青空に散る氷
馬車が、大樹のそばで止まった。
ムムに促されて降りると、聖女は思わず息をのんだ。
どこまでも続く緑の草原。頬を撫でる柔らかな風。頭上には、夕暮れの王国とは異なる、澄み渡った青い空が広がっている。
風が吹くたびに草が波打ち、遠くの大樹からは葉の揺れる音が聞こえてきた。
何よりも、空気が澄んでいた。
聖女は無意識に深く息を吸い込む。草の香りを含んだ風が胸いっぱいに広がり、長旅の疲れまで消えていくようだった。
こんなにも美しく、澄んだ場所が、この世界にあったのか。
聖女はしばらく言葉を失い、目の前の景色に見入っていた。
王国で見てきた豊かな町も、北の街に広がる壮大な農地も美しかった。けれど、ここはまた違う。
人の営みから離れた、静かで穏やかな美しさだった。
馬車の中でムムから告げられた注意も、一瞬だけ頭から遠ざかっていた。
やがて聖女は、草原の向こうにそびえる大樹へと目を向けた。
見上げるほど大きな木だった。
その根元には白い椅子が置かれ、一人の青年が腰を下ろしている。
黒い髪に、黒い瞳。
どちらも聖女にとっては珍しい色だったが、それ以外に目立った特徴はなかった。
立派な衣装を身につけているわけでも、王族のような威厳を漂わせているわけでもない。本当に、どこにでもいそうな普通の青年だった。
その傍らには、オレンジ色の髪をした女性が控えている。
「シキ様」
ムムが青年の前へ進み、片膝をついて深く頭を垂れた。
聖女は驚いた。
国王と接するときでさえ、ムムがこれほど深くかしずく姿は見たことがない。
隣のピーチが、つないだ手をそっと引いた。
聖女も慌ててそれに倣い、膝をつく。
青年がこちらを見た。
黒い瞳がムムから聖女へと移る。
聖女は息を詰めた。
しかし青年は、特に興味を示す様子もなく、すぐに別の方へ顔を向けた。
すると、傍らの女性が口を開いた。
「聖女様、どうぞお立ちください。そして、あちらをご覧ください」
聖女は立ち上がり、示された方へ目を向けた。
少し離れた草原で、二人の人影が向かい合っていた。
一人は、鮮やかな赤い髪の女性。
もう一人は、小柄な栗色の髪の少女だった。
「……ユウカさん?」
聖女は目を凝らした。
間違いない。
二か月以上も行方が分からなかった、あの少女だった。
思わず駆け寄ろうとした聖女の手を、ピーチがそっと握り直した。
馬車の中で言われた注意を思い出し、聖女は足を止める。
ユウカは無事だった。
見たところ、怪我をしている様子もない。背筋を伸ばして立つ姿は、以前よりもどこかたくましく見えた。
けれど、その手には剣が握られていた。
聖女が知っているユウカは、治癒魔法を覚えたいと願っていた少女だ。
怪我をした人や病気の人を助けたいと話していた子が、今、見知らぬ女性と剣を手に向かい合っている。
何があったのだろう。
この二か月の間に、あの子は何をしていたのだろう。
二人の少し離れたところには、もう一つ、大柄な人影があった。
赤黒いものを身にまとっているように見えるが、ここからではその姿まではよく分からない。
やがて、その人影が片腕を上げた。
◇
「では、始めろ」
ブラッドの低い声が響いた。
ユウカは、目の前の女性を見つめていた。
鮮やかな赤い髪。
すらりとした立ち姿。
剣を手にしているというのに、肩にも腕にも余計な力が入っていない。
アルティナ。
オレンジから、その名を教えてもらった。
どれほど強い人なのか、ユウカには分からない。
けれど、こうして正面に立つと、一つだけはっきりと感じることがあった。
強い。
ダンジョンで戦ってきた、どの魔物よりも。
つい先日、ユウカはオレンジとの模擬戦で、初めて一本を取った。
何度も挑み、何度も負けてきた相手だった。
剣を水に変える動きと、氷を作り直す速さ。これまで練習してきたことがうまくつながり、ようやくオレンジの守りを抜けたのだ。
嬉しくて、飛び跳ねて喜んだ。
最近では、ブラッドともいい勝負ができるようになっていた。
赤黒い鎧武者の攻撃をかわし、こちらからも斬り込める。簡単には押し負けなくなり、戦いが長引いても落ち着いて動けるようになった。
自分でも、強くなったと思う。
オレンジも笑って褒めてくれた。
そして、新しい相手との模擬戦が決まった。
それが、目の前のアルティナだった。
ユウカは剣の柄を握り直した。
氷の刃は、すでにできている。
だが、どう攻めればよいのか分からなかった。
アルティナは、ごく自然に剣を下げて立っている。
構えていないようにも見えた。
それなのに、どこから斬り込んでも届かない気がする。
肩を狙うか。
足元を狙うか。
それとも、頭上を越えて背後へ回り込むか。
どれを選んでも、先を読まれているようだった。
「来ないのですか?」
アルティナが尋ねた。
その声には、焦りも苛立ちもない。
