道の先
王都を出発してから、二週間が経った。
聖女一行を乗せた馬車は、ようやく北の街を囲む大きな城壁へとたどり着いた。
ここへ至るまで、道の両側には広々とした平原が続いていた。遠くまで見渡しても、軍勢が身を隠せそうな森や山はほとんどない。
「ようやく着きましたね」
聖女が窓の外を眺めると、向かいに座るセインもうなずいた。
「王都から、ずいぶん離れているのですね」
「申し訳ありません。街の中心部までは、ここからもう少しお時間をいただくんです」
案内役のムムが、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「そうなのですか?」
「はい。まずは門を通りましょう」
紫色の髪をした彼女は、今回の北の街への訪問にも同行していた。
馬車は大きな門の前で止まり、門番による確認を受けた。やがて重厚な門が開き、一行は城壁の内側へと進む。
聖女は期待を込めて窓の外へ目を向けた。
ここからは、賑やかな街並みが続くのだろう。
そう思っていた。
「……あら?」
ところが、城壁をくぐった先に広がっていたのは、またしても広大な平原だった。
整備された道の両側には、何も建っていない土地が続いている。遠くには柵で囲まれた広場や、訓練場のような場所が点在していたが、人の姿はまばらだった。
「街は、まだ先なのですね」
「はい。ここからは道が少し複雑ですので」
ムムはそう答えた。
馬車は道なりに進んだ。
だが、その道が不思議だった。
まっすぐ進めそうな場所でも大きく曲がり、ときには進んできた方角へ戻るように走る。一つの角を曲がると、その先にもまた長い道が続いていた。
さらに進むと、大きな橋が現れた。
橋の下には、深く掘り込まれた水路が走っている。馬車が渡り終えると、道はまた大きく曲がり、しばらく進んだ先で別の橋を渡った。
一つ、また一つ。
どの橋も大きく、頑丈に造られていた。
向こう側の土地は見えている。けれど、そこへ行くには決められた道を進み、橋を渡らなければならない。
次の日も、その次の日も、複雑な道と大きな橋が続いた。
「……思っていたより、かかりますね」
城壁をくぐってから三日目。
聖女は窓の外を眺めながら、思わずそう漏らした。
「申し訳ありません。この辺りは迂回する道が多いものですから」
「何か理由があるのですか?」
「防衛のためです。万が一、外から攻め込まれても、簡単には中心部へ進めないようにしているんですよ」
セインが窓の外へ目を向けた。
見通しのよい平原に、複雑に曲がる道。そして、いくつもの大きな橋。
大勢で進軍したとしても、身を隠す場所は少ない。橋を渡らなければ進めない場所も多く、道を外れて一気に中心へ向かうことも難しいだろう。
「なるほど。よく考えられていますね」
「ありがとうございます」
ムムはにこりと笑った。
やがて、道の先に再び巨大な城壁が現れた。
聖女は驚いて窓から顔を上げる。
「また、城壁があるのですね」
「ええ。こちらを越えれば、今度は景色が変わりますよ」
馬車が門をくぐる。
その先には、一本のまっすぐな街道が伸びていた。
◇
「わあ……!」
聖女は思わず声を上げた。
道の両側には、どこまでも農地が広がっていた。
麦畑に野菜畑、遠くには果樹園らしき一角も見える。整備された水路が畑の間を走り、ぽつりぽつりと農家が建っていた。
先ほどまでの複雑な道とは違い、街道はまっすぐ続いている。
馬車はその真ん中を進んでいった。
しばらくすると、聖女は窓の外を眺めたまま首を傾げた。
「……あの、進んでいますよね?」
「はい?」
「景色が、ずっと同じに見えるものですから」
ムムがくすりと笑った。
「ちゃんと進んでいますよ。ここは農地が広いので、そう感じる方も多いんです」
街道沿いの家を通り過ぎると、また畑が続く。
さらに進んでも、やはり畑だった。
畑仕事をしている人々や、作物を積んだ荷車とすれ違うことはある。けれど、王都のような賑わいはまだ見えない。
見渡す限りの畑の中を、一本の道だけが伸びている。
