戻る戻らない
歩いた。
ひたすら歩いた。
街道は使わない。人に見つからないよう、道から外れ、草むらや林の中を進んだ。
母さんも僕も、ほとんど話さなかった。何を話せばいいのか分からなかった。
昨日まで、学校へ行って、家に帰って、母さんたちとご飯を食べていた。
そんな毎日が、これからもずっと続くと思っていた。
それなのに今は、生まれ育った国から逃げている。
歩いて。
歩いて。
太陽が傾き始めた頃、ようやく母さんが足を止めた。
「今日はここまでにしましょう」
目の前には森が広がっていた。
奥深くまで入るわけではない。外から姿が見えなくなる程度まで進み、大きな木の陰に腰を下ろす。
母さんは鞄から小さな石を取り出した。
「それ、なに?」
「結界石よ」
石を地面に置く。
「弱い魔物なら、これがある間は近づいてこないわ」
「そんなもの持ってたんだ」
「念のためにね」
母さんはようやく鞄を下ろした。
「ここまで来れば、一旦は大丈夫でしょう」
僕もその場に座り込む。
街道からは大きく外れている。途中からは草の上を歩いてきた。
ここからなら、どの方向へでも逃げられる。
こんな広い場所から僕たち二人を見つけるなんて、簡単なはずがない。
「……逃げられたのかな」
「ええ」
母さんが笑った。
「きっと大丈夫よ」
鞄から乾パンを取り出し、僕に差し出す。
「今日はこれだけで我慢して」
「うん」
受け取ってかじった。
固い。
朝に食べたパンとは全然違う。それでも、お腹が空いていたから全部食べた。
「明日は?」
「朝早く起きて、また歩くわよ」
「どこまで?」
「できるだけ遠くまで」
母さんにも、行き先は分からないらしい。
「大丈夫」
母さんが僕の頭を撫でる。
「絶対に何とかするから」
「……うん」
母さんに抱かれるようにして横になる。
でも、すぐには眠れなかった。
「母さん」
「なに?」
「父さん……大丈夫かな」
母さんの腕が、一瞬だけ止まった。
父さんには何も言わずに出てきた。あんなに急だったのだ。伝える時間なんてなかった。
「家に帰って、僕たちがいなかったら驚くよね」
「…………」
「今頃、探してるかな」
「そうね」
母さんはそれだけ答えた。
「父さんも逃げてくればいいのに」
「…………」
「あとで会えるよね?」
しばらく返事がなかった。
僕が顔を上げようとすると、母さんがもう一度強く抱きしめた。
「今は寝なさい」
「でも――」
「明日もたくさん歩くから」
「……うん」
それ以上、聞くことができなかった。
父さん。
今、何してるんだろう。
僕たちのことを心配しているだろうか。それとも、もう僕たちを探しているだろうか。
また会えたら、ちゃんと謝ろう。
何も言わずに出てきてごめんって。
そんなことを考えながら目を閉じた。
疲れていたのだろう。
いつの間にか、眠っていた。
◇
鳥の鳴き声が聞こえた。
「……ん」
目を開ける。
昨日とは違う木々。少し冷たい朝の空気。
そして。
「…………え?」
黒。
僕たちを囲むように、黒い制服を着た者たちが立っていた。
一瞬で眠気が消えた。
その制服を知らない者は、この国にはほとんどいない。
「風紀兵……」
国の秩序を守る風紀軍。
その中でも、実際に取り締まりや捕縛を行う者たちが風紀兵だ。
普通の兵士とは違う。軍務職の中でも優秀な者が選ばれると聞いている。
「母さん……!」
母さんも起きていた。
僕を抱き寄せる。
風紀兵たちの中から、一人の男が前へ出た。
大きい。
周囲の風紀兵より、頭一つ以上高かった。
ねずみ色の髪。
ねずみ色の髭。
大男なのに、不思議なくらい静かだった。
他の風紀兵たちは呼吸に合わせてわずかに体が動いている。
でも、その男だけは違う。
ただ立っている。
まるで、そこに大きな岩でも置いてあるようだった。
「おはよう」
男が言った。
「いい夢は見られたか?」
「…………」
「寝ているところを起こすのもかわいそうだからな」
