わたしの進む道
一行が王国に来てから、まもなく三か月。
到着して間もなく姿を消したユウカが、二か月余りぶりに戻ってきた。
無事を喜び、駆け寄ってくれる者がいた。心配そうに、どこへ行っていたのかと尋ねる者もいた。
一方で、冷ややかな視線を向ける者もいた。
以前のユウカなら、そうした視線を気にして俯いていたかもしれない。
けれど、今はそれほど気にならなかった。
戻ってきて戸惑ったのは、仕事をまったく任されなくなったことだった。
王国に来たばかりの頃は、小さな仕事ながら、ユウカにも役割があった。
けれど、少しずつ仕事を任されなくなり、やがて何もすることがなくなった。そして、あの場所へ迷い込んだのだ。
戻ってきた今は、本当に小さな仕事一つ、回ってこなかった。
手伝えることはないかと尋ねても、今は休んでいていいと言われる。周囲の者たちも、ユウカをどう扱えばよいのか分からず、どこかそわそわしているようだった。
最初は戸惑った。
けれど、少し冷静になってみると、やっぱりそうなるよね、という気持ちもあった。
二か月以上も姿を消していたのだから、以前と同じように迎えてもらえるとは限らない。
不思議だったのは、それほど悲しくなかったことだ。
前は、仕事を任されなくなるたびに、自分は必要とされていないのではないかと落ち込んでいた。
今も少し寂しい。
それでも、以前のように俯いてばかりはいなかった。
自分にも、できることがある。
もっとできるようになりたいことも、目指したいものもある。
あの場所で過ごした二か月余りで、ずいぶん変わったのだと思う。
聖女様とも、大樹の下で別れてから顔を合わせていなかった。聖女様には聖女様としての仕事があり、帰国を控えた今も忙しいのだろう。
ユウカは、何もすることのない時間に剣のことを考えた。
身体を動かしたい。
剣を振りたい。
昨日できなかったことを、今日こそできるようになりたい。
今のユウカにとって何よりもどかしいのは、思うように修行ができないことだった。
◇
翌朝、帰るための船が港を離れた。
ユウカは甲板に立ち、遠ざかっていく王国の町並みを眺めていた。
岸壁に並ぶ建物が小さくなり、見送る人々の姿も見分けがつかなくなる。
あの草原は、どちらの方角にあるのだろう。
あの大きな木は、ここからでも見えるのだろうか。
目を凝らしてみたが、見えるのは遠くの陸地だけだった。
ユウカは胸元の小さな剣を握った。
お兄さんからもらった、お守り。
ペンダントを見つめていると、別れ際の優しい笑顔が浮かんできた。
白さんは、またあの場所へ行けるとは約束できないと言っていた。
もう、お兄さんに会えないかもしれない。
けれど、ユウカはそうは思わなかった。
きっと、また会える。
だから、あのとき「さようなら」ではなく「行ってきます」と言ったのだ。
それでも、港が遠ざかっていくのを見ていると、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
オレンジと剣を交え、ブラッドに挑み、今日あったことをお兄さんに話す。
そんな毎日が、もう当たり前ではなくなってしまった。
「……お兄さん」
その先の言葉が出てこなかった。
頬を、涙が伝った。
慌てて袖で拭ったが、次から次へとこぼれてくる。
また会えると思っている。
それなのに、今はこんなにも寂しい。
ユウカはペンダントを両手で包み、遠ざかる王国へ向かって小さく呟いた。
「……行ってきます」
船は広い海へと進んでいった。
◇
その夜。
船内の明かりが落ち、乗客たちが寝静まった頃、ユウカは一人で甲板に出ていた。
頭上には星が広がり、船は静かな波をかき分けて進んでいる。
海から吹く風は少し冷たかったが、身体を動かすにはちょうどよかった。
ユウカは周囲に誰もいないことを確かめ、剣の柄を握った。
魔力を流すと、そこから短い氷の刃が伸びる。
まずは、ゆっくりと剣を振った。
足を運び、身体をひねり、刃を水に変えてから、再び凍らせる。
何度か繰り返したあと、少しずつ動きを速めていく。
踏み込んで、斬る。
剣を引きながら向きを変え、もう一度。
本当なら、大きく跳び上がって相手の頭上を越えたい。空中で身体を回転させ、背後から斬り込む動きも試したかった。
だが、ここは船の上だ。
足場は揺れるし、柵の向こうには暗い海が広がっている。
ユウカは大きな跳躍を諦め、小さな踏み込みと身体の回転を繰り返した。
「……んー」
どうにも物足りない。
大樹の下では、毎日オレンジが稽古をつけてくれた。