これほどの広さで、いったいどれほどの食料を作っているのだろう。
聖女は感心すると同時に、以前聞いた話を思い出していた。
王国が苦しかった時代、北から多くの支援が届けられたという。
その食料の一部は、ここで作られていたのかもしれない。
やがて道の先に、三つ目の城壁が現れた。
大きな門を抜けると、今度は家々が増え始めた。店や工房が並び、行き交う荷馬車も増えていく。
そして、ある場所を境に景色が一変した。
「……すごい人ですね」
聖女は窓から身を乗り出しかけた。
広い通りの両側には店が並び、人々が行き交っている。市場には野菜や果物、布地、見慣れない工芸品まで、さまざまな品物が並んでいた。
王都も賑わっていたが、こちらはまた違う。
何より、目に入る人々の姿が実に多様だった。
頭に角のある人。獣のような耳を持つ人。頬や腕に鱗の見える人。
背丈も体つきもさまざまで、互いに当たり前のように言葉を交わしている。
「王都よりも、いろいろな種族の方が暮らしているのですね」
「ええ。昔から、さまざまな人々が集まってきた街ですから」
ムムが答えた。
市場を抜けた先には、さらに大きな城壁が見えていた。
聖女は、まだ街が奥へ続いていることに驚いた。しかし、馬車はその門へは向かわず、商業区に用意された宿泊施設の前で止まった。
「本日はこちらでお休みいただきます」
ムムに案内され、聖女たちは馬車を降りた。
宿の前には人々が行き交い、通りの向こうからは市場の賑わいが聞こえてくる。
奥の城壁の向こうにも街が広がっているのだろうが、ここからでは内側の様子までは分からなかった。
「ここが……あの王国を助けてくださった街なのですね」
聖女は静かに言った。
豊かな農地と、溢れるほどの人々。
王国の街も発展していたが、北の街は想像以上だった。
ふと、セインが通りへ目を向けたまま口を開いた。
「そういえば、ここまで魔物に一度も襲われませんでしたね」
「そうですね。二週間以上も旅をしているのに」
聖女も思い返した。
長距離の移動に備えて護衛を伴ってきたが、その出番は一度もなかった。
「この辺りの街道は、もう安全になっていますから」
ムムは穏やかに答えた。
「魔物が現れることは?」
「まったくないとは言いませんが、人々が日常的に利用する場所には、ほとんど出ませんよ」
「では、冒険者の方々はどうされているのでしょう。ダンジョンなどは?」
「ダンジョンは長い間、封鎖しております」
「こちらも、ですか」
「はい。皆が安心して暮らせるのなら、無理にレベルを上げる必要もありませんから」
聖女は通りへ目を向けた。
小さな子供が母親らしき女性と手をつないで歩いていた。
誰も魔物の襲撃を警戒しているようには見えない。
「……そうですね」
聖女は、安心したように微笑んだ。
◇
その夜。
聖女一行は、商業区に用意された宿泊施設で休んでいた。
ムムは翌日の視察について確認するため、席を外している。部屋には聖女とセインの二人だけが残っていた。
「聖女様」
セインが、静かに口を開いた。
「この街を、どう思われますか」
「どう、とは?」
「……どこか、おかしいとは思われませんか」
聖女は彼を見た。
セインは窓の外に目を向けていた。
夜になっても、商業区の通りには明かりが灯っている。店を出た人々が楽しそうに語らう声が、かすかに聞こえていた。
「違和感が強くなったのは、最初の門をくぐってからです」
セインは続けた。
「城壁の内側へ入ったのに、街はまだ先にあった。中心へ向かう道は何度も曲がり、大きな橋をいくつも渡って、三日かけてようやく次の城壁にたどり着きました」
「防衛のためだと、ムムさんがおっしゃっていましたね」
「ええ。実際、あの道は攻めにくく、守りやすい造りになっています。あれは、外から攻め込まれることを想定した道です」
聖女は、昼間まで通っていた長い道を思い出した。
見渡す限りの平原。複雑に曲がる街道。何本もの大きな橋。そして、その先に現れた城壁。
「外側の城壁も、今なお美しく整備されていました。門も堅牢で、奥にはさらにいくつもの城壁がある」
