ユウカ、17歳
都市国家の地下深く。
巨大なダンジョンの一角で、ユウカは地図を広げていた。
「……ここが、こうつながるのか」
目の前には、左右に分かれた通路がある。
右は緩やかな下り坂。左は奥まで見通せないほど長く、途中から壁の色が変わっていた。
ユウカは地図に線を書き足し、左の通路の入口に小さな印をつけた。
「左は、あとで」
地図を丸めて腰の筒にしまい、右へ進む。
しばらくすると、岩陰から魔物が飛び出してきた。
ユウカは足を止めなかった。
迫る爪を跳んでかわし、空中で体をひねる。手元に現れた氷の剣を、すれ違いざまに振り抜いた。
着地したときには、魔物はもう倒れていた。
ユウカは振り返りもせず、通路の奥を見つめた。
「……この先も続いてるね」
まだ地図にない道がある。
彼女は少し嬉しそうに、先へ進んだ。
◇
10年前。
セインに弟子入りしたばかりのユウカの剣は、ひどく我流だった。
身軽さを生かした跳躍や回転は目を見張るものがあったが、基本はむちゃくちゃで、足運びもおぼつかない。攻撃を避けたつもりが、自分から相手の間合いへ飛び込んでしまうことさえあった。
セインは、その身軽さを無理に直そうとはしなかった。
代わりに、何度もユウカと剣を合わせた。
「今のは、どうして右に跳んだ?」
「先生の剣が、こっちに来たからです」
「なら、俺が次にどう動くか、よく見てみろ」
ユウカは、師の動きを観察するようになった。
踏み込む足の向き。
体重が移る瞬間。
剣を振る前に生まれる、わずかな隙。
次の攻撃を見極め、それに対応する。
最初は打ち込まれてばかりだったが、少しずつ剣を受けられるようになり、やがて反撃する機会も増えていった。
弟子入りから2年。
ユウカは、初めてセインとの打ち合いに勝利した。
「勝った!」
地面に倒れた師を前に、ユウカは飛び跳ねて喜んだ。
「ああ。見事だった」
セインは起き上がり、服についた土を払った。
「だが、まだ教えることはあるぞ」
「えっ? 勝ったのに?」
「お前の得意な動きに、俺がついていけなかったんだ。俺から教わった剣で勝ったわけじゃない」
最後の一撃は、セインの頭上を跳び越え、空中で体をひねって背後から斬り込むものだった。
確かに、教わった型とは違う。体が動くままに剣を振った結果だった。
「……じゃあ、次はどうすればいいですか?」
「まずは、その跳び回るのをやめてみろ」
「ええっ!」
「足を地面につけて、剣だけで打ち合う。お前には、まだ覚えることが山ほどある」
それからユウカは、改めてセインの剣術に向き合った。
当時はまだ体も小さく、腕力も十分ではなかった。
力任せに打ち合えば、体格の大きな相手には押し負ける。
そこで学んだのが、力に頼らない柔の戦い方だった。
相手の剣を正面から受けず、わずかに角度を変える。
踏み込んでくる力に逆らわず、その勢いを利用して体勢を崩す。
必要なところにだけ力を使い、余計な動きをしない。
修行を重ねるにつれ、2人の打ち合いは静かになっていった。
激しく剣をぶつけ合うことは減り、足音も小さくなった。互いに構えたまま、長く動かないことさえある。
「……先生、まだですか?」
「お前こそ、来ないのか?」
「今行ったら、斬られそうなので」
「そうだな」
セインは笑った。
ユウカも笑った。
しかし、どちらも剣を下ろさない。
剣先がわずかに動けば、相手も足の位置を変える。間合いを詰めては止まり、相手の反応を確かめる。
傍から見れば、戦っているようには見えなかっただろう。
だが、2人には分かっていた。
速く動けないわけではない。
不用意に先に動いた方が、負ける。
そんなところまで、2人の打ち合いは研ぎ澄まされていた。
◇