男は少し笑った。
「朝まで待ってやった」
「どうして……」
母さんが僕を強く抱く。
「どうして、ここが……」
「仕事だからな」
それだけだった。
「帰るぞ」
男が言う。
母さんが首を振った。
「嫌です」
「そうか」
「この子だけは……」
母さんは僕を抱いたまま後ずさる。
「この子だけは、お願いします」
「母さん……」
「この子は何も知りません。私が勝手に連れ出したんです」
男は答えない。
「だから、この子だけは――」
一瞬。
目の前を何かが横切った。
「え?」
さっきまで数歩先にいた大男が、母さんのすぐ横に立っていた。
いつ動いたのか、まったく見えなかった。
「母さん!」
母さんの片方の手首が掴まれる。
そのまま軽々と持ち上げられた。
「っ……!」
それでも母さんは、反対の腕で僕を離さなかった。
「お願いします!」
「離して!」
僕は男の腕を叩く。
びくともしない。
「この子には何もしないで!」
母さんが叫ぶ。
「子どもには危害を加えない。それが決まりでしょう!」
その言葉を聞いて、男が止まった。
「ああ」
あっさりとうなずく。
「そうだな」
「だったら!」
「少し待て」
男は空いている手を懐へ入れた。
一冊の小さな本を取り出す。
「……本?」
男は母さんを掴んだまま、本を開いた。
ぱらぱらとページをめくる。
「国外逃亡……保護対象……」
何をしているんだ。
「あった」
男の指が止まる。
「子どもへの処罰は禁止」
「だったら――」
「ただし、再逃亡のおそれがある場合は、必要な措置を取ることができる」
「……え?」
男はさらに下へ目を動かした。
「保護者に問題がある場合、保護者の行動を制限する。子どもには国への奉仕を命じる」
本を閉じようとして、男の手が止まった。
「……ん?」
もう一度、数ページ戻る。
そこには僕の名前が書かれていた。
「学校の適性記録か」
「え?」
男は僕と本を交互に見る。
「手先の精密性、高。空間把握、高。加工実習、学年上位」
何の話をしているのか、すぐには分からなかった。
「生産適性が高いな」
男は小さくうなずく。
「なら、なおさら殺す理由はない」
「殺すって……」
背筋が冷たくなる。
男は何でもないことのように続けた。
「使える人材を捨てるのは無駄だ」
「この子は物じゃありません!」
母さんが叫ぶ。
男は母さんを見る。
「知っている」
そして、また僕を見る。
「だから働いてもらう」
「嫌だ!」
「嫌でもだ」
僕は首を振った。
「もう逃げない! 本当だ!」
「そうか」
「だから母さんも――」
「だが、また走って逃げられると面倒だ」
男の手が腰へ伸びる。
剣が抜かれた。
「……え?」
母さんが僕を強く抱きしめる。
「やめて!」
「安心しろ」
男は言った。
「お前の手は傷つけない」
その言葉の意味を理解するより早く、刃が動いた。
「っ――!」
脚に焼けるような痛みが走る。
力が抜け、その場に倒れた。
「痛い……!」
「やめて! この子に何をしたの!」
母さんの声が聞こえる。
脚に力を入れようとしても、うまく動かない。
男は剣を収めた。
「これなら遠くまでは逃げられない」
「子どもには危害を加えないって……!」
「ああ」
男は手にした本を軽く叩いた。
「命は取っていない」
「そんな……」
男は僕の手を見る。
「脚が使えなくても、こいつには手がある」
「…………」
「それに、この適性なら生産職で十分に役に立つ」
昨日まで。
軍務職と生産職。
どちらにしようか迷っていた。
でも。
僕の進路は、もう決まったらしい。
◇
僕たちは国へ連れ戻された。
家もそのままだった。
家具も。
僕の部屋も。
食卓も。
何も変わっていない。
ただ一つ。
父さんだけが、いなくなっていた。
「父さんは?」
帰ってすぐに聞いた。
母さんは答えなかった。
「仕事?」
「…………」
「僕たちを探しに行ったの?」
「…………」