ブラッドとも何度も戦った。最後には、アルティナとも剣を交えることができた。
昨日の戦いだって、まだ考えたいことがたくさんある。
炎で氷を溶かされたら、どうすればよかったのだろう。
最後の大きな剣は、もう少し薄く作った方が速かっただろうか。それとも、氷を厚くして壊れにくくするべきだったのだろうか。
考えれば考えるほど、試したいことが増えていく。
それなのに、相手がいない。
広い場所もない。
身体は動かせるのに、思うように修行ができない。そのことが、ユウカにはもどかしかった。
小さく息を吐き、もう一度剣を構える。
「こんなところに、剣士の卵がいようとはな」
「わっ!」
突然、背後から声がした。
ユウカは剣を引き、慌てて振り返った。
そこにはセインが立っていた。
聖女の護衛として同行していた剣士だ。
「セインさん!」
「驚かせたな。悪い、少し前から見ていた」
セインは笑いながら、ユウカの手元へ目を向けた。
「氷の剣か。面白いものを使うな」
「はい。教えてもらったんです」
「それにしても、なかなかの動きだ。誰に習った?」
「オレンジさんです!」
「オレンジ?」
「はい! 剣も魔法も、いっぱい教えてもらいました」
「そうか。いい師に出会ったんだな」
ユウカは嬉しそうに頷いた。
「でも、まだまだです。昨日も負けちゃいました」
「誰と戦ったんだ?」
「アルティナさんです。炎を使う人で、すっごく強かったです!」
アルティナ。
セインは記憶をたどった。
それほどの腕を持つ剣士なら、名を聞いたことがあってもおかしくない。だが、思い当たる人物はいなかった。
いや、王国は長く外との交流を断っていたのだ。
自分の知らない剣士がいても、不思議ではない。
「そうか。いい相手に出会ったんだな」
「はい!」
ユウカの返事には、負けたことへの悔しさよりも、また戦いたいという気持ちが表れていた。
セインは改めて少女を見た。
「ところで、その剣はいつから習っている?」
「えっと……王国に来て、少ししてからです。二か月ちょっとです」
「二か月余り?」
セインの眉が上がった。
「ああ、姿が見えなかった間に覚えたのか」
「はい!」
セインは少し考え込んだ。
先ほどの動きは、ただ剣を振り回しているだけではなかった。
身体の向きを変える速さ。小さな足場を使った踏み込み。そして、氷の刃を瞬時に水へ変え、作り直す魔力の扱い。
まだ粗さはあるが、きちんと戦いの中で磨かれた動きだった。
それを、わずか二か月余りで身につけたというのか。
セインは改めて、目の前の少女を見た。
「もう少し見せてくれるか?」
「はい!」
ユウカは嬉しそうに剣を構えた。
セインが少し離れたところに立つ。
「俺が右から斬り込んできたら、どうする?」
「こうです!」
ユウカは斜め前へ踏み込み、身体をひねった。
相手の横を抜けるように動きながら、氷の剣を振る。
「ほう。では、後ろへ回られたら?」
ユウカは足を軸にして向きを変え、剣を引いた。
そのまま小さく跳び、空中で身体を反転させる。
着地と同時に、もう一度剣を構えた。
「随分と身軽だな」
「本当は、もっと高く跳べるんです!」
「そうだろうな。だが、今はやめておけ。海に落ちても困る」
「あっ……はい」
ユウカは残念そうに頷いた。
セインはその様子を見て笑った。
「本当なら、一度剣を交えてみたいところだ」
「いいんですか!?」
「ここではな」
セインは足元の甲板を軽く踏んだ。
「剣を打ち合わせれば音が響く。乗客を起こしてしまうし、船の上で本気で戦うわけにもいかん」
「……そっか」
ユウカは肩を落とした。
すると、セインが腰の剣に手をかけた。
「代わりに、俺の剣を見てみるか?」
「えっ?」
セインはゆっくりと剣を抜いた。
月明かりを受け、刃が鈍く光る。
ユウカは思わず一歩下がり、剣を握り直した。
「安心しろ。お前に向けるわけじゃない」
セインは少し離れた場所へ移動すると、静かに剣を構えた。
それは、ごく普通の構えだった。
剣先を相手へ向け、足を開き、腰を落とす。
オレンジのような軽やかさも、アルティナのような圧迫感もない。
何が始まるのだろうと、ユウカは首をかしげた。
セインが動いた。
一歩下がり、剣を斜めに上げる。
そこから刃を返し、わずかに踏み込んで突きを放った。
また構えに戻る。
次は横へ足を運び、剣を受けるように腕を動かした。
大きな動きはない。
跳び上がることも、身体を回転させることもない。
まるで、基本の型を繰り返しているようだった。
けれど、ユウカは次第に目を離せなくなった。
セインの前には、誰もいない。