セインとの修行は、稽古場の中だけで行われたわけではなかった。
ユウカは師とともに各国を巡り、魔物の討伐や護衛の依頼にも同行した。
街から街へと移動し、野宿を重ねる。
見知らぬ土地で腕の立つ剣士がいると聞けば、手合わせを願い出た。
旅先で出会った人々の暮らしも、ユウカにとっては学ぶことばかりだった。
豊かな街もあれば、日々の食事に苦労している村もあった。同じ問題を抱えていても、国が違えば考え方も、解決の仕方も異なる。
剣があれば助けられる人がいる。
けれど、剣だけでは解決できないこともあった。
「先生。勇者育成機関って、困っている人を助けるところじゃないんですか?」
ある日の野営で、ユウカは尋ねた。
焚き火の向こうで、セインが顔を上げる。
「それも大切な役目だな」
「じゃあ、どうして頼まれても行けないことがあるんですか?」
「俺たちは、どこか1つの国のためにいるわけじゃないからだ」
セインは焚き火に薪をくべた。
「勇者育成機関が守ろうとしているのは、世界の調和だ」
「世界の、調和……」
「ある国に頼まれたからといって、その国の敵を倒しに行く。そんなことを続ければ、俺たちはその国の軍隊と変わらなくなる」
「でも、困っている人はいるんですよね?」
「ああ。だからこそ、何のために剣を振るうのか、考えなきゃならん」
ユウカは焚き火を見つめた。
困っている人がいるのなら、助ければいい。
彼女には、それが当たり前のことに思えた。
セインの言うことも、分からないわけではない。それでも、助けられるはずの人を前にして、手を差し伸べられないことには、どうしても納得しきれなかった。
「……難しいです」
「そうだな。俺も簡単な話だとは思わんよ」
セインは苦笑した。
ユウカは膝を抱え、揺れる炎を見つめた。
答えは出なかった。
それでも旅を続けるうちに、師の言葉を思い返すことは増えていった。
剣の修行も、途切れることなく続いた。
そして、弟子入りから5年。
「もう、俺が教えられることはないな」
セインはユウカに皆伝を与えた。
彼女は、まだ12歳だった。
同年代の者たちが、ようやく体格や魔力量が整い、本格的に剣を振り始める頃である。
皆伝を得た者は後進の指導に当たることもあったが、さすがに12歳の少女に弟子をつけようという話は出なかった。
ユウカ自身も、まだ知らない場所へ行き、強い相手と戦いたかった。
皆伝を得たあとも旅を続け、各国の剣士たちと腕を競った。
さらに、治癒魔法についても学ぶことをやめなかった。
幼い頃、怪我や病気で苦しむ人を助けたいと思った気持ちは、今も変わっていない。
旅先では神官たちに教えを請い、負傷者がいれば自ら治療に当たった。
聖女だけが持つ特別な力を得ることは、ついになかった。
しかし、積み重ねた経験によって、その腕は選りすぐりの神官たちと比べても引けを取らなくなっていた。
そんなふうに強くなったユウカだったが、仲間と呼べる相手はできなかった。
剣を振るって敵を退け、魔法で道を開き、傷ついた者を治療する。
彼女は、そのすべてを1人でこなせてしまった。
護衛や討伐でほかの者と行動することはあっても、戦いが始まれば、ユウカだけが1人で先へ進んでいく。
気づけば、誰かと並んで戦う機会そのものが少なくなっていた。
◇
今の時代、討伐すべき魔王がいるわけではない。
勇者育成機関は、いつか訪れるかもしれないその時に備え、剣と魔法を教え、力を蓄えている。
そんな中、ユウカに任されたのが、都市国家にある巨大なダンジョンの地図作成だった。
長年にわたり多くの冒険者が探索してきたものの、その全容はいまだに分かっていない。
奥へ進むほど魔物は強くなり、仕掛けられた罠も複雑になる。