セインは一度、言葉を区切った。
「ですが、この辺りでは魔物がほとんど現れないと聞きました。ダンジョンも長く封鎖されていると」
「……そうですね」
「それなら、何から街を守ろうとしているのでしょうか」
魔物ではないのなら。
他国の軍勢。
人と人との戦争を、想定しているのだろうか。
そこまで考えた瞬間、セインは自ら思考を止めた。
いや、そんなはずはない。
防備が整っているからといって、戦争を望んでいることにはならない。人々の暮らしを守るために、備えを残しているだけかもしれない。
それに、こんなにも幸せそうな街で、戦争などという言葉を思い浮かべること自体が、ひどく不釣り合いに感じられた。
「……すみません。考えすぎかもしれません」
セインは小さく首を振った。
「ただ、王国へ来てから、ずっと感じていたこともあるのです」
聖女は黙って耳を傾けた。
「どこへ行っても、人々が笑っている。王都でも、ここへ来るまでに立ち寄った町でも、皆が満ち足りた暮らしをしていました」
「それは、よいことではありませんか」
「ええ。もちろんです」
セインはすぐにうなずいた。
「ですが……あまりにも、行き渡っているのです」
聖女は彼を見つめた。
「王国では、中心から遠く離れた小さな集落にも立ち寄りました。そこでも、人々は最低限の暮らしに困っていなかった。豪華ではなくとも、住む家があり、食べるものがありました」
「……そうですね」
「ここでは、それ以上です。これほど多くの種族が集まり、これほど多くの人が行き交っている。それなのに、争いや不満がほとんど見えない」
セインは、言葉を探すように一度口を閉じた。
「野心すら、感じられないのです」
「野心……」
「人より少しでも優位に立ちたい。今よりよい暮らしをしたい。自分や家族が、もっと幸せになれたらと思う。そうした願いは、誰にでもあるものでしょう」
セインは窓の外を見た。
「もちろん、それ自体が悪いわけではありません。ただ、人が大勢集まれば、望むものが重なり、ときには譲れないことも生まれます。種族が違えば、考え方や習慣の違いから、衝突することもあるはずです」
彼は聖女へ向き直った。
「ですが、この国では、そうしたものがほとんど見えません。誰もが今の暮らしに満足しているように見えるのです」
もちろん、短い視察ですべてが分かるとは思っていない。
そう付け加えて、セインは口を閉じた。
「何がおかしいのか、分からないのですね」
「……はい」
セインはうなずいた。
「魔物の脅威がほとんどない街に、幾重もの城壁がある。争いの見えない街に、侵攻を想定した道がある。どちらにも理由はあるのでしょう。ですが、どうにも引っかかるのです」
聖女は窓の外へ視線を移した。
その感覚は、自分にもあった。
王国を訪れてから、多くの町を見てきた。貧しさに苦しむ人は見当たらず、子供たちは安心して遊び、大人たちは穏やかに暮らしていた。
北の街でも、さまざまな種族が、互いを特別視することなく行き交っている。
誰もが笑い、誰もが明日を疑わずに眠れる。
そんな世界を、聖女はずっと願ってきた。
争いがなく、貧しさに苦しむ者もいない。
傷ついた人がいれば手を差し伸べ、違う種族であっても共に生きていける世界。
自分が聖女を目指したのも、そんな世界を少しでも実現したかったからだ。
そして今、その願いに限りなく近いものが目の前にある。
なのに、自分もまた、それを不自然だと感じている。
聖女は膝の上で両手を重ねた。
「……難しいですね」
ようやく出てきたのは、その一言だった。
「私は、世界がこのようであればと願ってきました」
セインは何も言わなかった。
「皆が安心して暮らし、笑顔で過ごせる。それを目指してきたはずなのに……いざ目の前にすると、何かがおかしいのではないかと考えてしまうのです」
聖女は小さく息をついた。
「疑うことが、ここで暮らす人々の幸せまで否定してしまうようで」
「……私も、それが分からないのです」
セインは窓の外を見た。
通りを歩く人々は、今も楽しそうに笑っている。
