前に進む
「お兄さん!」
ユウカは大きな木に向かって走った。
いつも青年が座っている白い椅子が見える。
けれど、そこには誰もいなかった。
「あれ……?」
足を止める。
よく見ると、その隣にも椅子が置かれていた。そこには、長い白髪の女の人が座っている。
わたしよりずっと年上だけれど、大人というには少し若く見える。聖教国にいる、十こくらい年上の先輩と同じくらいだろうか。
女の人はユウカに気づくと、少し驚いた顔をした。
「あなた、どうやってここへ来たの? ここには――」
そこまで言いかけて、言葉を止めた。
ユウカの姿をじっと見つめる。
さっきまでとは違い、その表情が厳しくなっていた。
「あ、あの……」
ユウカは思わず足を止めた。
「わたし、最近ここに来てて……」
「最近?」
「はい。いつもは夜になってから来るんです。でも、今日は夜になる前に来られて……」
「夜になる前?」
「鏡から来たんです。いつもは、お兄さんがここにいるんですけど……」
女の人は何も言わなかった。
ユウカは空いている白い椅子を見つめた。
「今日は、お兄さんはいないんですか?」
女の人は答えず、自分の椅子の脇に置かれた小さな鈴へ手を伸ばした。
ちりん。
澄んだ音が、静かな草原に響いた。
すると、いつものメイドのお姉さんが、どこからともなく現れた。
「お呼びでしょうか、白様」
「この子のこと、知っている?」
女の人がユウカを指さした。
メイドのお姉さんはこちらを見ると、静かに頭を下げた。
「はい。存じております」
「そう。では、確認するわ。この子はどういう子なの?」
「シキ様のお客様でございます」
女の人は目を見開いた。
「……この子が?」
「はい」
「シキ様ご自身が、この子を客人として迎えたというの?」
「そのとおりでございます」
「間違いないのね?」
「私は嘘がつけません。本当でございます」
女の人はユウカを見た。
それからメイドのお姉さんを見る。
もう一度ユウカを見て、何かを考えるように口元へ手を当てた。
「……そう」
ユウカには、何の話をしているのかよく分からなかった。
ただ、シキ様というのは、きっとあのお兄さんのことなのだろう。
「あの、お兄さんは……?」
「一旦保留よ」
「……ほりゅう?」
「ああ、あなたのことじゃないわ。こっちの話」
女の人は小さく息をついた。
「あなたが待っているシキ様は、今お仕事中なの」
「お仕事……」
「そう。だから、しばらく戻ってこられないわ」
「……そっか」
ユウカは肩を落とした。
せっかく会えると思ったのに。
そんなユウカを見て、女の人は少しだけ表情を和らげた。
「とはいえ、下手にどこかへ連れていくわけにもいかないわね」
女の人はメイドのお姉さんへ目を向けた。
「このゴーレムでは、臨機応変な対応は難しいでしょうし……」
そして、何かを考えるように腕を組んだ。
「今は戦も起きていないから、オレンジなら手が空いているかしら。あの子なら子供の相手もできるでしょう」
女の人は顔を上げた。
「オレンジを呼んで頂戴」
「かしこまりました」
メイドのお姉さんは一礼すると、姿を消した。
ユウカは思わず、その場所を見つめた。
何度見ても不思議だった。
どこへ行ってしまうのだろう。
そう思った次の瞬間。
「お呼びでしょうか、白様」
今度は、オレンジ色の髪をした女の人が現れた。
「わっ!」
ユウカは驚いて一歩後ろへ下がった。
女の人は長い髪を後ろでまとめ、黒を基調とした服を着ていた。白い襟や袖飾りがついていて、メイドのお姉さんの服にも少し似ている。
けれど、腰には小さなラッパが下がり、背には自分の背丈よりもずっと大きな旗を携えていた。
その姿は、ユウカの知っているメイドとも、神官とも違っていた。