地図の空白を埋めるには、戦えるだけでなく、生きて戻ってくる力が必要だった。
最初の頃、ユウカもほかの冒険者たちと一緒に潜っていた。
だが、探索を重ねるたび、同行できる者は減っていった。
ある者は魔物との戦いについてこられなくなり、ある者は罠の多い階層で引き返した。
ユウカにとっては普通の速さで進んでいるつもりでも、ほかの者にはそうではなかった。
今では入口で調査隊と別れ、1人で奥へ向かうのがいつものことになっている。
都市国家で最前線に立つといわれる冒険者たちも、彼女よりずっと浅い階層で魔物と戦っていた。
彼らがまだ到達していない場所を、ユウカは地図に書き足していたのだ。
◇
「……ん?」
ユウカは足を下ろしかけたところで動きを止めた。
床石の1枚が、ほかよりもわずかに沈んでいる。
視線を上げると、壁に小さな穴が並んでいた。
「罠か」
つま先で石を押す。
カチリ、と音がした。
次の瞬間、壁から無数の矢が放たれる。
ユウカは落ち着いて氷の剣を振った。
矢は弾かれ、乾いた音を立てて床へ散らばった。
「ここも書いておかないと」
彼女は地図を広げ、罠の位置に印をつけた。
次に誰かがここまで来たとき、同じ目に遭わないように。
地図をしまい、さらに奥へ進む。
行き止まりに見えた壁の隙間から、かすかな風が流れていた。
「あった」
体を横にして通り抜ける。
その先には、天井の高い広間があった。
壁には淡く光る鉱石が埋まり、中央には大きな柱が倒れている。広間の奥には、さらに下へ続く階段が見えた。
「こんなところがあったんだ」
ユウカは周囲を見回し、地図を広げた。
部屋の形と、通路の位置を書き込む。
今いる場所は、これまでの地図の端を大きく越えていた。
まだ誰も見ていない場所がある。
その先には、出会ったことのない魔物もいるだろう。
ユウカは、この仕事を気に入っていた。
強い魔物と戦えば、経験を積める。倒せばレベルも上がる。
誰も進めなかった場所へ進むことが、彼女をさらに強くしていた。
「……ちょっと休憩しよう」
ユウカは倒れた柱に腰掛け、荷物から小さな包みを取り出した。
中に入っていたのは、王国産の麦で作られた高級なクッキーだった。
1枚つまみ、口へ運ぶ。
「……おいしい」
ほろりと崩れる生地から、香ばしさと甘みが広がった。
ユウカには、これといって欲しいものがなかった。
必要な装備を除けば、自分のために金を使うのは、王国から届いた品を買うときくらいだった。
今日のクッキーも、ダンジョンへ入る前に見つけて買ったものだ。
いつ食べても、おいしいと思う。
けれど、幼い頃にあの草原で食べたものとは、比べものにならなかった。
「……また、食べたいな」
ユウカは目を閉じた。
瞼の裏に、青い空と広い草原が浮かぶ。
大きな木。
そこで過ごした日々。
そして、剣を構えるアルティナの姿。
あの日の剣筋を、ユウカは今でも捉えきれていなかった。
どう動いたのか。
いつ間合いを詰められたのか。
気づいたときには、剣を砕かれていた。
それから何度も、記憶の中であの打ち合いを繰り返してきた。
セインのもとで剣を学び、各国の強者と戦い、誰も到達していないダンジョンの奥まで来た。
それでも、思い返すたび、あの日のアルティナの剣は彼女の目をすり抜けていく。
今なら、どんな打ち合いができるのだろう。
お兄さんは、元気にしているだろうか。
もっと強くなれば、あの場所へ帰れるのだろうか。
「……まだ、強くならないと」
ユウカは最後のクッキーを食べ、包みを荷物へしまった。
立ち上がり、階段へ目を向ける。
地図には、まだ空白が残っている。
「よし!」
ユウカは軽く頬を叩いた。
そして、誰も到達していない階層へと下りていった。