その笑顔が偽物だという証拠は、どこにもなかった。
「だからこそ、もう少し見ておきたいと思っています」
聖女は静かにうなずいた。
「ええ。私もです」
二人はしばらく、明かりの灯る商業区を眺めていた。
◇
氷の剣が、魔物の肩を切り裂いた。
「やっ!」
ユウカは着地と同時に身体をひねり、背後から迫っていたもう一体へ向き直った。
大きな腕が振り下ろされる。
ユウカはその下を滑るように抜けた。
剣を握る手に魔力を流し込む。普通の剣の柄から伸びた氷の刀身が、淡い光を帯びた。
次の一撃で、二体目の魔物が倒れた。
「……よし!」
ユウカは周囲を見回した。
動く魔物は、もういない。
ここはダンジョンの第九層。
初めて足を踏み入れた頃とは、ずいぶん違う場所まで来ていた。
最初のうちは、魔物が目の前に現れるだけで身体が強張った。
剣を握っていても、模擬戦とはまるで違う。こちらが止まってほしいと思っても、魔物は止まらない。大きな身体で迫られると、どうしても足がすくんでしまった。
体格の違う相手には、力で押し負けることも多かった。
けれど、今は違う。
二体を同時に相手にしても、慌てなくなった。
一体の攻撃をかわしながら、もう一体がどこにいるかを確かめられる。剣を受け止められれば氷を水に変え、刃が欠ければ瞬時に作り直す。
魔物の動きも、以前よりずっとよく見えるようになっていた。
「お見事」
少し離れた場所から、オレンジが声をかけた。
「今の二体は、うまくさばけてたね」
「うん!」
ユウカは嬉しそうに答えた。
だが、そのまま歩き出そうとして、足を止めた。
「……オレンジさん。休憩したいです」
「お、いいね。じゃあ、安全な場所を探そうか」
オレンジは周囲を見回し、少し先の見通しのよい場所へユウカを案内した。
ユウカは壁際に腰を下ろし、剣の柄を膝の上に置いた。
初めの頃は、魔物を倒せるのが嬉しくて、見つけるたびに戦っていた。
もっと先へ進める。
まだ戦える。
そう思って進んだ結果、帰り道で体力が尽きかけたこともある。
今は、そうならないように気をつけていた。
魔力をどれだけ使ったのか。帰るまでに、どれくらい歩かなければならないのか。休むなら、どこが安全なのか。
少しずつ、自分で考えられるようになってきた。
もっとも、それができるのもオレンジが一緒にいてくれるからだった。
危険な場所では先に気づいて教えてくれるし、ユウカが対処できない魔物が現れれば守ってくれる。
だからこそ、自分の力で戦う練習ができている。
「お水、飲む?」
「うん。ありがとう」
ユウカは差し出された水筒を受け取り、ゆっくりと水を飲んだ。
オレンジはその隣に腰を下ろした。
「あと少しだね」
「あと少し?」
「次の第十層にはボスがいるよ。そこまで行けば、ひとまず一区切りかな」
「ボス……!」
ユウカは水筒を下ろした。
今のレベルは九。
ここまで来る間に、確かに強くなった。けれど、第十層のボスを一人で倒せるかと聞かれたら、まだ自信はなかった。
「……わたし、勝てるかな」
「どうだろうね。今のユウカなら、普通の魔物には十分対応できる。でも、ボスは別だからなあ」
オレンジは少し考えた。
ユウカの動きは速い。相手の攻撃をかわすことも、隙を見つけることも上達している。
ただ、体格の大きな相手や、頑丈な相手になると話は違った。
何度攻撃しても、決定的な傷を与えられない可能性がある。
「何か一つ、大きなダメージを与えられる技があればいいんだけどね」
「大きな、ダメージ……」
ユウカは膝の上に置いた剣の柄を見つめた。
氷の刃を作ることはできる。
欠けても直せるし、水に変えることもできる。
でも、相手を一撃で倒すような技は、まだ持っていなかった。
「……どうしたらいいんだろう」
「そこを考えるのも、修行のうちだよ」
オレンジは笑って、水筒を受け取った。
「今日は無理に進まなくてもいい。第十層へ行く前に、もう少し試してみようか」
「うん!」
ユウカは大きくうなずいた。
第十層のボス。
まだ見ぬ相手を思い浮かべながら、もう一度、剣の柄を握った。