ただ、ユウカが動き出すのを待っている。
「……っ」
ユウカは剣を強く握った。
このまま待っていても、始まらない。
「こっちから、行きます!」
地面を蹴った。
一気に距離を詰め、その勢いのまま跳び上がる。
空中で身体をひねり、アルティナの肩へ剣を振り下ろした。
その瞬間だった。
氷の刃が、溶けた。
「えっ!?」
熱い。
アルティナの剣から、赤い炎が立ち上っていた。
ユウカは着地すると同時に後ろへ跳び、慌てて魔力を流し込む。
溶けた刀身を作り直す。
だが、アルティナが一歩踏み込むと、その氷はまた水へと変わり始めた。
「なるほど。オレンジは炎を使わずに相手をしていたようですが・・・」
アルティナはユウカの剣を見て笑った。
「だが、私はそんな手加減はしませんよ」
その言葉と同時に、炎をまとった剣が振り下ろされた。
ユウカは横へ跳び、地面に手をついて身体を回転させる。
炎が、すぐそばを通り過ぎた。
熱いと感じるほど近かったのに、肌は焼けていなかった。
火傷一つない。
なのに、氷の剣だけは溶かされている。
炎を操っているのだろうか。
そう考える余裕もなく、次の一撃が迫った。
ユウカは短くなった氷の刃を再生させ、アルティナの剣を受け止めた。
しかし、刀身が熱で崩れる。
このままでは押し切られる。
ユウカは氷を水に変え、相手の剣をすり抜けさせた。
そのまま低く身を沈め、アルティナの脇を抜ける。
すれ違いざまに地面を蹴り、背後へ跳んだ。
空中で身体を反転させながら、水を再び凍らせる。
「やっ!」
着地するより早く、剣を振る。
だが、そこにはもうアルティナがいた。
赤い剣が、ユウカの一撃を受け止める。
「いいですね」
アルティナは笑っていた。
ユウカは足を止めず、剣を引いた勢いで再び跳ぶ。
右へ。
次は左へ。
地面に降りたかと思えば、すぐさま踏み切って相手の頭上へ回り込む。
剣を振り下ろし、受けられれば水に変える。相手の横を抜けたところで刃を作り直し、身体をひねってもう一度斬り込む。
一か所にはとどまらない。
小柄な身体を生かし、跳躍と回転を繰り返しながら、あらゆる角度から攻め続けた。
けれど、アルティナはすべてについてくる。
頭上へ跳べば、剣が上がる。
背後へ回れば、振り向いた先に炎がある。
足元へ斬り込もうとすれば、その前に一歩下がられる。
ユウカの剣が届きそうになるたび、アルティナはわずかな動きでそれを防いだ。
それどころか、こちらの着地点へ先回りするように剣を振ってくる。
「くっ……!」
ユウカは空中で身体を丸め、迫る剣をぎりぎりで避けた。
着地した足でそのまま跳び直し、距離を取る。
速い。
剣も、足運びも、魔法も。
どれか一つに気を取られると、別の何かが迫ってくる。
どうにかついていけている。
いや、違う。
ついていかせてもらっているのだ。
アルティナには、まだ余裕がある。
その証拠に、彼女はずっと楽しそうに笑っていた。
「私も、こんなに楽しいのは久しぶりですよ」
アルティナが言った。
ユウカは荒くなった息を整えながら、剣を構え直す。
褒められたのだろうか。
それとも、まだまだだと言われているのだろうか。
分からない。
けれど、一つだけ決めていることがあった。
このまま負けるわけにはいかない。
「……まだ、終わってません!」
ユウカは剣を地面へ向けた。
足元から冷気が広がる。
草の先に霜が降り、白い筋が地面を走った。
次の瞬間、ユウカとアルティナを中心に、辺り一面が氷に覆われた。
アルティナが足元へ目を落とす。
「なるほど」
ユウカは剣の柄を両手で握った。
魔力を流し込む。
氷の刃が伸びた。
さらに厚みを増し、横へ広がる。
細い剣だったものが、ユウカの背丈をはるかに超える巨大な氷の剣へと変わっていった。
幼い少女の腕では、到底扱えそうにない大きさだった。
それでも、ユウカは剣を持ち上げる。
身体強化の魔法を重ね、両腕と足に力を込めた。
剣の重さで、足元の氷がきしむ。
これまでのように跳び回りながら振るうことはできない。
けれど、振り回す必要はなかった。
ユウカは低く身を構えた。
踏み出す。
氷に覆われた地面を、滑るように進んだ。
加速する。
足元の氷を操り、身体強化で勢いを増す。
長く、大きくなった剣を抱えるようにして、アルティナへ一直線に迫った。
巨大な刃の先端が、赤い髪の女性を捉える。
「これならっ!」
ユウカは全身の力を込めて、剣を突き出した。
氷の地面を滑ってきた勢いも、剣の重さも、すべて一撃に乗せる。
アルティナは避けなかった。
炎をまとった剣を正面に構える。
そして――。
巨大な氷の剣を、受け止めた。
次の瞬間、凄まじい音とともに氷が弾けた。
巨大な刀身に亀裂が走り、砕けた氷が無数の欠片となって宙へ舞い上がる。
青い空の下、光を受けた氷片が、きらきらと輝きながら四方へ弾け飛んだ。




