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海の下で

嵐は、1週間続いた。


 魔の海域へ踏み込んだ直後から、海はそれまでとはまるで違う姿を見せた。


 空を覆い尽くす黒い雲。


 絶え間なく吹きつける強風。


 船よりも高く見えるほど持ち上がった波が、次々と艦隊へ押し寄せる。


 旗艦の船首が、大きく持ち上がった。


 直後。


 船体が、谷へ落ちるように沈み込む。


「来るぞ!」


 ズズの声が響いた。


 次の瞬間。


 どおん、と腹に響くような音を立て、巨大な波が船首へ叩きつけられた。


 大量の海水が甲板へ流れ込む。


「掴まれ!」


「流されるな!」


 船員たちは、近くの縄や手すりへ必死にしがみついた。


 甲板を覆った海水が、人の足をさらう勢いで流れていく。


 そして、そのまま反対側から海へ落ちた。


「帆を張りすぎるな!」


 ズズが怒鳴る。


「上の帆を畳め! 下だけ残せ!」


「急げ!」


 船員たちが必死に縄を引いた。


 この風をまともに帆で受ければ、帆柱そのものが折れかねない。


 帆を小さくする。


 そして、できる限り船首を波へ向ける。


 波を真横から受ければ、これほどの大型船であっても転覆する危険があった。


「右へ少し!」


「舵、右!」


「もっとだ!」


 提督の指示を受け、船員たちが舵を動かす。


 巨大な船体が、ゆっくりと向きを変えていった。


 普段なら、何でもない動きだ。


 だが、嵐の中では何をするにも時間がかかる。


 波に持ち上げられる。


 風に押される。


 船が思うような方向へ進んでくれない。


「後続は!」


 提督が叫ぶ。


「ついてきています!」


 ズズが振り返った。


 激しい雨の向こう。


 時折、雷が光るたびに、後続の船影が浮かび上がる。


 大きく揺れながらも、まだ隊列は崩れていない。


「そうか!」


 提督は笑った。


「なら、このまま抜けるぞ!」


     ◇


 1日目。


 船員たちには、まだ余裕があった。


 都市国家の船乗りたちは、荒れた海を何度も渡ってきた者たちだ。


 荒天そのものは、決して珍しくない。


「こんなもんか!」


「魔の海域っていうから、もっとすげえのを想像してたぜ!」


「これなら楽勝だな!」


 そんな声すら聞こえていた。


 だが。


 2日目。


 そして、3日目。


 嵐は弱まらなかった。


 それどころか、時間が経つほど激しくなっているようにすら感じられた。


 雨は止まない。


 風も止まない。


 波も、次から次へと押し寄せる。


 船員たちは交代で休みを取った。


 だが、横になったからといって眠れるわけではない。


 船は絶えず上下に揺れている。


 木材が軋む音。


 風が帆や縄を叩く音。


 巨大な波が船体へぶつかる音。


 甲板を走り回る船員たちの声。


 ようやく眠りにつけたとしても、大きな波が来ればすぐに目を覚ましてしまう。


「交代だ!」


「まだ動ける!」


「馬鹿言え! 倒れてからじゃ遅い!」


「下へ行け! 次は俺たちだ!」


 疲れている者を無理やり休ませる。


 休んだ者が戻ってくれば、今度は別の者が甲板を降りる。


 それを、昼も夜も繰り返した。


     ◇


 5日目。


 提督は甲板に立ち、周囲を見渡していた。


 船員たちの顔から、最初の頃の笑顔は完全に消えている。


 怪我人は、それほど多くない。


 病人も少ない。


 それでも。


 明らかに、皆の動きが鈍くなっていた。


 縄を引く速度。


 帆柱を登る速度。


 声を掛け合う回数。


 何をするにも、少しずつ時間がかかる。


「疲れてるな」


 提督が呟いた。


「当然です」


 隣に立つズズも、目の下に濃い隈を作っている。


「もう5日ですから」


「お前も寝てこい」


「提督に言われたくありません」


「俺は寝てるぞ」


「昨日は何時間です?」


