帰る前
王国は、美しい国だった。
整えられた街並み。豊かな農地。行き交う人々の明るい声。
当初一か月の予定だった訪問は、船の修理と北の街への視察によって延び、気づけば三か月近くが過ぎていた。
最初は、聖女もこの国を疑っていた。
魔物の脅威がほとんどないにもかかわらず、厳重に整備された城壁。攻め込まれることを想定した複雑な道。そして、どこへ行っても絶えることのない人々の笑顔。
何かを隠しているのではないか。
セインと、そんな話をした夜もあった。
けれど、北の街からの帰路は急がず、道中の町や集落にも立ち寄りながら、じっくりと旅を続けた。聖女はそこで暮らす人々の話を聞き、日々の営みを見てきた。
王都から遠く離れた小さな集落でも、暮らしに困っている人は見当たらなかった。
誰もが豪華な家に住んでいるわけではない。それでも、雨風をしのぐ家があり、食卓には食べ物が並んでいた。
子供たちは笑い、学び、大人たちは働く。
家族でおいしい食事を囲み、眠りにつけば、また次の日がやってくる。
そんな当たり前の幸せが、この国にはあった。
今日も働き、食事をし、明日を迎える。子供が育ち、新しい家族が生まれ、暮らしが少しずつ豊かになっていく。
そうした幸せの積み重ねが、今の王国をつくっているのだろう。
聖女は、そう納得していた。
自分が願ってきた世界が、ここには確かにある。
この国のすべてを理解できたわけではない。それでも、目の前で笑う人々の幸せまで疑い続ける必要はないと思えた。
王都へ戻った後、国王への別れの挨拶も済ませた。
帰国の船は修理を終え、明日の朝には出航する予定だった。
あとは荷物をまとめ、王国を後にするだけ。
そんな折、一人の神官が聖女を訪ねてきた。
「聖女様。ご相談したいことがございます」
「どうされましたか?」
神官はすぐには答えなかった。
何か言いづらいことでもあるのだろうか。聖女が続きを待っていると、神官はようやく口を開いた。
「……聖女見習いのユウカについてです」
「ユウカさん?」
聖女は顔を上げた。
同行している者全員の名前を覚えているわけではない。しかし、ユウカは今回の使節に急きょ追加で召集された見習いだった。名前も、幼い顔も覚えている。
「実は、あの子の姿が見えないのです」
「見えない?」
「はい。館の中を探したのですが、どこにも……」
「いつからですか?」
神官は視線を落とした。
その沈黙に、聖女は眉を寄せる。
「いつから、ユウカさんがいないのですか?」
「……王国に到着して、五日ほど経った頃からです」
「……え?」
思わず聞き返した。
神官はうつむいたまま、続けた。
「最初の月のことです。それから、ずっと戻っておりません」
聖女は言葉を失った。
二か月以上も前の話だった。
「どういうことですか。あの子は、それからずっといなかったのですか?」
「……はい」
「では、なぜ今まで相談してくれなかったのですか?」
「申し訳ございません」
神官は深く頭を下げた。
「謝罪ではなく、何があったのかを教えてください」
聖女は声を荒らげなかった。
しかし、その声音はいつになく厳しかった。
◇
神官の説明によれば、ユウカの姿が見えなくなったのは、修行を休ませるように伝えた日のことだった。
その夜、ほかの見習いたちが寝床へ戻っても、ユウカだけが帰ってこなかった。
以前から夜中に部屋を抜け出すことがあったため、最初はまた館のどこかにいるのだろうと思っていたという。
けれど、翌朝になっても戻らなかった。
神官たちは館の中を探した。
修行場、食堂、庭、使われていない部屋。ほかの見習いたちにも心当たりを聞いたが、誰も行き先を知らなかった。
門番も、館の外へ出ていく姿は見ていないという。
「それで……?」
「その後も探しました。ですが、どうしても見つからず……」
「王国の方々には、協力をお願いしたのですか?」
「……いいえ」
聖女は神官を見つめた。
「なぜですか?」
「最初は、もう少し探せば見つかると思っておりました。ですが、日が経つほど報告しづらくなってしまい……」
神官は言葉を詰まらせた。
「私の判断が誤っておりました。本当に申し訳ございません」
聖女は一度、目を閉じた。
見つからなければ、すぐに知らせてほしかった。
どれほど早く報告してもらっても、失踪を防ぐことはできなかったかもしれない。けれど、捜索を始めることはできたはずだ。
ユウカは親を知らず、帰る家もない少女だった。
魔法の力を見込まれて聖女見習いになり、自分たちと一緒に王国へ来た。
治癒魔法を覚えて、怪我をした人や病気の人を助けたいと話していた子だった。
「……修行を休ませたとき、ユウカさんはどんな様子でしたか?」
「落ち込んでいたと思います」
「そうですか……」
仕事もなくなり、修行まで休むように言われた。
あの子は、どう思っただろう。
聖女は膝の上で手を握った。
自分は王国各地の視察に追われ、ユウカと話す時間をほとんど取れていなかった。
休養中だと聞いて、館で身体を休めているのだと思っていた。