女の人はユウカを見つけると、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……子供?」
「ええ。シキ様のお客様よ」
「シキ様の?」
オレンジ色の髪の人も驚いた顔になった。
ユウカは二人を見比べた。
さっきから、みんな同じ顔をする。
わたし、何か変なことをしたのかな。
「この子をお願い。私はこれから仕事があるの」
「承知しました」
「シキ様が戻られるまで、一緒にいてあげて。勝手に変なところへ連れていかないこと」
「はい」
「それと、何か変わったことがあれば報告して頂戴」
「かしこまりました」
白い髪のお姉さんは、そこでユウカを見た。
「あなた、お名前は?」
「ユウカです」
「そう。ユウカ。私は白と呼ばれているわ」
「しろ……?」
「ええ。よろしくね」
「あ、はい。よろしくお願いします!」
ユウカが頭を下げると、白いお姉さんは小さくうなずいた。
それからオレンジ色の髪の人に何かを耳打ちし、その場を離れていった。
◇
「さて、と」
オレンジ色の髪の人が、ユウカの前にしゃがんだ。
「私はオレンジ。よろしくね、ユウカ」
「よろしくお願いします!」
「そんなにかしこまらなくていいよ。シキ様のお客様なんだから」
オレンジさんはにっこり笑った。
さっきの白いお姉さんとは、ずいぶん雰囲気が違う。
ユウカは少し安心した。
「あの……」
「ん?」
「お兄さん、いつ帰ってくるの?」
「シキ様? うーん、お仕事次第かな」
「……そうなんだ」
ユウカは大樹の下にある空の椅子を見た。
いつもなら、あそこにお兄さんが座っている。
今日も、きっといると思っていた。
会ったら何を話そう。
昨日より少しだけ長く光を出せたことを、見てもらおう。
そんなことを考えながら、ここまで走ってきたのに。
「シキ様に会いに来たんだね」
ユウカはうなずいた。
「……うん」
「そっか。じゃあ、帰ってくるまで一緒に待とうか」
「ここにいてもいいの?」
「もちろん」
オレンジさんは、ユウカの隣に腰を下ろした。
「何して待つ? お菓子でも食べる?」
ユウカは少し考えた。
お菓子も食べたい。
でも、今日はそれよりも、やりたいことがあった。
「あのね」
「うん?」
「魔法の練習、してもいい?」
「魔法?」
「わたし、聖女見習いなの。でも、まだうまくできなくて……」
ユウカは自分の手を見せた。
「いつもここで、お兄さんに見てもらってたの」
オレンジさんはユウカの手を見たあと、白い椅子へ視線を向けた。
「……シキ様が?」
「うん!」
ユウカは大きくうなずいた。
「何回失敗しても、ずっと見ててくれるんだよ」
オレンジさんは、少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「そうなんだ」
「だからね、今日も練習したいの」
「いいよ。私も見ててあげる」
「ほんと?」
「うん。何の魔法を練習してるの?」
「光を出すの!」
ユウカは両手を前に出した。
「でも、ちょっとしか出ないんだ」
「へえ。じゃあ、見せてくれる?」
「うん!」
ユウカは草の上に立ち、いつものように両手を重ねた。
ゆっくりと息を吸う。
指先に魔力を集める。
すると、手のひらに小さな光が灯った。
「……あっ!」
けれど、すぐに消えてしまった。
ユウカは少しだけ眉を下げた。
オレンジさんは、消えた光を追うようにユウカの手を見つめていた。
「……それ、やり方がなんか違わない? 気持ち悪くならないの?」
「え?」
「魔力を出すとき。具合が悪くなったりしない?」
「ううん。ぜんぜん」
ユウカは首を横に振った。
オレンジさんは首を傾け、もう一度ユウカの手を見た。
「出力が足りてないね」
「しゅつりょく?」
「ああ、ごめん。出してる魔力が少ないってこと」
「……やっぱり、わたしの魔力が少ないから?」
