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魔の海域

 都市国家の港を、大船団が出発した。


 大小さまざまな軍船が、海面を埋め尽くすように列をなして進んでいる。


 その中央を進むのは、艦隊の旗艦だった。


 都市国家が所有する船の中でも、ひときわ巨大な木造軍船。


 船体は何層にも重ねられた厚い木材で覆われ、両舷には数多くの砲門が並んでいる。


 甲板も広い。


 100人を超える船員が同時に動いていても、まだ余裕があるほどだった。


 帆を操る者。


 縄を巻き上げる者。


 砲の状態を確認する者。


 見張り台から周囲を監視する者。


 甲板の下でも、大勢の船員が動いている。


 旗艦だけで、300人近い人間が乗り込んでいた。


 その船尾近く。


 一段高くなった場所に、1人の男が立っている。


 今回の遠征艦隊を預かる提督だった。


「どうだ。変わりはないか?」


 提督が尋ねる。


 隣で海図を広げていた男が顔を上げた。


 航海士のズズだった。


「はい。今のところ異常はありません」


「そうか」


「ただ……もうすぐ例の海域です」


 ズズが海図の一点を指さす。


 王国と都市国家の間に広がる海。


 遠い昔、この海域を通って王国との交易が盛んに行われていた時代があった。


 だが、今では事情が違う。


 いつの頃からか、この海で船を襲う魔物が出るという噂が広まり始めた。


 都市国家からも、何度か調査船が送られている。


 だが――。


 戻ってきた船は、1隻もなかった。


 何が起きたのか。


 どのような魔物がいるのか。


 そもそも、本当に魔物の仕業なのか。


 確かなことは、何ひとつ分かっていない。


 ただひとつ分かっていることがある。


 その海域へ向かった船は、戻ってこない。


 それだけだった。


 いつしか人々は、その場所をこう呼ぶようになった。


 ――魔の海域。


「例の海域、か」


 提督は前方へ目を向けた。


 今のところ、海は穏やかだった。


 空も晴れている。


 波も低い。


 魔物の姿など、どこにも見えない。


 今回の遠征には、大きく2つの目的があった。


 ひとつ。


 王国の海上戦力を撃破すること。


 もうひとつ。


 王国へ攻め入るための航路を確保すること。


 王国の艦隊を叩き、都市国家と王国を結ぶ安全な航路を作る。


 それさえできれば、その後はいよいよ本格的な侵攻が始まる。


 今回、船に乗っている者の多くは海兵だった。


 船を守る者。


 敵船へ乗り込む者。


 海上で戦うことを前提に訓練された兵士たちだ。


 だが、航路の安全が確保されれば、次に海を渡るのは彼らだけではない。


 陸兵。


 大量の武器。


 食料。


 そして冒険者たち。


 都市国家の本隊が、王国へ向かうことになる。


 今回の艦隊は、そのための道を切り開く役目を担っていた。


     ◇


 都市国家は、他国と比べても船を扱うことに長けていた。


 巨大な港を持ち、古くから海を使った交易を続けてきた国だ。


 もちろん、他国にも軍船はある。


 だが多くの国では、敵艦隊と海上で正面からぶつかるよりも、沿岸に砦を築いたり、重要な都市を内陸に置いたりすることで侵攻に備えている。


 その点、都市国家は違った。


 長年にわたる交易によって、大型船を建造する技術が発達している。


 船員の数も多い。


 荒れた海を何度も渡ってきた者も少なくない。


 海の上で戦うなら、自分たちが負けるはずがない。


 それが、この国の船乗りたちの自負だった。


「久しぶりだな」


 提督が口元を緩める。


「何がです?」


 ズズが尋ねた。


「戦争だよ」


「海賊討伐なら、何度もございましたが」


「あんなものを戦闘と呼ばん」


 提督は鼻を鳴らした。


 海賊船を追い回す。


 商船を護衛する。


 沿岸へ近づいた魔物を追い払う。


 そういった仕事なら、これまでにも何度もあった。


