第二章 帰郷
リューネゴブリン王国の王都を包むけたたましい喧騒と、魔導燈の不自然な眩しさが背後へ遠のいていく。ベネット・ド・ドラグニアは、王宮から伸びる一本の石畳街道を、ただひたすらに歩んでいた。馬車も使わず、召使いも伴わず、小さな旅鞄一つを肩にかけたその姿は、一見すれば天涯孤独の身となった哀しい少女のようにも映る。しかし、彼女の足取りは驚くほど軽やかであった。王都を離れるにつれて、空気の質が変わっていく。煤煙と人工的な魔力に満ちていた都市の匂いは薄れ、豊かな大地を吹き抜ける風が、青く澄んだ草木の香りを運んでくる。
「……あたたかい風」
ベネットは足を止め、銀色の髪を風になびかせながら、遠く南東の空を見上げた。そこに聳え立つのは、雲を突き抜けるほど高大な天竜山脈。そしてその山脈の裾野、豊かな原生林と無数の湧水に抱かれた地に、彼女の故郷ドラグニア竜王領が存在していた。かつて世界を統治したとされる神聖なる竜族の領域。しかし、今やその領域は世界地図の隅に追いやられた小さな自治領に過ぎない。八大国の中で最低の人口しか持たず、他国からは「時代の敗北者の隔離地域」とさえ呼ばれる場所。だが、ベネットにとってそこは、世界で唯一、心から息をつくことができる温かな居場所であった。天竜山脈の麓に位置するドラグニアの集落は、緑豊かな木々と巨石が調和した静謐な美しさをたたえている。ゴブリン王国の成金趣味な白亜の建築群とは異なり、自然の造形をそのまま活かした石造りの家々が整然と並び、澄んだ水路が街の至るところを巡っていた。街へ足を踏み入れると、通りを行き交う人々。同じ竜の角や尾を持つ者たちが、ベネットの姿を見つけて柔らかに微笑んだ。
「お帰りなさい、ベネット様」
「王都での生活、大変だったでしょう。ゆっくりしていってくださいね」
誰一人として、彼女を嘲笑う者はいない。ゴブリン王国で浴びせられた差別的で冷酷な視線とは正反対の、慈愛に満ちた温もりがここにはあった。ベネットは小さく頷き、静かに頭を下げながら、街の中心に聳えるドラグニア家の館へと歩みを進めた。重厚な木製の門をくぐり、庭園を抜けて玄関の扉を開ける。
「ただいま戻りました」
ベネットの声が響くと同時に、奥の部屋から足音が慌ただしく近づいてきた。
「ベネット!」
最初に姿を現したのは、弟のルシオン・ド・ドラグニアであった。まだ十代半ばの彼は、ベネットと同じ美しい銀髪を揺らし、その背中には小さな竜の翼を覗かせている。ルシオンは姉の無事な姿を見るなり、安堵と少しの怒りが混ざった表情で駆け寄ってきた。「本当に帰ってきたんだね! 王都から手紙が届いて……ゴブリンの王子が勝手な真似をしたって聞いたよ!」「ええ、ルシオン。戻りましたよ」「まったく、あんな緑色のちび共、僕たちが本気を出せば一捻りなのに……!」「ルシオン、そこまでにしなさい」落ち着いた、しかし重厚な声が廊下に響いた。現れたのは、ドラグニア竜王領の現当主であり、ベネットたちの父であるヴァルディス・ド・ドラグニアであった。筋骨隆々とした巨躯に、長年の苦労を滲ませる厳格な顔立ち。だが、その琥珀色の瞳には、娘に対する深い慈愛が宿っている。その後ろからは、母のエレノアと、姉のセレフィーナが静かについてきていた。エレノアは心痛に満ちた瞳で娘を見つめ、長身で知的な雰囲気を纏う姉のセレフィーナは、静かに腕を組んでベネットの様子を観察している。ヴァルディスはベネットの前に立ち、その太い手で娘の華奢な肩にそっと触れた。「ベネット……王宮での件、噂はすでに届いている。ジェナール王子が、ゴブリン貴族の娘と懇意になり、お前に婚約破棄を突きつけたというのは本当か?」父の問いかけに対し、ベネットは一瞬の迷いもなく、いつもの淡々とした調子で答えた。「はい、お父様。大勢の貴族の前で、はっきりと婚約を破棄されました。『薄汚い竜族は出て行け』と」あまりにも平然とした報告に、家族たちは一瞬息をのんだ。母エレノアは胸に手を当てて悲しげに目を伏せ、弟のルシオンは拳を強く握りしめて歯かみした。しかし、当事者であるベネットの表情には、悲壮感も屈辱の色も一切見当たらない。彼女は父の目をまっすぐに見つめ返し、確認するように尋ねた。「……私、もう王宮に行かなくていいんですよね?」その問いに含まれた切実な「安堵」の響きを、ヴァルディスは見逃さなかった。ゴブリン王国との政治的な均衡を保つため、弱小種族として耐え忍ぶために、ベネットに課していた不本意な婚約。それがどれほど娘の心を縛り付けていたかを察し、ヴァルディスは深く、重く頷いた。「……ああ。お前が望むのならな。二度と、あんな場所へ行く必要はない」「よかったです」ベネットの唇から、小さな吐息とともに言葉が漏れた。