「いや、そうじゃないんだよね」
オレンジさんは草の上に指で一本の線を引いた。
「普通の人なら、今の魔力でも十分に光を出せると思う。でも、ユウカは魔力の通り道が太すぎるんだよ」
「太い?」
「そう。大きな水路に、ほんの少しだけ水を流してるようなものかな。途中で広がっちゃって、先まで届かないんだ」
ユウカは自分の手を見た。
さっきの光は、すぐに消えてしまった。
「じゃあ、いっぱい魔力を出せばいいの?」
そう口にしてから、ユウカは不安そうに眉を下げた。
「でも、教えてもらった人に、魔力を一度に出しすぎると爆発するって言われたの。危ないから、そんなことできないよ」
「うん。普通なら、むやみにやることじゃないね」
オレンジさんはあっさりとうなずいた。
「でも、そこは私がなんとかするから」
「……なんとか?」
「爆発しそうになったら、私が抑えるよ。ユウカは安心して、魔力を出すことだけ考えて」
「ほんとに?」
「うん。任せて」
ユウカはオレンジさんを見つめた。
初めて会ったばかりだけれど、不思議と怖くなかった。
「……じゃあ、やってみる」
「よし!」
オレンジさんは立ち上がり、背中の大きな旗を手に取った。
その石突きを地面に立てると、旗布がふわりと広がった。
「準備できたよ。思いきってやってみようか」
「……うん!」
ユウカは両手を重ねた。
いつものように、ゆっくりと魔力を集める。
「もっと出していいよ」
「うん……!」
手のひらに、小さな光が灯った。
今度は消えない。
ユウカはさらに魔力を込めた。
光が、少しずつ大きくなっていく。
「あっ……!」
初めて見る大きさだった。
けれど、光は突然ぐらりと揺れた。
「そのまま!」
オレンジさんの声が聞こえた。
次の瞬間、光がぱん、と弾けた。
「きゃっ!」
ユウカは思わず目を閉じた。
けれど、熱さも痛みもなかった。
恐る恐る目を開けると、目の前に小さな透明の球体が浮かんでいた。
弾けた光は、その中に閉じ込められていた。光の粒が球体の内側で激しくぶつかり、何度も小さく弾けている。
やがて光は弱まり、すうっと消えた。
「……あれ?」
「大丈夫。ちゃんと抑えたよ」
オレンジさんが旗を軽く振ると、球体も跡形もなく消えた。
ユウカは自分の手を見つめた。
さっきまで、あんなに大きな光があったのに。
「……できた」
嬉しさが込み上げてきた。
「できた! オレンジさん、わたし、できたよ!」
「うん。大きな光が出たね」
ユウカは笑った。
けれど、喜んでいられたのは、ほんの少しの間だった。
「はあ……はあ……」
急に身体が重くなった。
足に力が入らず、ユウカはその場にしゃがみ込む。
「……すごく、つかれた」
大きな光を出せた。
でも、一度使っただけで、こんなに身体がだるくなってしまう。
これでは、誰かを治すどころか、続けて魔法を使うことさえできない。
「……こんなんじゃ……」
「だから、さっき聞いたんだよ。そんなにぐるぐる属性を変えて、気持ち悪くならないの?」
「……え?」
ユウカは顔を上げた。
「ぞくせい?」
「うん。ユウカ、自分で気づいてない?」
オレンジさんは、少し困ったように笑った。
「魔力を出してから、何度も何度も属性を変えてるんだよ。あっちに変えて、こっちに変えて、また別のものに変えて……」
ユウカは首を傾げた。
「わたし、そんなことしてるの?」
「してる。最後にようやく光になってるけど、そこまでに何回変換してるのか、私にも追いきれなかったよ」
オレンジさんはユウカの手を指さした。
「それだけ魔力の通り道が大きいのに、何度も属性を変えてたら、途中で魔力が散っちゃう。だから、あんなに小さな光しか出なかったんだと思う」
「……そうなの?」
「うん。魔力が少ないわけじゃないよ。むしろ、かなり多いはず」