「……2時間くらいか?」


「私より少ないではありませんか」


 提督は笑った。


「まだ動ける」


「皆、それを言うのです」


 ズズがため息をつく。


 そして。


 少しだけ声を落とした。


「……魔物は出ませんね」


 その言葉に、提督の笑みが消えた。


「ああ」


 嵐へ入ってからずっと。


 彼らは、もうひとつの恐怖を抱えていた。


 ――魔物。


 船を沈めるほど巨大な何かが、この雨の向こうから突然現れるのではないか。


 海の底から浮かび上がり、船体へ体当たりしてくるのではないか。


 そう考えるたび、提督も無意識に海面を見ていた。


 だが。


 5日経っても。


 魔物は1体も現れていない。


「本当にいるんでしょうか」


「さあな」


 調査船が帰ってこなかった。


 それだけは事実だ。


 だが、原因が魔物だという証拠はない。


「嵐に沈められただけだったりしてな」


「あり得なくはありません」


 ズズは荒れ狂う海を見た。


「調査に使われたのは、小さな船でしたから」


「だったら笑い話だな」


 提督は鼻を鳴らす。


「魔物がいる、魔物がいるって何年も怖がって……実際はただの嵐でした、ってか」


 だが。


 そう言いながらも、警戒を解くことはなかった。


 まだ、魔の海域を抜けたわけではない。


     ◇


 7日目。


 最初に変化へ気づいたのは、帆柱の上にいた見張りだった。


「前方!」


 声が響く。


「空が明るいぞ!」


 提督が顔を上げた。


「何?」


 激しい雨で霞む前方へ目を凝らす。


 最初は、何も分からなかった。


 だが。


 黒い雲の向こう。


 ほんのわずかに。


 白い光が見える。


「ズズ!」


「見えています!」


 ズズが海図を開いた。


「このままです! 進路を変えないでください!」


「聞いたな!」


 提督が甲板へ叫ぶ。


「全員! もうひと踏ん張りだ!」


「おおおおおっ!」


 甲板から声が上がった。


 疲れ切っていた船員たちが、再び縄を握る。


 帆を調整する。


 舵を保つ。


 少しずつ。


 本当に、少しずつ。


 空が明るくなっていく。


 雨が弱くなる。


 風が穏やかになる。


 黒い雲の切れ目が、だんだんと大きくなっていった。


 そして――。


 船が、大きな波を乗り越えた。


 船首が持ち上がる。


 次の瞬間。


 その先に広がっていたのは。


 青空だった。


「……抜けた」


 誰かが呟いた。


 一瞬。


 甲板が、静まり返った。


 誰もが空を見上げている。


 眩しいほどの陽光。


 白い雲。


 穏やかな海。


 そして。


「抜けたぞおおおおおっ!」


 大歓声が上がった。


「やった!」


「魔の海域を越えたぞ!」


「魔物なんていなかったじゃねえか!」


「生きてるぞ!」


 船員たちが抱き合う。


 拳を空へ突き上げる。


 中には、帽子を空高く投げる者までいた。


 提督は、後ろを振り返った。


 黒い嵐の壁を抜けるように、後続の軍船が次々と姿を現していく。


 1隻。


 2隻。


 3隻。


 船体に傷を負ったものもある。


 帆の一部が破れている船もあった。


 帆柱が傾いている船さえ見える。


 それでも。


 沈んだ船はなかった。


「全部いるか?」


 提督が尋ねる。


 ズズが、後続の船をひとつずつ確認していく。


 しばらくして。


「……はい」


 ズズの顔に。


 久しぶりの笑みが浮かんだ。


「全艦、確認できました」


「そうか!」


 提督は大きく息を吐いた。


 胸の奥に1週間溜まり続けていたものが、一気に抜けていくようだった。


「ははっ!」


 思わず笑いがこぼれる。


「何が魔の海域だ!」


 周囲の船員たちも笑った。


 1週間。


 確かに、激しい嵐だった。


 決して楽な航海ではない。


 だが。