それなのに、見えない相手がいるように思えた。
剣が振り下ろされる。
セインは半歩だけ身を引いて受け止め、刃を流す。
次の突きには、身体をわずかにずらして対応する。
相手が踏み込めば、その分だけ下がる。
隙が生まれたときだけ、最短の動きで剣を返した。
どれも派手ではなかった。
ただ、一つ一つの動きに無駄がない。
ユウカは、いつの間にか息を詰めていた。
相手が誰なのかは分からない。
けれど、セインが向き合っている見えない剣士は、今の自分よりもずっと強い。
そんな気がした。
そして、その相手がどれほど攻め込んでも、セインの守りを崩せないことも。
やがて、セインが一歩踏み込んだ。
短い突き。
そのまま剣を引き、最初の構えへ戻る。
動きが止まった。
ユウカはしばらく何も言えなかった。
「どうだった?」
セインが尋ねる。
ユウカは少し考えた。
「……とても面白くない剣でした」
セインが目を丸くした。
「おいおい、随分とはっきり言うな」
「でも……」
ユウカは真剣な顔で続けた。
「とても強い剣でした」
セインは、少女を見つめた。
「どうしてそう思った?」
「ずっと、守っていたからです」
ユウカは先ほどの動きを思い出しながら、言葉を探す。
「何回攻撃しても、全部止められる気がしました。後ろに回っても、上から斬っても、きっと届かないです」
それは、アルティナと戦ったときにも感じたことだった。
けれど、セインの剣は違う。
圧倒的な速さで先回りするわけでも、炎でこちらの剣を溶かすわけでもない。
ただ、そこにいる。
どこから攻めても、必要なだけ動いて、確実に防ぐ。
「わたしだったら、何もできないまま終わっちゃうと思います」
セインはしばらく黙っていたが、やがて声を上げて笑った。
「ははっ! 面白くない、か。そんなことを言われたのは、師匠以来だな」
「お師匠さんにも、言われたんですか?」
「ああ。昔、まったく同じことをな」
セインは懐かしそうに笑い、剣を鞘へ戻した。
「だが、間違っちゃいない。俺の剣は守りが基本だ。派手に攻めるより、相手の剣を受け、崩れたところを狙う」
「……すごかったです」
「ありがとうよ」
セインはユウカの顔を見た。
少女の目は、まだ剣を追っていた。
「どうだ。今の剣に興味はあるか?」
「はい!」
返事は早かった。
「でも、わたしもあんなふうにできるかな……」
「お前にはお前の戦い方がある。何も全部まねる必要はないさ」
セインは笑った。
「ただ、守りを覚えれば、お前の剣はもっと伸びるだろうな」
ユウカは、自分の氷の剣へ目を落とした。
跳んで、回って、相手の隙へ飛び込む。
それが今の自分の戦い方だ。
けれど、アルティナには何度も攻撃を止められた。
セインのように守ることができれば、違う戦い方もできるかもしれない。
試してみたい。
今すぐにでも。
ユウカは顔を上げた。
「セインさん。また剣を見せてくれますか?」
「ああ。それなら、一つ聞かせてくれ」
セインは改めてユウカに向き直った。
「お前は、これからも剣を続けたいのか?」
「はい!」
「もっと強くなりたいか?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
セインは頷くと、少しだけ表情を改めた。
「なら、俺の弟子にならないか?」
「……弟子?」
「ああ。帰ったら、勇者育成機関へ連れていこうと思う。そこには剣を学ぶ場所も、鍛錬の相手もいる。今のお前なら、学べることは多いはずだ」
ユウカは目を丸くした。
勇者育成機関。
名前は聞いたことがあった。勇者を目指す者たちが集まり、剣や魔法を学ぶ場所だ。
「……毎日、剣を振れますか?」
「ああ。嫌になるほどな」
「跳んでもいいですか?」
「鍛錬場ならな。ただし、教官の言うことは聞けよ」
「氷の魔法も使っていいですか?」
「もちろんだ。それも含めて、お前の剣だろう?」
ユウカの顔が明るくなった。
けれど、すぐにその表情が曇る。
「でも……わたし、神聖国では聖女様になるための勉強をしていて……」
「ああ。勇者育成機関へ進めば、その道からは外れることになるだろうな」
「……そうですよね」
ユウカは俯いた。
ここへ戻ってからも、治癒魔法を諦めるつもりはなかった。
大樹の下で聖女様にもそう伝えた。
けれど、今までとは違う場所へ行くとなれば、何もかも変わってしまうのではないだろうか。
セインはすぐには言葉を続けなかった。
ユウカが顔を上げるのを待ってから、静かに尋ねる。
「ユウカ。今までの場所に戻って、お前は思う存分、剣を振れるのか?」
