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ある場所へ

 夕方。


 聖女は、正式な式典で着用する衣装に身を包んでいた。


 つい先ほどまで、皆でユウカを探していた。


 その聖女が突然、一番よい衣装に着替えると言い出したものだから、そば付きの者たちは戸惑っていた。


 事情を尋ねても、聖女自身が詳しいことを知らない。


 それでも言われたとおりに衣装を取り出し、髪を整え、装飾品を一つずつ身につけさせた。


 支度を終えて鏡の前に立つと、そこには王国を訪れた際の式典と同じ姿があった。


 これから行うのは、ユウカを探すための訪問。


 それなのに、なぜこれほどの装いが必要なのだろう。


 聖女は、もう一度鏡の中の自分を見つめた。


 やがて迎えが来たと告げられ、館の外へ向かった。


 そこには、ムムが用意した一台の馬車が停まっていた。


「お待ちしておりました、聖女様」


「よろしくお願いいたします」


 ムムに促され、聖女は馬車へ乗り込んだ。


 すると、中にはすでに一人の少女が座っていた。


 柔らかな桃色の髪をした少女だった。


 聖女と目が合うと、にこりと微笑んで軽く頭を下げる。


「……こちらの方は?」


「ご一緒していただく方です。どうぞ、お隣へ」


 少女が席を詰めたので、聖女はその隣に腰を下ろした。ムムは向かいの席に座る。


 見送りに出てきたセインが、窓越しに声をかけた。


「聖女様。どうか、お気をつけて」


「ええ。必ず戻ります」


 馬車が静かに動き始めた。


 聖女は窓から、遠ざかっていくセインの姿を見つめた。


 これほど長く護衛と離れるのは、王国へ来てから初めてのことだった。


 やがて館が見えなくなった頃、向かいに座るムムが口を開いた。


「……ようやく、人目を気にせずお話しできますね」


 いつもと変わらない穏やかな声だった。


 しかし、その表情は笑っていなかった。


「聖女様。これからお伝えすることは、注意事項です。どうか、最後まで聞いてください」


「……はい」


「その前に、まずはユウカさんのことを。あの子の無事は、すでに確認が取れています。この国で一番安全な場所におりますので、どうかご安心ください」


「……本当ですか!」


 聖女は思わず身を乗り出した。


「はい。お身体の心配もありません」


「よかった……」


 ようやく、胸のつかえが下りた。


 二か月以上も行方が分からなかった少女が、無事にいる。


 何をしていたのか、どうして戻らなかったのか。聞きたいことはいくつもあった。


 けれど、まずは生きている。


 その事実だけで、聖女は泣きそうになるほど安心した。


 そんな彼女を見つめ、ムムは静かに続けた。


「私も長い間、あなたと旅をしてきました。いろいろな町を訪れ、食事を共にし、お話もしてきました」


 ムムは聖女の目をまっすぐに見た。


「私にも情が湧いた。そう思っていただいて構いません」


 聖女は、思わず姿勢を正した。


「私は、あなたをあの場所から無事に帰すため、全力を尽くすと約束します」


「……無事に、帰す?」


 先ほどまで安心していた聖女の胸に、再び不安が生まれた。


 危険な場所ではないと聞いていたはずだ。


 それなのに、まるで帰ってこられない可能性があるかのような言い方だった。


「ユウカさんは安全です。ですが、聖女様もこの国で一番安全な場所へ向かうのだとは、思わないでください」


「……どういうことでしょう?」


「ユウカさんにとって安全であることと、あなたにとって安全であることは、別の話なのです」


 聖女は言葉を失った。


 ムムは少しだけ表情を和らげた。


「そんなに不安にならなくても大丈夫ですよ。私がいますので」


「……そう、ですか」


「はい。ですから、これからお伝えすることを守っていただきたいのです」


 ムムは一つずつ、確かめるように話し始めた。


「まず、これから訪れる場所については、帰国後も誰にも話さないでください。どこへ行ったのか、何を見たのか、誰と会ったのか。すべてです」


「セインにも、ですか?」


「はい。セイン様にも」


 聖女は口を閉じた。


「この先のことは、他言無用です。ユウカさんが見つかったとしても、ここでの出来事については話さないでください」


「……分かりました」


「次に、あの場所では、この少女から決して離れないでください」


 ムムは聖女の隣へ目を向けた。


 桃色の髪の少女は、変わらず穏やかな表情で座っている。


「私ではなく、こちらの方から、ですか?」


「ええ。誰かに呼ばれても、勝手についていかないようにお願いします。そうですね……手をつないでおいた方がよいでしょう」


 ムムがそう言うと、少女は聖女へ手を差し出した。


 聖女は少し戸惑いながら、その手を取った。


「……お名前を伺ってもよろしいですか?」