 都市国家の艦隊を沈めるには至らなかった。


 そして。


 何より恐れていた魔物も、結局1体も現れなかった。


「王国の商船でも越えられる海だ」


 提督は晴れ渡った空を見上げる。


「俺たちが越えられねえわけがないよな!」


 再び、歓声が上がった。


     ◇


「今日は休ませましょう」


 ズズが言った。


「ああ」


 提督にも異論はなかった。


 船員たちは限界に近い。


 この状態で王国の艦隊と遭遇すれば、いくら戦力で勝っていたとしても、思わぬ損害が出るかもしれない。


「最低限の見張りだけ残せ」


「はい」


「船体、帆、舵も全部確認しておけ。壊れてるところがあるなら今日中に直せ」


「承知しました」


「明日の朝に出る」


「はい」


 提督は少し考えたあと。


 付け加えた。


「それと」


「はい?」


「酒を出せ」


 ズズが目を瞬かせる。


「……よろしいので?」


「今日くらいはいいだろ」


 提督は笑った。


「魔の海域を越えた祝いだ」


 その言葉は。


 瞬く間に、船内へ広がった。


     ◇


 その夜。


 旗艦の甲板には、久しぶりに笑い声が響いていた。


「乾杯!」


「魔の海域突破に!」


「王国なんざ、もうすぐそこだ!」


「明日から暴れてやるぞ!」


 酒杯がぶつかる。


 干し肉や保存食が甲板へ並べられていた。


 豪華な宴ではない。


 新鮮な肉も、果物もない。


 だが。


 1週間の嵐を耐え抜いた船員たちにとっては、それで十分だった。


 別の船からも、同じような歓声が聞こえてくる。


 提督も酒杯を片手に、その光景を眺めていた。


「明日からが本番ですよ」


 ズズが言う。


「分かってるよ」


「皆にも飲ませすぎないでください」


「分かってるって」


「本当でしょうね」


「お前は俺の母親か」


 2人は笑った。


 やがて。


 1人。


 また1人と。


 船員たちは甲板を離れていった。


 嵐の疲労は、酒を飲んだからといって消えるようなものではない。


 むしろ。


 気が緩んだ途端、一気に疲れが押し寄せてきた。


 横になった者から、吸い込まれるように眠りへ落ちていった。


     ◇


 深夜。


 艦隊は静まり返っていた。


 甲板に残っているのは、決められた見張りだけ。


 波は穏やかだった。


 風も弱い。


 月明かりが、静かな海面を照らしている。


 見張りの男が、大きなあくびをした。


「……平和なもんだ」


 隣の男が笑う。


「魔物もいなかったしな」


「あんな噂、誰が言い始めたんだろうな」


「さあな」


「調査船も、あの嵐に沈んだだけだったのかもな」


「たぶんな」


 2人は、ぼんやりと海を眺める。


 何も見えない。


 何も聞こえない。


 ただ。


 小さな波が船体へ当たり、ちゃぷり、ちゃぷりと音を立てているだけだった。


 だから。


 誰も気づかなかった。


 静かな海面の下。


 月明かりさえ届かない、暗い水の中。


 何かが動いた。


 ひとつ。


 そして。


 また、ひとつ。


 黒い影が、ゆっくりと艦隊へ近づいていく。


 音はない。


 水面には、ほとんど波紋すら立たない。


 それはまるで。


 ずっと、このときを待っていたかのようだった。


 やがて。


 そのうちのひとつが、旗艦の船底へたどり着いた。


 巨大な船の下。


 黒い影が動きを止める。


 そして――。


 何かが、船底へ触れた。


 コツ。


 ほんのわずかな音。


 だが。


 甲板にいる見張りが気づくほどのものではない。


 別の影も。


 別の船へ。


 さらに別の影も、その隣の船へ。


 ひとつ。


 また、ひとつ。


 眠りについた都市国家の艦隊の下で。


 誰にも知られることなく。


 何かが、始まっていた。

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