「……」
「そこで、今以上に強くなれると思うか?」
ユウカは答えられなかった。
戻ってから、以前の役割は任されなくなった。剣の練習をする場所も、相手もいない。
誰かに嫌がられているわけではない。
ただ、あそこには今の自分がやりたいことを、思い切りできる場所がなかった。
「俺は、お前の剣にはまだまだ伸びる余地があると思っている」
セインは続けた。
「だから、剣を学ぶ場所へ来てほしい。お前が力を伸ばせる場所は、こちらにあると思うんだ」
「……でも、治癒魔法は?」
「育成機関でも魔法は学べる。ただ、お前には普通とは違う教え方が必要かもしれん。治癒魔法については、聖女様とも相談することになるだろう」
ユウカは胸元の小さな剣に触れた。
剣を続けたい。
もっと強くなりたい。
けれど、今まで続けてきた勉強をやめてしまって、本当にいいのだろうか。
神聖国に戻れば、また聖女様のもとで学ぶことになる。
勇者育成機関へ行けば、その道から外れてしまう。
ユウカは、しばらく考え込んだ。
そもそも、わたしは聖女様になりたくて、あそこにいたんだっけ。
思い返してみる。
治癒魔法を覚えたいと思ったこと。
何度練習しても、うまく魔法を使えなかったこと。
それでも諦めたくなくて、毎日繰り返していたこと。
聖女様のようになれたら、きっとたくさんの人を助けられる。
そう思っていた。
でも、聖女様になること自体が、夢だったのだろうか。
違う。
怪我をした人を助けたい。
病気で苦しんでいる人を、少しでも楽にしてあげたい。
だから治癒魔法を覚えたいと思って、あの場所にいたのだ。
ユウカは顔を上げた。
「……わたし、聖女様になりたいわけじゃなかったんです」
セインは何も言わず、続きを待った。
「怪我をした人や、病気の人を助けたくて、治癒魔法を覚えたいと思ったんです」
口にしてみると、不思議なくらい、すんなりと胸に収まった。
ユウカは手にした剣の柄へ目を落とす。
あの場所では、剣を教えてもらった。
最初は何もできなかったのに、少しずつ戦えるようになった。
剣を使えば、誰かを傷つけようとする相手から、その人を守ることもできる。
治癒魔法だけが、人を助ける方法ではなかったのだ。
「わたし、剣でも誰かを守れるようになりたいです。それに、治癒魔法も諦めたくないです」
ユウカはセインを見つめた。
「聖女様になれなくてもいいです。剣でも魔法でも、困っている人を助けられるようになりたいです!」
セインは静かに頷いた。
「そうか。なら、お前が進みたい道は見えてきたんじゃないか?」
「……はい」
ユウカはもう一度、胸元のペンダントを握った。
大樹の下で、帰ると決めたときのことを思い出す。
あのときも、帰りたくない気持ちがなくなったわけではなかった。
今だって、慣れ親しんだ場所を離れることに不安はある。
それでも、何をしたいのかは、もう分かっていた。
強くなりたい。
もっといろいろなことを学びたい。
そして、誰かを助けられるようになりたい。
そのために、勇者育成機関へ行く。
ユウカは顔を上げた。
「セインさん」
「ん?」
「わたし、勇者育成機関に行きたいです」
先ほどまでの迷いは、もう声にはなかった。
「剣も魔法も、どっちも頑張ります。だから……弟子にしてください!」
セインは笑った。
「よし。なら、帰ったら聖女様とも話をしよう。お前を俺の弟子として預かりたいとな」
「はい! よろしくお願いします!」
ユウカは深く頭を下げた。
「ただし、稽古は厳しくするぞ。お前より強い者もいるし、何度やっても勝てない相手だっているだろう」
ユウカはアルティナの姿を思い出した。
どれだけ跳んでも、どれだけ剣を振っても届かなかった相手。
それでも、戦っている間は楽しかった。
「……大丈夫です!」
顔を上げたユウカは、嬉しそうに笑っていた。
◇
セインと別れたあと、ユウカはもう一度、夜の海を眺めた。
遠くには何も見えない。
あの大樹も、青い空も、今はもう見えなかった。
それでも、胸元には小さな剣がある。
ユウカはペンダントをそっと握った。
「お兄さん。わたし、また剣を教えてもらえるみたいです」
返事はない。
けれど、ユウカは少しだけ笑った。
帰った先でも、できないことはきっとたくさんある。
治癒魔法だって、すぐに使えるようになるとは限らない。
それでも、今は次にやってみたいことがあった。
ユウカは氷の刃を消し、剣の柄をしまった。
夜風を受けながら、もう一度ペンダントを握る。
「……もっと強くなりますね」
船は静かな海を進んでいった。




