第一章 婚約破棄
白亜の石柱が幾重にも列をなし、天井には無数の魔導燈が燦然と輝くリューネゴブリン王国の貴賓謁見の間。そこは、世界で最も繁栄を極めた覇権国家の心臓部であり、圧倒的な経済力と政治力の象徴であった。豪奢な絨毯が敷きつめられた大ホールには、千を超えるゴブリン貴族や高官たちが詰めかけ、息をのむように中央の広場を注視している。彼らの瞳に宿っているのは、世界最大規模の勢力を誇る種族としての圧倒的な優越感と、眼前の存在に対する隠しきれない嘲笑と蔑視であった。その中央に、一人の少女がたたずんでいる。
竜人族の令嬢、ベネット・ド・ドラグニア。背中にまで届く透き通った銀髪と、吸い込まれるように深い蒼の瞳。白皙の皮膚は光を弾くように美しく、背後からは竜族の証である薄い鱗に覆われた尾が静かに垂れている。その立ち姿は洗練された気品に満ちていたが、周囲を取り囲む無数の緑色の肌のゴブリンたちから見れば、それはただの「滅びゆく弱小種族の遺物」に過ぎなかった。世界総人口約六十二億一千万人。そのうち、リューネゴブリン王国のゴブリン族が占める数は実に三十億六千万人。世界の人口の半分近くを占め、政治、経済、軍事、あらゆる領域で頂点に君臨する絶対的覇者である。対する竜人族――ドラグニア竜王領に肩を寄せ合って生きるその人口は、わずか一万二千人。三十億六千万人対一万二千人。両者の人口差はおよそ二十五万五千倍。個としての戦闘能力がどれほど優れていようとも、歴史の濁流と文明の規模、組織的な国家権力の前では、一万二千という数はあまりにも儚く無力であった。かつては世界の覇権を握ったと謳われる竜族も、今や八大国の中で政治的にも社会的にも完全に没落し、「全種族最弱の少数種族」と蔑まれるまでに落ちぶれていた。その「絶望的な格差」を象徴する出来事が、今まさにこの白亜の大ホールで繰り広げられようとしていた。大ホールの前段、一段高い金飾の壇上に立つ男が、豪奢な衣装の胸元を押しひらきながら高らかに声を張り上げた。
リューネゴブリン王国第一王子、ジェナール・ド・シンフォニーである。端正な顔立ちを誇りつつも、全身を覆う鮮やかな緑色の皮膚と傲慢な笑みが、彼の種族優越意識を如実に物語っていた。その隣には、桃色の絢爛なドレスに身を包んだゴブリン貴族の令嬢、ジャネット・ネアンフォルトがぴたりと寄り添っている。ジェナールは眼下にたたずむベネットを見下ろし、嘲笑を浮かべながら右手を突きつけた。その声は魔導の拡声器を通じて、大ホールの隅々にまで響き渡る。「ベネット・ド・ドラグニア! お前との婚約を、本日この場をもって破棄する!」静寂が支配していた謁見の間に、どっと波のような歓声と嘲笑が広がった。ゴブリン貴族たちは口々に扇を打ち鳴らし、顎を鳴らして笑い転げる。彼らにとって、第一王子が没落した竜族の令嬢などを妻に娶る必要などどこにもなかったのだ。ジェナールの腰にそっと手を回したジャネットが、勝ち誇ったように前へ歩み出た。彼女の甲高い声が、静寂を取り戻しつつあるホールに響き渡る。「お聞きになりましたか、皆様! 薄汚い竜族は、ここから出て行きちなさい! 過去の竜族の権威は、もはやありませんわ!」ジャネットは尖った耳を揺らし、蔑むような眼差しでベネットを指さした。「今や全種族最弱なんですものね。ふふっ、身の程を知りなさいな!」大ホールを埋め尽くす千を超えるゴブリンたちの罵詈雑言。侮辱と嘲笑の嵐が、少女一人に対して容赦なく浴びせかけられる。普通ならば、屈辱に涙を流し、あるいは激昂して取り乱す場面であった。
しかし――ベネットの表情には、激動の波など微塵も浮かんでいなかった。彼女の深い蒼の瞳は、まるで静まり返った湖面のように凪いでいる。眉一つ動かさず、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、静かに二人を見つめ返していた。怒りも、悲しみも、悔しさすらない。ただ、あまりにも透き通った無の境界。ベネットにとって、ジェナールとの婚約は、没落したドラグニア家が社会的な立場を保つために結ばされた形式的な取り決めに過ぎなかった。週に一度与えられる不快な面会と、ゴブリン族の選民思想を聞かされ続ける苦痛の日々。それらが今、完全に終わりを告げたのだと、彼女は淡々と理解していた。「……婚約がなくなった。では、好きなことをしてもいいということですね」ベネットは小さく、しかし通りやすい声で呟いた。その声には何の未練も含まれていない。あまりにも拍子抜けな言葉に、勝ち誇っていたジェナールの顔がわずかに引きつった。激昂し、地を這って哀願する姿を期待していた彼の自尊心が、予想外の無反応によって肩透かしを喰らったのだ。ジェナールは眉をひそめ、不快感を露わにして怒鳴りつけた。「好きなことだと? お前に許されているのは、国から出ていくことだけだ!」「わかりました」ベネットは深く追及することもなく、短くそう応じた。そして、礼儀正しく静かに一礼を捧げると、未練など一切残さずクルリと背を向けた。カツン、カツンと、彼女の靴音が白亜の床に響く。嘲笑と蔑視の視線を向けてくるゴブリン貴族たちの間を、彼女は何の気負いもなく通り抜けていく。重厚な王宮の扉がゆっくりと開き、外の眩しい陽光が彼女の銀髪を黄金色に照らし出した。王宮を出たベネットは、青く澄み渡る大空を見上げた。
(もう、あの退屈な場所へ通わなくてもいいのですね……)
胸の奥に広がるのは、ただ爽快な自由の予感だけであった。ゴブリンたちが誇る「三十億の数」も、「世界最大国家の権威」も、彼女にとっては風の音と同義であった。なぜなら、彼女にとって「自分が全種族最弱の竜族である」という社会の認識は、子供の頃から当たり前に受け入れてきた前提に過ぎなかったからだ。しかし、この場にいた何一人として、知る由もなかった。三十億の人口と絶対的な社会システムを誇るゴブリン王国の王子も。高慢な態度で彼女を見下した貴族の令嬢も。世界を支配する大国の人々も。今まさに王宮を去ったその少女こそが、極限まで精練された竜の血脈の頂点に立ち、過去すべての古竜すら遥かに凌駕する「竜族史上最強」と呼ばれる存在であることを。彼女が本気を出せば、爪の一撃で山脈が蒸発し、一息で王都を包む無数の魔導障壁が粉微塵に瓦解すること。その絶対的な力が解き放たれた時、三十億という数の威容など、ただの砂の城に過ぎなくなるという事実に、まだ誰も気づいていなかった。ベネットはただ静かに、故郷であるドラグニア竜王領を目指して歩み出した。風になびく銀髪の奥で、彼女の蒼い瞳が、僅かに静かな輝きを宿していた。




