行ってきます
砕けた氷が、草原へ降り注いだ。
ユウカは勢いを止めきれず、凍った地面の上を滑っていく。剣の柄だけになった手元を見て、慌ててもう一度魔力を込めようとした。
だが、それより早く、炎をまとった剣が目の前に差し出された。
アルティナの剣だった。
その切っ先は、ユウカの肩に触れる寸前で、ぴたりと止まっている。
「そこまで。勝者、アルティナ」
ブラッドの低い声が響いた。
「……負けました」
ユウカは肩を落とした。
アルティナが剣を引くのを見届け、身体強化を解く。途端に全身が重くなり、ユウカはその場にへたり込みそうになった。
大きく息を吸って、もう一度手元を見る。
最後の一撃にすべてを込めた氷の刃は、跡形もなく砕けていた。
アルティナは剣の炎を消し、静かに刃を下ろした。
「見事な剣でしたよ。最後の一撃も素晴らしかったです」
「でも、壊れちゃいました……」
「壊れたなら、また作ればいいのです。あなたの剣は、そういう剣でしょう?」
先ほどまでの高揚した様子はなく、アルティナはいつもの穏やかな笑みを浮かべていた。
ユウカは少し考えてから、顔を上げる。
「……はい!」
勝てなかった。
けれど、最後の一撃を受け止めてもらえた。
次はもっと速く。もっと強く。
そう考えると、悔しいはずなのに、もう一度戦うのが楽しみになっていた。
◇
大樹の下には、いつの間にかお茶の用意が整えられていた。
白い椅子に腰かけたシキと、向かいに座る聖女とユウカ。テーブルには温かいお茶と小さな焼き菓子が並んでいる。
ムムやピーチ、オレンジたちは席には着かず、傍らに控えていた。
アルティナも先ほどまではいたが、ユウカに「いい剣でした。またお相手しましょう」と声をかけると、どこかへ立ち去っていった。
「……聖女様?」
ようやく落ち着いたユウカは、隣に座る人物をまじまじと見つめた。
「本当に、聖女様ですか?」
「はい。ユウカさん、お久しぶりです」
「どうして、ここに……?」
ユウカの視線が、聖女とムムの間を行き来する。
聖女には、聞きたいことも、伝えたいことも山ほどあった。
この二か月、どこで何をしていたのか。怪我はしていないか。なぜ、あれほどの剣術を身につけているのか。
何より、無事でいてくれてよかったと伝えたかった。そして、長い間寂しい思いをさせてしまったことを謝りたかった。
けれど、何から口にすればよいのか分からない。
ここがどのような場所なのかも、目の前の青年が何者なのかも、まだ理解できていなかった。
馬車の中で、ムムは言っていた。
分からないことがあれば、無理に答えず、黙っていてください、と。
聖女はカップに手を添えたまま、言葉を飲み込んだ。
しばらくすると、ユウカの緊張もほぐれたらしい。
いつものようにシキの方を向き、身を乗り出した。
「お兄さん、さっきの見てました?」
青年がユウカへ目を向ける。
「アルティナさん、すっごく強かったです! 最初は剣が届きそうだったのに、全然届かなくて。それに、炎で氷が溶けちゃうんです!」
ユウカは両手を動かしながら、夢中で説明を始めた。
「オレンジさんのときは、剣を水にしてもすぐに戻せたんです。でも今日は、作ったそばから溶けちゃって。上から跳んでも、後ろに回っても、アルティナさんがもうそこにいるんですよ!」
シキは静かに聞いている。
その様子が嬉しいのか、ユウカの話は止まらない。
「でも、炎が近くを通っても、わたしは火傷しなかったんです。氷だけ溶けちゃって。どうやってるんでしょう?」
首をかしげたあと、今度は最後の一撃を再現するように両手を前へ突き出した。
「最後は、氷をもっと大きくしたらいけるかなって思ったんです。地面も凍らせて、ずーっと滑って、思いっきり!」
腕を大きく広げる。
「でも、受け止められちゃいました。剣も、ばーんって!」
ユウカが悔しそうに唇を尖らせると、シキは小さく笑った。
「次はもうちょっと速くできると思うんです。あと、最後に剣が壊れないように――」