 だが、国同士の艦隊が正面からぶつかる機会など、滅多にない。


 だからこそ、今回の遠征を楽しみにしている者は多かった。


 甲板を見れば、それがよく分かる。


 大砲の砲身を磨いている者。


 火薬や砲弾の数を確認する者。


 杖を取り出し、魔石の状態を確かめる魔法使い。


 戦いになれば何人倒せるかと笑い合っている者。


 帆柱の上では、見張り役が海を睨んでいる。


 巨大な帆を支える縄は、男の腕ほどの太さがあった。


 それを何人もの船員が声を合わせて引いている。


「せーの!」


 掛け声とともに縄が引かれた。


 帆が風を受け、大きく膨らむ。


 船体がわずかに傾き、そのまま速度を上げていった。


 提督は、その様子を満足そうに眺める。


 これから戦争へ向かうというのに、船員たちの顔は明るかった。


 まるで、祭りにでも向かっているかのようだ。


 そして、それは提督自身も同じだった。


 出航前。


 元帥に呼び出されたときのことを思い出す。


『王国に、こっちの海兵の力を見せつけてこい』


 立派な髭を蓄えた大男は、そう言った。


『できりゃ、そのまま王国の船を全部沈めてこい』


 豪快に笑いながら。


『陸の方はもう準備できてんだ。海さえ空けば、いつでも兵を送り込める』


 そして最後に、また笑った。


『さっさと道を開けてこい。こっちは早く始めたくて仕方ねえんだ』


 提督も、その場で笑った。


 気持ちはよく分かる。


 自分だって、同じだった。


     ◇


「提督」


 ズズの声で、男は現実へ引き戻された。


「ん?」


「あちらを」


 指さされた先を見る。


 水平線の向こう。


 空の色が、明らかに変わっていた。


 頭上には、まだ青空が広がっている。


 だが、進行方向だけは違った。


 灰色の雲が幾重にも重なり、そのさらに奥には黒い雲が広がっている。


 空と海の境目すら、はっきりしない。


「……嵐か?」


「おそらく」


 ズズは眉をひそめた。


「ただ……少し妙です」


「何がだ?」


「こちらは、ほとんど風が変わっておりません」


 言われてみれば、その通りだった。


 旗艦の帆は、先ほどから変わらず風を受けている。


 甲板にも陽の光が差していた。


 それなのに。


 前方だけが、暗い。


 まるで見えない境界線でもあるかのように。


 その向こうだけが、まったく別の海になっている。


「……気味が悪いな」


「はい」


 それでも艦隊は進んだ。


 やがて、少しずつ海の様子が変わり始める。


 最初に変化したのは、波だった。


 穏やかだった海面に、長く大きなうねりが混じり始める。


 旗艦の船首がゆっくりと持ち上がった。


 次の瞬間。


 今度は海面へ向かって沈み込む。


 甲板が傾いた。


 船員たちは慣れた様子で足を広げ、体勢を保っている。


 ぎしり。


 船体の奥から、木が軋む音が聞こえた。


 再び船首が持ち上がる。


 甲板の端から海を見下ろすと、先ほどよりも波が近く感じられた。


「波が変わったな」


「はい。まだ大きなものではありませんが、向こうからうねりが来ています」


 ズズは海面を見ながら答える。


「嵐の影響でしょう」


 風も少しずつ強くなっていた。


 ばさっ。


 大きな帆が音を立てる。


 張り詰めた縄が、低く唸った。


「帆を少し絞れ!」


 ズズが船員たちへ声を飛ばす。


「上の帆からだ! 急げ!」


 船員たちが一斉に動き出した。


 縄を引く者。


 帆柱へ登る者。


 甲板の上を、何十人もの男たちが忙しく走り回る。


 どれほど巨大な船であっても、海の上で風に逆らうことはできない。


 風が強くなれば、それに合わせて帆を減らす必要がある。


「……近いな」


 提督がつぶやく。


「はい」


 ズズは再び海図を確認した。


「魔の海域まで、そう遠くありません」


 そのとき。


 遠くの黒い雲の中が、白く光った。


 一瞬遅れて。