北の街へ出発するときも、帰ってきたときも。
あの子は、もうそこにいなかったのだ。
「……もっと早く知りたかったです」
「申し訳ございません」
神官は頭を下げたままだった。
聖女はそれ以上、言葉を重ねなかった。
今は責任を問うよりも、ユウカを見つけることが先だった。
「もう一度、手分けして探しましょう」
「はい」
「見つけても、叱らないであげてくださいね」
神官が立ち去ると、聖女は窓の外へ目を向けた。
明日の朝には、船が出る。
国王への別れの挨拶も済ませている。船の修理にも協力してもらい、ようやく帰国の準備が整ったところだった。
ここで出航を延期するとなれば、王国側にも再び調整をお願いしなければならない。
それでも。
ユウカを置いて帰ることなど、できなかった。
◇
館の中を、再び手分けして探した。
聖女自身も寝室や庭、修行場を見て回ったが、ユウカの姿はどこにもなかった。
寝床には、小さな荷物が残されている。
持ち物は少なく、ほかの見習いたちの荷物と比べても、ひときわ小さく見えた。
聖女はその前にしゃがみ込んだ。
ユウカは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。
「聖女様」
セインが部屋へ入ってきた。
「館の周辺も確認しましたが、見つかりませんでした」
「そうですか……」
「王国側にも捜索の協力を求めましょう」
聖女はうなずいた。
「ムムさんに、ご相談してみましょう」
この国へ来てから、視察や移動のたびに世話になった案内役。
船の修理にも、北の街への訪問にも力を貸してくれた。
王国での滞在中、最も長く接してきた人物の一人だった。
あの人なら、何か心当たりがあるかもしれない。
◇
「ユウカさん、ですか」
事情を聞いたムムは、少し驚いた顔をした。
紫色の髪をした案内役は、説明を最後まで聞くと、静かに口元へ手を当てた。
「王国に到着して間もない頃から、ずっと姿が見えなかったのですね」
「……はい」
神官が答えた。
「これまでご相談もせず、申し訳ございません」
「いえ。まずは、ユウカさんを見つけることですね」
ムムは聖女へ向き直った。
「一つ、心当たりがあります」
「本当ですか?」
聖女は思わず身を乗り出した。
「その場所へ案内していただけますか?」
「ええ。ただし、聖女様お一人でお越しいただきたいのです」
セインが顔を上げた。
「私も同行します」
「申し訳ありません。それはできません」
ムムは穏やかに、しかしはっきりと答えた。
「これからご案内するのは、王国の秘密に関わる場所です。立ち入れる方を、限らせていただいております」
「聖女様をお一人で向かわせるわけにはいきません」
「お気持ちは分かります。ですが、私が責任を持ってご案内します」
セインは納得した様子ではなかった。
ムムは、そんな彼を安心させるように続けた。
「ご心配には及びません。時折、迷い込んでしまう子供もいる場所なのですが、危険なところではありません。聖女様の安全も、私が責任を持ってお約束します」
聖女も、すぐには答えられなかった。
まだ訪れたことのない、王国の秘密の場所。
そこにユウカがいるかもしれないという。
ムムは知っていて、これまで何も言わなかったのだろうか。
そんな疑問も浮かんだ。
けれど、彼の言葉をすぐに疑う気にはなれなかった。
王国へ来てからの三か月、ムムには幾度となく助けられてきた。こちらの無理なお願いにも嫌な顔一つせず、いつも丁寧に対応してくれた。
北の街でも、慣れない一行を最後まで案内してくれた。
聖女はセインへ顔を向けた。
「私は、ムムさんと行きます」
「ですが、聖女様」
「心配してくださっているのは分かっています。けれど、私はここまでムムさんにお世話になってきました。その方を信じたいのです」
セインは口を閉じた。
しばらく聖女を見つめたあと、ムムへ向き直った。
「……必ず、聖女様を無事にお戻しください」
「もちろんです」
ムムは深く頭を下げた。
「それと、聖女様。一つお願いがございます」
「何でしょう?」
「お迎えに上がるまでに、身支度を整えておいていただけますか。できれば、一番よいお召し物でお願いいたします」
「……一番よい衣装、ですか?」
「はい。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
聖女は少し驚いた。
国王への謁見でさえ、普段どおりの服装で構わないと言われていた。それなのに、今回は最もよい衣装を求められている。
いったい、誰に会うのだろう。
ユウカを探しに行くだけのはずなのに。
不思議には思ったが、今はあの子のことが先だった。
「分かりました。準備いたします」
「ありがとうございます。それでは、夕方にお迎えに上がります」
ムムはいつものように微笑んだ。
聖女はその言葉にうなずいたが、胸の奥には小さな疑問が残っていた。
国王に会うときよりも、身支度を整えなければならない場所。
そこに、ユウカがいるのだろうか。




