空席
授業が終わると、教室は一気に騒がしくなった。
「軍務職にする?」
「まだ迷ってる」
「俺、父ちゃんに聞いてみるわ」
みんなが進路選択の紙を鞄にしまい、次々と教室を出ていく。
僕も帰ろうとして、ふと足を止めた。
教室の隅に、一人だけ席を立たない生徒がいた。
机の上には、さっき配られた進路選択の紙が置かれている。
『軍務職』
『生産職』
どちらにも印はついていない。
そいつは、みんなから変わり者と呼ばれていた。
いつも大きな瓶底眼鏡をかけ、制服の上からフードを深くかぶっている。顔の半分以上が隠れているせいで、何を考えているのかよく分からない。
普段から誰かと話しているところも、ほとんど見たことがなかった。
でも今日は、いつも以上に様子がおかしかった。
歴史の授業が始まってから、ずっと下を向いたままなのだ。
「おい」
声をかける。
返事はない。
「帰らないの?」
ようやく顔を上げた。
瓶底眼鏡の奥から、僕を見る。
そして、フードの影の下で口元だけが少し持ち上がった。
不敵な笑みだった。
「知らない奴はいいよな」
「……何が?」
「何も知らないでいられるって、幸せだよな」
「なんだよ、それ」
少し腹が立った。
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言えよ」
「言ったって信じないだろ」
「言ってみないと分からないだろ」
「先生の話を全部信じてるような奴が?」
「は?」
思わず声が大きくなる。
「先生が嘘を教えてるって言いたいのか?」
「ほらな」
そいつは鼻で笑った。
「やっぱり、いい子ちゃんだ」
「なんだよ!」
「そんなに知りたいなら、このあと空き教室に来いよ」
「空き教室?」
「ああ。教えてやるよ」
そいつは椅子から立ち上がった。
「まあ、いい子ちゃんには来られないかもしれないけどな」
「行くよ!」
完全に売り言葉に買い言葉だった。
「ただ、先生に頼まれてることがある。それが終わってから行くからな」
「好きにしろ」
そう言うと、そいつは鞄を持って教室を出ていった。
◇
先生に頼まれていたのは、大した仕事ではなかった。
教材を別の教室へ運んだり、使い終わった紙を片付けたりするだけだ。ただ、思っていたより時間がかかった。
「これで全部ですか?」
「ええ。ありがとう。助かったわ」
「じゃあ、帰ります」
時計を見る。
三十分ほど経っていた。
「まずい」
待たせている。
急いで約束した空き教室へ向かった。
扉を開ける。
「悪い、遅くなった!」
返事はない。
「……あれ?」
教室には誰もいなかった。
「おーい?」
机の間を歩いてみるが、もちろん誰もいない。
「トイレでも行ってるのかな」
少し待ってみることにした。
五分。
十分。
それでも来ない。
「なんだよ。自分から呼び出しておいて」
帰ろうとしたときだった。
机の横に、小さく折られた紙が落ちているのが見えた。
「なんだ、これ」
拾い上げ、何となく気になって開いてみる。
そこには、短い一文だけが書かれていた。
『歴史は変わる』
「…………」
それだけだった。
「どういう意味だよ」
表も裏も見てみる。
他には何も書かれていない。
あいつが落としたものなのだろうか。
歴史。
さっきの授業のこと?
考えても分からなかった。
紙を鞄に入れる。
結局、その日。
あいつが空き教室に来ることはなかった。
◇
次の日。
教室へ入った僕は、真っ先にあいつの席へ向かった。
「昨日なんで――」
言葉が止まる。
「……え?」
席がない。
机も、椅子も、何もない。
昨日まであいつが座っていた場所だけが、ぽっかりと空いている。
「……あれ?」
場所を間違えた?