 少女に尋ねようとすると、ムムが代わりに口を開いた。


「お名前、ですか」


 彼は一瞬、考え込んだ。


「……そうですね。ピーチ、という子です」


「ピーチさん……よろしくお願いいたします」


 ピーチは聖女の手を握り返し、にっこりと笑った。


 返事がなかったことを不思議に思っていると、ムムが説明した。


「この子は言葉を話せませんので。返事がなくても、気になさらないでください」


「そうだったのですね」


 聖女がもう一度微笑みかけると、ピーチも嬉しそうに目を細めた。


 その小さな手は、思っていたよりも温かかった。


「そして、何かを尋ねられて答えに迷ったときは、何も言わないでください」


「何も、ですか?」


「ええ。沈黙してください。私がフォローしますので」


 ムムはそこで一度、言葉を切った。


「分からないことを、無理に答える必要はありません。相手に合わせようとして、思ってもいないことを口にする必要もありません。判断に迷ったら、私を見てください」


 聖女は膝の上で、ピーチとつないだ手を見つめた。


 言葉の一つひとつが、ただの訪問に向けた注意とは思えなかった。


 ムムは、聖女の正装へ目を向けた。


「身支度を整えていただいたのも、あなたが無事に帰れる可能性を、少しでも高くするためです」


「この衣装が、ですか?」


「ええ。あの場所には、身なりを大切にされる方もいらっしゃいます。礼を尽くしておいて、損になることはありませんから」


 聖女は自分の衣装を見下ろした。


 国王への謁見でさえ、普段どおりで構わないと言われた。それなのに、ユウカを探すために最もよい衣装を求められた理由が、ようやく少し分かった気がした。


 けれど、同時に新たな疑問が生まれる。


 いったい、誰に会うのだろう。


「……私たちは、これからどなたにお会いするのですか?」


「それは、着いてからお分かりになります」


 ムムは静かに答えた。


「今は、私のお願いだけ覚えておいてください」


 聖女はうなずいた。


 ムムはこれまで、何度も自分たちを助けてくれた。王国への訪問が長引いても、北の街への道中でも、その対応が変わることはなかった。


 だからこそ、今の言葉が単なる脅しではないことも分かった。


「……私を守ろうとしてくださっているのですね」


 ムムは少しだけ表情を緩めた。


「そう思っていただければ、ありがたいです」


「分かりました。ピーチさんから離れません。迷ったときは、何も言わずにムムさんを見ます」


「ありがとうございます」


 ムムは、いつもの笑顔に戻った。


     ◇


 馬車は夕暮れの街を抜け、城へと続く道を進んでいった。


 やがて城門が開き、そのまま敷地内へ入る。


 いくつかの門を通り過ぎるうちに、街の賑わいは遠ざかっていった。


 聖女は窓の外を眺めていたが、ムムはそれ以上何も語らなかった。


 隣のピーチも、静かに座っている。


 つないだ手は、まだ離していなかった。


 空は次第に茜色を失い、あたりは薄暗くなっていく。


 そして、最後に現れたのは、白い城門だった。


 夕日の最後の光を受け、白い門が淡く輝いている。


 これまで通ってきた門とは、どこか雰囲気が違っていた。


 聖女は無意識に、ピーチの手を握る。


 すると、ピーチもそっと握り返してくれた。


「こちらです」


 ムムが静かに告げた。


 重い門がゆっくりと開く。


 ちょうどそのとき、地平線の向こうへ太陽が沈んだ。


 馬車は、白い城門をくぐった。


     ◇


 頬を、柔らかな風が撫でた。


「……え?」


 聖女は思わず窓の外を見た。


 そこには、城の中庭も石造りの建物もなかった。


 一面の草原が広がっていた。


 頭上には、日が沈んだばかりの王国とは違う、澄んだ青い空。


 遠くには、見上げるほど大きな木が立っている。


 草が風に揺れ、馬車の進む先まで緑が続いていた。


 聖女は振り返った。


 けれど、つい先ほどまで通っていた城の景色は、どこにも見えなかった。


「……ここは?」


 ムムの言葉が、頭の中によみがえる。


 ピーチから、決して離れないこと。


 答えに迷ったら、沈黙すること。


 そして、ここで見聞きしたことは、誰にも話さないこと。


 聖女は隣に座るピーチを見た。


 ピーチは何も言わず、つないだ手をそっと握り返した。


 それから聖女が向かいへ視線を移すと、ムムは小さくうなずいた。


「大丈夫です。私がついています」


 その声は、これまでの旅で何度も聞いてきた、穏やかなものだった。


 聖女はもう一度、窓の外へ目を向けた。


 青い空の下、風に揺れる草原。


 その向こうには、見上げるほど大きな木がそびえている。


 馬車は、大樹へと続く道を進んでいった。

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