「母さん」
何度聞いても、答えてくれなかった。
風紀兵にも聞いた。
そんな人間は知らないと言われた。
近所の人にも聞いた。
「父さんのこと、知りませんか?」
「お父さん?」
「うちに住んでた父さんです」
相手は不思議そうに首をかしげた。
「あなたの家は、ずっとお母さんと二人でしょう?」
「……え?」
「お父さんなんて、最初からいないじゃない」
別の人にも聞いた。
「そんな人、この辺りにはいなかったよ」
また別の人にも。
「人違いじゃないの?」
誰に聞いても同じだった。
父さんなんて、最初から存在していない。
みんな、そう言った。
「…………」
でも。
僕は覚えている。
父さんの顔も。
声も。
食卓で座っていた場所も。
全部覚えている。
それなのに。
父さんがいた証拠は、何一つ残っていなかった。
◇
それから年月が過ぎた。
僕は学校を卒業した。
進んだのは、生産職だった。
あの日から、脚は完全には元に戻らなかった。
ゆっくりなら歩ける。
でも、走ることはできない。
軍務職にはなれなかった。
だから、生産職になった。
最初は、そう思っていた。
でも実際に働き始めると、少し違った。
僕は物を作るのが得意だった。
教えられた形を覚えるのが早く、寸法のわずかな違いにも気づくことができた。
同じ部品を百個作っても、ほとんど大きさがずれなかった。
働き始めてしばらくすると、簡単な作業ではなく、武器の仕上げを任されるようになった。
◇
朝。
目を覚ます。
最初にすることは、昔と変わらない。
体を起こし、両手を合わせる。
「今日も一日を過ごせることに、シキ様、感謝します」
祈りを終え、ゆっくりと立ち上がる。
脚に少し力を入れる。
大丈夫。
今日も歩ける。
部屋を出る。
「おはよう」
「おはよう」
母さんが朝ごはんを並べていた。
昔と同じだ。
「今日も仕事?」
「うん」
「そう」
母さんが笑う。
にっこりと。
でも、昔の笑顔とは違った。
口元は笑っている。
なのに、その笑顔には力がない。
「朝ごはん、食べていきなさい」
「うん」
二人で食卓につく。
父さんが座っていた椅子は、もう置かれていなかった。
母さんは今も、一人で家から出ることができない。外へ出るには許可が必要だ。
だから僕が仕事へ行けば、母さんは一日中ここにいる。
僕たちは手を合わせる。
「この恵みを分けてくださり、ありがとうございます。シキ様」
「ありがとうございます。シキ様」
祈りを終える。
「いただきます」
母さんが作った朝ごはんを食べる。
昔と同じ味だった。
食べ終わると、仕事着に着替える。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母さんがまた笑った。
力のない笑顔で。
僕も笑い返して、家を出た。
向かう先は学校ではない。
工場だ。
僕はそこで武器を作っている。
剣。
槍。
矢じり。
軍務職の人たちが使う武器だ。
工場へ入る。
「おはようございます」
「おう。来たか」
年上の職人が僕を見つけると、すぐに手招きした。
「昨日のお前の矢じり、検査を全部通ったぞ」
「本当ですか?」
「ああ。百本全部だ」
思わず顔が明るくなる。
「最近のお前、失敗がほとんどないな」
「ありがとうございます」
「次からはこっちを任せる」
渡されたのは、今までより複雑な部品だった。
「僕がですか?」
「お前ならできる」
近くにいた別の職人も笑う。
「若いくせに、もう俺たちより細かい仕事が上手いからな」
「それは言いすぎですよ」
「言いすぎじゃないさ」
少し照れくさかった。
自分の手を見る。
脚は速く動かない。
長い距離を歩くのも得意ではない。
でも、この手は動く。
そして、この手で作ったものを必要としてくれる人がいる。
「よし」
椅子に座り、工具を手に取る。
今日も仕事が始まる。
僕は生産職だ。
この国を支えるために。
今日も武器を作る。