いや、そんなはずはない。
昨日、確かにここに座っていた。
近くにいたクラスメイトへ声をかける。
「なあ、ここの席どうした?」
「席?」
「ほら、昨日ここに座ってた奴」
「誰?」
「誰って……あいつだよ」
「どいつ?」
「ほら、大きな眼鏡かけて、いつもフードかぶってる変わった奴」
相手は不思議そうな顔をした。
「そんな奴いた?」
「……は?」
「そこ、最初から空いてるだろ」
「いやいや、昨日いたって!」
「何言ってんの?」
冗談だと思った。
別の子にも聞いてみる。
「なあ、あいつ今日休み?」
「あいつって?」
「昨日までここに座ってただろ。瓶底眼鏡の」
「知らないけど」
「フードかぶってた奴だよ!」
「そんな子、このクラスにいた?」
誰に聞いても同じだった。
知らない。
そんな生徒はいない。
最初から、その席は空いていた。
「…………」
頭がおかしくなりそうだった。
授業が始まっても、先生の話がまったく頭に入ってこない。
昨日、確かに話した。
空き教室へ呼ばれた。
あの紙だってある。
昼休み。
迷った末、先生のところへ向かった。
「先生、ちょっといいですか?」
「どうしました?」
「このクラスにいた子のことなんですけど……」
先生は首をかしげる。
特徴を説明した。
大きな瓶底眼鏡。
いつも深くかぶっていたフード。
昨日まで座っていた場所。
昨日、僕と話していたこと。
全部話した。
でも。
「そんな生徒、このクラスにはいませんよ」
「……え?」
「名簿にもいません」
「でも、昨日いたんです!」
「落ち着いて」
先生は困ったように笑った。
「他の誰かと勘違いしているんじゃないですか?」
「そんな……」
教室へ戻る。
空いた場所を見る。
机はない。
名簿にもいない。
クラスのみんなも知らない。
先生も知らない。
まるで、最初から存在していなかったみたいに。
昨日拾った紙の言葉を思い出す。
『歴史は変わる』
「…………」
急に気分が悪くなった。
その言葉の意味なんて分からない。
でも、どうしてか怖かった。
僕は先生にも何も言わず、そのまま学校を出た。
◇
「ただいま……」
家へ入る。
「え?」
母さんが驚いた顔でこちらを見た。
「どうしたの? こんな時間に」
「…………」
「具合悪い?」
「分からない」
母さんはしばらく僕の顔を見ていた。
「とりあえず座りなさい」
食卓の椅子に座る。
母さんがお茶を入れてくれた。
「ゆっくりでいいから。何があったの?」
話そうとした。
でも、うまく言葉にならない。
「昨日……学校で……」
「うん」
「変わった奴がいて」
少しずつ話した。
昨日、歴史と進路の授業があったこと。
いつも変わり者と呼ばれていた生徒が、おかしなことを言い始めたこと。
空き教室に呼び出されたこと。
先生に頼まれた仕事を終えてから行くと、誰もいなかったこと。
そこで『歴史は変わる』と書かれた紙を拾ったこと。
そして今日。
学校へ行くと、そいつの机がなくなっていたこと。
「みんな知らないって言うんだ」
声が震える。
「先生も。クラスのみんなも。最初からそんな奴はいなかったって」
母さんは黙ったまま聞いていた。
「僕が変なのかな」
「…………」
「本当は、そんな奴いなかったのかな」
自分でも分からなくなってきた。
「僕の頭がおかしくなったのかな」
母さんは何も答えない。
顔を上げると、いつの間にか母さんの顔から笑顔が消えていた。
「……その話」
「え?」
「誰かにした?」
「ここが初めてだよ」
母さんが小さく息を吐く。
「本当に?」
「うん……あ」
思い出した。
「先生には聞いた」
その瞬間、母さんの顔色が変わった。
「先生に?」
「う、うん」
「いつ?」
「今日の昼休み」
母さんが勢いよく立ち上がった。
「母さん?」
返事をせず、奥の部屋へ向かう。
「どうしたの?」
追いかけると、母さんは大きな鞄を引っ張り出していた。
服。
食べ物。
水。
金。
必要そうなものを次々と詰め込んでいく。
「母さん、何してるの?」
「ここを出るわよ」
「……え?」
「今日。今から」
「ちょっと待ってよ。なんで?」
母さんの手が一瞬止まった。
「私もね」
小さな声だった。
「あなたくらいの頃、同じことがあったの」
「同じこと?」
「同じクラスの子が、突然いなくなった」
僕は何も言えなかった。
「次の日には机がなくなっていた。先生も友達も、その子のことを覚えていなかった」
「…………」
「でも、覚えていた子がもう一人いたの」
母さんは荷物を詰めながら話し続ける。
「私と、その子だけ」
「じゃあ……」
「その子は先生に聞きに行ったわ。どうして誰も覚えていないのかって」
母さんの手が震えていた。
「そして次の日」
鞄の口を閉じる。
「その子もいなくなった」
「……え?」
「机も消えた。みんなの記憶からも」
「じゃあ、母さんは……」
「怖くて何も言えなかった」
母さんはこちらを見る。
「だから残った」
初めて見る顔だった。
いつも笑っている母さんとは違う。
本気で怯えていた。
「あなたは先生に話してしまった」
「…………」
「もう時間がない」
母さんは鞄を背負うと、僕の手を握った。
「行くわよ」
「どこに?」
「どこでもいい」
母さんは扉を見る。
「ここじゃない場所へ」
◇
僕たちは家を出た。
できるだけ普通に歩く。
走れば怪しまれる。
母さんはそう言った。
街を抜け、国の外へ続く門へ向かう。
いつもなら何とも思わない門が、今日はとても大きく見えた。
「止まってください」
門番に声をかけられる。
心臓が跳ねた。
「どちらへ?」
母さんは笑った。
「少し外へ。この子とピクニックに行こうと思って」
「こんな時間から?」
「ええ。少し散歩も兼ねて。夕方には戻ります」
門番が僕たちを見る。
僕は何も言えなかった。
しばらくして。
「分かりました。お気をつけて」
「ありがとうございます」
門が開く。
母さんに手を引かれ、その下を通る。
一歩。
また一歩。
門を抜けた。
振り返らない。
母さんも何も言わない。
僕たちはそのまま歩き続けた。
生まれてからずっと暮らしてきた国を、初めて後ろに残して。