聖女は、二人を見ていた。
ユウカは、こんなふうに話す子だっただろうか。
神聖国にいた頃は、いつも遠慮がちだった。何かを尋ねるときも、相手の顔色をうかがってから小さな声を出していた。
それが今は、今日あった出来事を嬉しそうに話している。
青年は一言も返していない。
それでもユウカは、話を聞いてもらえていることを少しも疑っていないようだった。
この少女は、自分たちの知らない時間を、ここで確かに過ごしてきたのだ。
聖女がそう感じていると、ムムが一歩前へ出た。
「ユウカさん。お話の途中、失礼いたします」
「はい?」
「本日、聖女様がこちらへお越しになったのは、ユウカさんをお迎えするためです」
ユウカが瞬きをした。
「お迎え……?」
「はい。皆様は明日、神聖国へお帰りになります。ユウカさんにも、ご同行いただくことになります」
ユウカは、すぐには答えなかった。
明日。
その言葉が、なかなか頭に入ってこなかった。
「……明日、ですか?」
「はい」
「もう、帰るんですか?」
ムムは静かに頷いた。
ユウカは膝の上で両手を握った。
「……わたし、まだ帰りたくないです」
小さな声だった。
けれど、はっきりとした言葉だった。
「もっとオレンジさんに教えてもらいたいし、ブラッドさんにも、まだ勝ってないし……。今日だって、アルティナさんに全然届かなかったんです」
ユウカはシキを見た。
「お兄さんにも、毎日あったこと、お話ししたいです」
シキは黙ってその言葉を聞いている。
「もう少しだけ、ここにいちゃだめですか?」
「それはいけません」
答えたのは、シキではなかった。
ユウカが声の方を振り向く。
いつの間にか、大樹の下に白が立っていた。
「あ……」
ここへ迷い込んだ最初の日に会った人物だった。
白はユウカをまっすぐ見つめている。
「あなたが、これ以上ここにいることは許されません」
「どうしてですか?」
「もともと、あなたがここに来たのは、偶然迷い込んだからです。本来、ここは外の者が立ち入る場所ではありません」
「でも、今までずっと……」
「今までのことと、これからのことは別です」
白の声は静かだった。
ユウカの力は、ここで過ごす間に予想を超える速さで伸びていた。
オレンジから一本を取り、ブラッドとも渡り合う。今日に至っては、アルティナにあの一撃を受け止めさせた。
これ以上、強くなれば――。
白は、その先を口にはしなかった。
「……ユウカさん」
聖女が、ようやく声を出した。
「戻りましょう。長い間、寂しい思いをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした。帰ったら、今度はもっとお話を聞かせてください。皆も、あなたのことを――」
「あなたは黙っていなさい」
白の言葉が、聖女を遮った。
聖女は目を見開く。
「そもそも、あなた方がこの子を見失わなければ、こんなことにはならなかったのです」
聖女は言葉を失った。
言い返せることなど、何もなかった。
白は今度はムムを見た。
「それで、ピオーネ。あなたはどうするつもりなのです?」
聞き慣れない名前に、聖女が顔を上げる。
白が見ているのは、間違いなくムムだった。
「ここへ連れてきたということは、何か考えがあるのでしょうね」
「私に、ユウカさんを説得する考えなどありません。ただ、ご自身で決めていただければと思っております」
「聖女にこの場所を見せておきながら、何も考えがないと言うのですか?」
白の声に、わずかな苛立ちが混じった。
「あなたが知恵を貸して、説得の言葉の一つでも用意していれば、こんな話はすぐに終わったでしょうに」
「いいえ。ご自身で決めていただくことが、最善だと考えています」
ムムは白の視線を正面から受け止めた。
白は何か言いかけたが、口を閉じた。
大樹の下に、沈黙が落ちる。
「……わたしがここにいると、迷惑なのかな」
ユウカが呟いた。
誰も、すぐには答えられなかった。
ユウカはシキを見上げる。