その顔には、王宮では決して見せることのなかった、どこか幼く晴れやかな笑みが浮かんでいた。「では、少し旅に出ます」「旅、かい?」母のエレノアが不思議そうに尋ねた。「はい。これまでずっと王宮と領地を往復するだけで、世界を自分の目で見たことがありませんでしたから。婚約がなくなったのなら、私の時間は私のものですよね。やりたいことを、少しだけしてみたいのです」家族たちは顔を見合わせ、やがて優しく微笑み合った。没落した竜族の未来という重圧を一人で背負わされ、不遇な扱いに耐えてきたベネット。彼女が初めて口にした「自分の望み」を、拒む理由などドラグニア家に存在するはずがなかった。「分かった。好きなだけ行ってくるといい」ヴァルディスは力強く頷いた。「ここはいつでもお前の家だ。疲れたら、いつでも帰ってくるがいい」その日の夜、ドラグニア家の館では、ベネットの帰還と新たな旅立ちを祝うささやかな夕食会が開かれた。食卓に並べられたのは、ゴブリン王国の王宮で出されるような毒々しく飾られた豪華絢爛な料理ではなく、ドラグニアの豊かな森と清流が育んだ素朴で滋味あふれる料理の数々であった。新鮮な大地の野菜、香ばしく焼き上げられた山鳥の肉、そして清冽な湧き水で仕込まれた果実酒。「ほら、ベネット。王都の食事はお前の口に合わなかっただろう? たくさん食べなさい」エレノアが優しく微笑みながら、ベネットの皿に大きな肉料理を盛りつける。「ありがとうございます、お母様」ベネットは料理を口に運び、目を細めた。素材の味がしっかりと活きた温かい味。王宮で冷ややかな視線を浴びながら味わう高級料理とは比較にならないほど、お腹の底から身も心も満たされていくのを感じた。「姉様、旅に出るなら僕も一緒に行くよ!」隣に座ったルシオンが、肉を頬張りながら身を乗り出してきた。「ダメよ、ルシオン」向かいに座る姉のセレフィーナが、優しくも毅然とした声で弟を制した。「ベネットは自分一人の自由な時間を過ごしたいの。貴方がついて行ったら、世話を焼かされて旅を満喫できないでしょう?」「そんなことないよ! 僕だって最近は槍術の腕が上がったんだから、姉様の護衛くらいできるよ!」「ふふ、ルシオンの気持ちは嬉しいですが、大丈夫ですよ」ベネットは弟の頭をそっと撫でた。ルシオンは少し照れくさそうに顔を赤らめながらも、嬉しそうに頷いた。「ルシオンが強くなってくれたら、私が留守の間もドラグニア領は安心ですね」「任せてよ! 僕が絶対にこの街とお父様たちを守ってみせるから!」胸を張る弟の姿に、家族全員から温かい笑い声が漏れた。食事を終えた後、ベネットは館の二階にあるバルコニーへ出た。夜風が静かに頬を撫で、満天の星々がドラグニアの深い森を静かに照らし出している。「ベネット」後ろから静かな足音が近づき、姉のセレフィーナが隣に立った。彼女の手には、温かいハーブティーが注がれた二つのカップがあった。「お姉様」「寒くはない?」「ええ、心地よい風です」セレフィーナはカップを一つベネットに手渡し、自分も一口含んでから、遠くの夜空を見つめた。「本当によかったわ。貴方が無事に戻ってきてくれて。ゴブリン王国の身勝手さには、怒りを通り越して呆れるばかりだけれど……貴方が傷ついていないなら、それが一番よ」「傷つく……でしょうか」ベネットは自分の胸に手を当て、首をかしげた。「私には、怒りも悲しみもよく分からないのです。ただ、あの場所がとても息苦しかったことと、ここに戻ってくると胸が温かくなること……それだけしか分かりません」セレフィーナは優しく目元を緩め、ベネットの銀髪にそっと触れた。「それでいいのよ。貴方は優しすぎるから……自分の中にある本当の大きさに、まだ気づいていないだけなのかもしれないけれど」「私の……大きさ?」「いいえ、何でもないわ」セレフィーナは首を振り、ベネットの肩に頭を預けた。「旅立つのは明日かしら?」「はい。朝一番の風に乗って出かけようと思います」「気をつけてね。貴方がどこに行こうと、このドラグニア領が……私たちが、いつでも貴方の帰る場所だから」
「……はい」
ベネットは小さく頷き、温かいカップを両手で包み込んだ。家族の温もり、豊かな自然の匂い、穏やかな夜の静けさ。このドラグニア竜王領という場所こそが、世界にただ一つ存在するベネットの絶対的な「帰る場所」であり、彼女の心の拠り所であった。明日からの旅に思いを馳せながら、ベネットは深く息を吸い込んだ。この時のベネットも、そして彼女を心から愛する家族たちも、誰も予感すらしていなかった。この穏やかな帰郷の夜が、そして家族とともに囲んだ温かい食卓が、ベネット・ド・ドラグニアの人生において、二度と戻ることのない「最後の平穏な時間」となることを。運命の歯車はすでに、残酷な音を立てて狂い始めていたのである。




