千発とドラグニアの綺麗な街並みを打ち砕き、燃え上がらせていく。組織化された大集団による圧倒的な物量と、容赦のない広域破壊兵器。一万二千しかいない竜人族の戦士たちは、疲弊し、一人、また一人と無数の矢と砲弾の雨の中に倒れていった。
「ルシオン! 退がりなさい!」
セレフィーナの叫びも虚しく、波のように押し寄せる敵の群れに包囲されたルシオンは、背後からの不意打ちを受け、胸を深く穿たれた。
「ガハッ……あ……ベネット……姉、様……」
少年の手から槍がこぼれ落ち、少年は燃えさかる炎の中に倒れ伏した。
「ルシオン――ッ!?」
弟の死を目撃し、狂乱したセレフィーナもまた、無数の魔術兵が放った極大の魔導光線に呑み込まれ、跡形もなく消し飛んだ。「妻よ、子供たちよ……ベネット……どうか無事でいてくれ……!」最前線で血反吐を吐きながら巨剣を振るい続けた父ヴァルディスも、無数の槍と砲撃を浴び、仁王立ちのまま息絶えた。母エレノアもまた、館の奥で幼子たちを庇いながら、崩落する天頂の下敷きとなった。
わずか一日。
圧倒的な数の暴力と破壊兵器の前に、数千年の歴史を誇ったドラグニア竜王領は、完全なる焦土と化した。
それから二日後。
何も知らないベネット・ド・ドラグニアは、旅の途中でふと胸を騒がせ、故郷への道を辿り戻ってきた。天竜山脈の尾根を越えた瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、見慣れた青々とした森林でも、澄んだ水路が巡る美しい街並みでもなかった。立ち上る黒煙。天地を覆う死の静寂と、鼻を突く焦熱と血の匂い。ベネットの足が、ぴたりと止まった。彼女は言葉を失ったまま、崩れ落ちた石造りの門をくぐり、かつて街であった焦土へと足を踏み入れ入った。そこには、人の姿が一切なかった。風が吹き抜けるたび、黒い灰が舞い上がる。美しい水路は干上がり、黒く濁った血と泥で埋もれていた。壊された家々、崩れ去った壁、打ち捨てられた生活の痕跡だけが、そこに確かに人々が生きていたことを静かに物語っていた。ベネットはただ、ゆっくりと歩を進めた。「……お父様?」声を出してみる。だが、返ってくるのは虚しい風の音だけだった。返事はない。ベネットはさらに奥へ、焦げた木片を踏みしめながら歩く。「……お母様?」静寂が横たわるのみ。返事はない。かつて温かい家族の笑い声が響いていた、ドラグニア家の館の跡地へと辿り着く。崩落した天井、焼き尽くされた食卓。「……お姉様?」返事はない。ベネットの呼吸が、わずかに浅くなる。「……ルシオン?」返事はない。どれほど言葉を投げかけても、誰も答えてくれない。あの日、あんなに温かく自分を迎え入れ、旅立ちを祝ってくれた家族の姿は、どこにも存在しなかった。ふと、ベネットの足元に、黒い灰に埋もれた小さな光るものが目に入った。ベネットは膝をつき、震える指先でそれを拾い上げた。それは、姉のセレフィーナがいつも大切に髪に飾っていた、蒼い宝石のついた髪飾りだった。熱で一部が歪み、黒く燻っている。さらにそのすぐ近く、崩れた瓦礫の隙間に、小さな木彫りの竜の玩具が転がっていた。弟のルシオンが幼い頃に自分で削り、大人になっても自分の部屋の机に大切に飾っていた玩具だ。ベネットは、それらをそっと両手で包み込んだ。泣き叫ぶような大声は出なかった。涙が頬を伝うこともなかった。ただ、あまりにも静かに、あまりにも丁寧に、燃え残った姉の髪飾りと弟の玩具を拾い上げ、胸の前に引き寄せた。
「……なぜ」
ぽつりと、ベネットの唇から掠れた呟きが漏れた。なぜ、こんなことになったのか。なぜ、温かかった家族がいないのか。なぜ、自分が愛した小さな故郷が、跡形もなく消え去ってしまったのか。彼女の深い蒼の瞳から、完全に光が消えた。怒りでもなく、悲しみでもない。ただ世界そのものを塗り潰すような、恐ろしいほどの「無」と「絶望」が、彼女の全身を包み込んでいく。ベネットが静かに立ち上がったその瞬間、ドラグニア領の全域を揺るがすほどの地鳴りが鳴り響いた。彼女の足元から、大気が、空間そのものが軋み声を上げ始める。世界で一番静かな「史上最強の竜」の覚醒を、まだ誰も知らなかった。