 ゴロゴロと、低い音が海の上を伝ってくる。


 雷だった。


「他の船は?」


 提督が尋ねる。


「こちらを見ています」


 後方には、何十隻もの軍船が続いている。


 先頭を進む旗艦が、どう判断するのか。


 その合図を待っているのだろう。


 すでに帆を小さくし始めている船もある。


「……どうします?」


 ズズが尋ねた。


 提督は、すぐには答えなかった。


 王国の船は、これまでに何度も見ている。


 交易船。


 そして先日、ブルーを乗せて現れた使者の船。


 どれも特別頑丈な船には見えなかった。


 少なくとも、目の前に広がる嵐をものともせず進めるような船には思えない。


 それでも王国の船は、10年間にわたって都市国家までやって来た。


 何度も。


 元帥が言っていたように、別の航路が存在するのかもしれない。


 だが、その場所は分からない。


 分からない以上、自分たちから未知の嵐へ飛び込む必要もない。


「……少し様子を見る」


「承知しました」


 提督は周囲の海面を見渡した。


「少し戻るぞ。波の静かな場所まで移動する」


「はい」


「そこで待つ」


「了解しました」


 ズズが信号員へ声を飛ばす。


「後続艦へ伝えろ! 進路変更! 先ほどの穏やかな海域まで戻る!」


 すぐに信号旗が掲げられた。


 さらに甲板の端では、信号員が両手に小さな旗を持ち、大きく振り始める。


 手旗信号だった。


 近くの船がそれを読み取り、さらに後方へ伝えていく。


 次々と軍船が進路を変えた。


 旗艦も帆を調整し、荒れ始めた海から少しずつ距離を取っていく。


 しばらくすると、船体の揺れも小さくなった。


 頭上には再び、青空が広がっている。


 だが。


 少し先には、黒い雲が居座ったままだった。


 まるで、そこだけ時間が止まっているかのように。


     ◇


 2日後。


 天候は、まったく変わらなかった。


 艦隊が待機している場所には、今日も青空が広がっている。


 穏やかな風。


 低い波。


 甲板には、眩しいほどの日差しが降り注いでいた。


 だというのに。


 少し先には、今日も嵐がある。


 黒い雲。


 雷。


 白く砕ける高い波。


 昨日も同じだった。


 一昨日も同じだった。


 嵐が移動している様子すらない。


 まるで魔の海域そのものが、巨大な嵐に覆われているかのようだった。


「……まだか」


 提督が尋ねる。


「変わりません」


 ズズが答えた。


「むしろ、昨日より荒れているようにも見えます」


「そうか」


 待つこと自体には問題がない。


 食料も水も十分に積んでいる。


 数日程度なら、何の支障もなかった。


 だが、船員たちは違う。


 戦争をするために出てきた。


 王国の船を沈めるために出てきた。


 それなのに、敵を見ることすらなく、海の上で足止めされている。


 出航時にはあれほど高揚していた気持ちが、少しずつ苛立ちへと変わり始めていた。


「おらぁ!」


 突然、甲板で歓声が上がった。


 提督が振り返る。


 2人の船員が、甲板の中央で殴り合っていた。


 周囲には大勢の船員が集まっている。


「そこだ!」


「右だ、右!」


「俺はでかい方に銀貨2枚!」


「なら俺は小さい方だ!」


 最初は、ただの喧嘩だったらしい。


 だが、いつの間にか賭けの対象になっていた。


「……今日何回目だ?」


 提督が尋ねる。


「4回目です」


 ズズが答えた。


「朝から?」


「はい」


「元気だな、あいつら」


 ズズが苦笑する。


「海の上では、人間関係から逃げる場所がありませんから」


「まあな」


 狭い船の中。


 寝る場所も同じ。


 食事をする場所も同じ。


 働く場所も同じ。


 気に入らない相手がいたとしても、陸のように距離を取ることはできない。


 だから都市国家の軍船には、昔からひとつの決まりがあった。


 船の中で起きた揉め事は、その日のうちに船の上で解決する。