青年はその視線を受け止めると、ゆっくりと首を横に振った。
「……そっか」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
嫌われたわけではない。
ここにいるのが嫌だと言われたわけでもない。
それなら、どうして帰らなければならないのだろう。
「じゃあ、もうちょっとだけ……」
ユウカは言いかけて、白の顔を見た。
その表情は変わらなかった。
「……だめ、なんですね」
白は答えなかった。
ユウカは俯き、膝の上で握っていた手に目を落とす。
帰りたくない。
明日もここで目を覚ましたい。
オレンジと剣を交えて、ブラッドに挑んで、また負けたら悔しがって。新しい魔法を覚えたら、お兄さんに見せに行きたい。
ここには、明日もやりたいことがたくさんあった。
神聖国へ帰ると聞いて、最初に思い浮かんだのは、懐かしい人たちの顔ではなかった。
もう、この毎日がなくなってしまう。
そのことだった。
「……また、ここに来られますか?」
ユウカは小さく尋ねた。
ムムも白も、すぐには答えなかった。
やがて白が口を開く。
「その約束はできません」
「そう、ですか……」
ユウカは唇を結んだ。
少しの間だけ帰って、また戻ってくればいい。
心のどこかで、そう考えていた。
けれど、それもできないかもしれないのだ。
ユウカはシキを見る。
「お兄さんとも、もう会えないかもしれないんですか?」
シキは答えなかった。
いつもと同じように、ただユウカを見つめている。
その顔を見ていると、胸がぎゅっと苦しくなった。
「……わたし、ここが好きです」
声が震えた。
「前は、何をやっても上手にできなくて。頑張っても、ほかの子みたいに魔法が使えなくて……」
ユウカは一度、言葉を止めた。
「でも、ここではできるようになったんです。最初は剣だって全然振れなかったけど、オレンジさんが教えてくれて。ブラッドさんとも戦えるようになって……今日は、アルティナさんとも戦えました」
胸の前で、小さな手を握る。
「わたし、ここに来てから、明日が楽しみだったんです」
聖女は息をのんだ。
ユウカが神聖国でどんな思いを抱いていたのか、知っているつもりだった。
治癒魔法を覚えたいと願いながら、光さえ思うように生み出せない少女。
それでも諦めずにいたことは知っていた。
けれど、毎日を楽しみに思えなくなるほど苦しんでいたことには、気づけていなかった。
「帰ったら、またできないかもしれません」
ユウカは続けた。
「ここでは強くなれたのに、向こうに帰ったら、またわたしだけ何もできない子に戻っちゃうかもしれない……」
「ユウカさん」
聖女は思わず名前を呼んだ。
だが、すぐに言葉を続けることはできなかった。
大丈夫です、と言いたかった。
帰ってきたらきっと上手くいきます、と。
けれど、それを約束することはできない。
ユウカが苦しんできた時間を、簡単な励ましで消してしまってよいはずもなかった。
「……また、できなかったら怖いです」
ユウカは俯いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
風が草原を渡り、大樹の葉を揺らしていく。
ユウカはテーブルの上の焼き菓子に目を向けた。
少し前まで、アルティナとの戦いを夢中で話していた。
明日もまた、新しいことを覚えられると思っていた。
帰ると決めれば、その明日はもう来ない。
そう思うと、どうしても言葉が出てこなかった。
それでも、神聖国でのことを忘れたわけではない。
朝、皆と顔を合わせること。一緒に食事をすること。授業を受けて、覚えたことを試すこと。
うまくできなくても、もう一度やってみようと声をかけてくれた人もいた。
そして、治癒魔法を覚えたいと願った理由も、今もちゃんと覚えている。
怪我をした人を助けたい。
病気で苦しんでいる人を、少しでも楽にしてあげたい。
それは、ここで剣を覚えるよりも前から抱いていた夢だった。
ユウカはそっと顔を上げた。