 翌日へ持ち越さない。


 話し合いで済むなら、それでいい。


 済まないのなら――。


 殴り合ってでも、その日のうちに決着をつける。


 もちろん、武器を持ち出すことは禁止されている。


 相手を殺すことも許されない。


 だが素手での喧嘩なら、上官たちもある程度は目をつぶる。


 そして、いつしかそれを見る側が賭けを始めるようになった。


「いけぇ!」


 ひときわ大きな歓声が上がった。


 片方の男が甲板に倒れる。


 勝った男が両腕を高く上げた。


 周囲では銀貨が飛び交っている。


「まったく……」


 提督は笑った。


 だが、すぐに前方へ目を戻す。


 黒い雲は、今日もそこにあった。


 ここへ戻ってから、もう2日。


 それでも、何ひとつ変わらない。


「ズズ」


「はい」


「あれ、いつまで続くと思う?」


「分かりません」


「だろうな」


 明日には晴れるかもしれない。


 1週間続くかもしれない。


 あるいは。


 もっと長く続くかもしれない。


 その間ずっと、ここで待ち続けるのか。


 提督は腕を組んだ。


 王国の船は、この海を越えてきている。


 自分たちよりも小さな船で。


 何度も。


 10年もの間。


 嵐だけなら、何とかなる。


 都市国家の軍船は頑丈だ。


 船員たちの経験も豊富だ。


 多少の荒天なら、これまでにも何度も乗り越えてきた。


 だが――。


 魔物。


 それだけは分からない。


 調査へ向かった船は、1隻も帰ってこなかった。


 どんな魔物がいるのか。


 どれほど強いのか。


 何も分からない。


 この嵐の中で、もし巨大な魔物に襲われたら。


 勝てる。


 そう言い切ることはできなかった。


 それでも。


 ここで引き返すわけにもいかない。


 王国の海上戦力を叩く。


 王国へ攻め込むための航路を確保する。


 それが今回の任務だ。


 そして何より――。


「俺だって、そろそろ戦いてえんだよなぁ」


「何か?」


「いや」


 提督は笑った。


 甲板では、先ほど殴り合っていた2人が並んで座っていた。


 負けた男は腫れた頬を押さえながら酒を飲み、勝った男と何かを話して笑っている。


 どうやら、もう喧嘩は終わったらしい。


 ここで待ち続けても、船員たちの不満は増えていくだけだ。


 提督は大きく息を吸った。


「ズズ」


「はい」


「行くぞ」


 ズズの表情が変わった。


「……嵐の中へ?」


「ああ」


 提督は黒い海を見据えた。


「2日待った。それでも変わらねえ」


 そして、笑う。


「だったら、ここに浮かんでたって仕方ねえだろ」


 ズズは、しばらく黙って嵐を見つめていた。


 荒れ狂う波。


 黒い雲。


 その奥で、雷が白く光る。


 やがて。


 ズズは小さく頷いた。


「承知しました」


 提督は前方を指さした。


「全艦に伝えろ」


「はっ!」


「帆を上げる」


 信号旗が高く掲げられた。


 同時に、手旗信号でも周囲の船へ命令が送られる。


 旗艦から、近くの船へ。


 近くの船から、そのさらに後ろへ。


 命令が次々と艦隊全体へ伝わっていく。


 やがて、後方の船でも次々と帆が広がり始めた。


 ばさり。


 ばさり。


 何十枚もの帆が、一斉に風を受ける。


 張り詰めた縄が鳴った。


 巨大な船体が軋む。


 2日間止まっていた艦隊が、ゆっくりと動き始める。


 こちらには、青空。


 その先には、黒い雲。


 雷。


 荒れ狂う海。


 そして――。


 そのさらに向こうに、王国がある。


 提督は船首の先を見据えた。


「さて――」


 誰に言うでもなく、そう呟く。


 その直後。


 先頭を進む旗艦の上から、陽の光が消えた。


 巨大な黒雲が、船を呑み込む。


 都市国家の艦隊は――。


 魔の海域へと、足を踏み入れた。

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