「……聖女様」
「はい」
「わたし、帰っても、剣の練習をしていいですか?」
聖女は少し驚いたように瞬きをした。
「もちろんです」
「治癒魔法ができるようにならなくても?」
「できるようになるまで、何度でも一緒に考えましょう。それに、剣を学んだからといって、治癒魔法を諦めなければならないわけではありません」
聖女はユウカの顔を見つめた。
「私は、今のユウカさんのことも、もっと知りたいです」
ユウカは目を伏せた。
帰った先でも、ここで覚えたことを続けていい。
すぐに治癒魔法が使えるようにならなくてもいい。
そう言われても、怖さがなくなるわけではなかった。
それでも少しだけ、帰ったあとの自分を想像できた。
ここでできるようになったことまで、なくなってしまうわけではない。
オレンジに教わった剣も、ブラッドとの模擬戦も、今日アルティナに負けた悔しさも。
全部、自分の中に残っている。
ユウカはシキを見た。
できれば、まだここにいたい。
帰らずに済むなら、きっとそうしてしまう。
けれど、いつまでもこの場所にいられないのなら。
ここでもらったものを持って、帰った先で頑張ってみたい。
「……お兄さん」
シキがユウカへ目を向ける。
「わたし、帰ったら、また治癒魔法の練習をします」
ユウカは膝の上の手を握り直した。
「でも、剣もやめません。もっと強くなりたいです」
言葉にすると、少しだけ顔を上げられた。
「……まだ、帰りたくないです」
もう一度、正直に言った。
「だけど、帰ります」
聖女が息をのむ。
ユウカはゆっくりとシキの顔を見上げた。
「お兄さん。わたし、帰ります」
シキは静かに頷いた。
その顔を見た途端、ユウカの目に涙が浮かんだ。
慌てて袖で拭う。
「……やっぱり、ちょっと寂しいです」
シキは優しく微笑んだ。
それを見て、ユウカも泣き笑いの顔になった。
◇
お茶の時間が終わる頃、シキが傍らへ手を伸ばした。
そこには、一振りの剣が置かれていた。
青年はそれを手に取ると、ユウカへ差し出す。
「……これ、わたしに?」
シキが頷いた。
ユウカは両手で剣を受け取った。
今まで使ってきた氷の剣とは違う。柄も鞘も、初めて見るものだった。
「でも、こんなの持って帰ったら……」
「大丈夫。お守りだよ」
そう言ったのは、傍らに立つオレンジだった。
シキが剣へそっと手をかざす。
すると、剣が淡く輝き始めた。
「わっ……!」
剣はユウカの手の中で少しずつ小さくなり、やがて剣の形をした小さな飾りへと姿を変えた。
細い鎖が現れ、するりとユウカの首にかかる。
胸元に、小さな剣のペンダントが収まった。
ユウカは驚いた顔でそれを持ち上げた。
「すごい……!」
オレンジが笑う。
「なくさないようにね」
「はい!」
ユウカはペンダントを両手で包み込んだ。
そして、シキの前に立つ。
何を言えばいいのだろう。
ありがとう。
さようなら。
どちらも、今の気持ちには少し違う気がした。
ユウカは胸元の小さな剣を握り、もう一度シキを見上げた。
「……行ってきます」
シキは優しく微笑み、小さく手を振った。
ユウカも笑顔で手を振り返す。
聖女に付き添われ、ピーチと手をつないで馬車へ向かった。
乗り込む直前にも、もう一度振り返る。
大樹の下には、まだシキがいた。
ユウカが大きく手を振ると、青年も静かに手を上げた。
やがて馬車が動き出す。
窓から見える白い椅子は、少しずつ小さくなっていった。
◇
大樹の下に、静けさが戻った。
シキは白い椅子に腰かけたまま、馬車が去っていった方を見つめていた。
「シキ様。よろしかったのですか」
傍らに立つ白が、静かに問いかけた。
「あれは、長い間、大切に封印されていた聖剣です」
シキは何も答えない。
白は一度言葉を切り、続けた。
「あれを、あの子に渡すということは……」
シキはゆっくりと頷いた。
運命の子へと渡された聖剣。
その選択が、これから何をもたらすのか。
このときは、まだ誰も知らなかった。