オレンジさんはそこで少し考え込んだ。
「……というか、あなたの場合、魔力の量なんて関係ないか」
「え?」
「ううん、こっちの話」
ユウカは自分の両手を見つめた。
今まで、魔力が足りないのだと思っていた。
みんなより力が弱いから、光が小さいのだと。
けれど、オレンジさんは違うと言っている。
「じゃあ……どうしたらいいの?」
「まずは、自分の特性を知った方がいいね」
「とくせい?」
「自分がどんな魔法を使いやすいのか、何が得意なのかってこと。今のユウカは、合わないやり方を無理に続けてるように見えるんだよね」
ユウカは黙って、自分の手を見つめた。
今朝のことが、頭に浮かんだ。
仕事がなくなって、修行もお休みになった。
ほかの見習いたちは、今も練習しているはずだ。
なのに、わたしだけ。
鏡に映っていた自分の顔を思い出した。
こけた頬。冴えない顔色。
自分で「できそこない」と言ったとき、鏡の中の女の子は悲しそうな顔をしていた。
また、捨てられるのかな。
あのとき頭の中をぐるぐる回っていた言葉が、よみがえってくる。
何もできない自分。
誰の役にも立てない自分。
このまま、ずっと何もできなかったら……。
「ユウカ?」
オレンジさんの声に、顔を上げた。
聖女様のようになりたかった。
怪我をした人を治して、病気で苦しんでいる人を助けたかった。
だから、治癒魔法を覚えたかった。
今も、その気持ちは変わっていない。
でも、自分に何ができるのかさえ分からないまま、ここにいるのは嫌だった。
「あの……」
「ん?」
「わたし、聖女様みたいになりたいの」
ユウカは小さな声で言った。
「治す魔法を使えるようになって、みんなを助けたいの」
オレンジさんは、静かに話を聞いていた。
「だから、これも上手になりたい。でも……」
ユウカは自分の手を握った。
「わたしに何ができるのかも、知りたい」
そして、顔を上げた。
「オレンジさん。わたしのこと、教えてください!」
オレンジさんは少し驚いた顔をした。
それから、にっこり笑った。
「いいよ。一緒に調べてみようか」
「……ほんと?」
「もちろん。治す魔法だって、今ここで諦める必要はないからね」
ユウカの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとう!」
◇
オレンジは、嬉しそうに自分の手を見つめるユウカを眺めていた。
その笑顔を見ながら、先ほどの魔力の流れを思い返す。
あれほど何度も属性を変換して、最後に光を生み出すなど、普通では考えられない。しかも、本人にはその自覚がない。
ほんの少し出力を上げただけで、あの反応だ。
適切な使い方を覚えれば、この子はどこまで強くなるのだろう。
そこまで考えて、オレンジの表情から笑みが消えた。
……待って。
今、自分は何をしようとしている?
目の前にいるのは、人間の子供だ。
自分は、人間を滅ぼすために生きてきた。シキ様のために、いつか来る戦いに備え、戦術を考え、力を蓄えてきた。
それなのに、今は人間の子供を強くしようとしている。
しかも、これほどの才能を持った子を。
この力が、いつか自分たちに向けられたら。
オレンジはユウカを見た。
何も知らない少女は、今も嬉しそうに両手を眺めている。
……この子に、教えていいのだろうか。
白様からは、シキ様が戻るまで一緒にいるよう命じられた。
シキ様ご自身が客人として迎えたことも、間違いない。
でも、客人だからといって、力の使い方まで教えていいとは言われていない。
オレンジは空いた白い椅子へ視線を向けた。
そこに、シキの姿はない。
けれど、シキ様がこの子を客人として迎えた以上、こうなることを想定していなかったはずがない。
自分がユウカに力の使い方を教えることも、きっと想定の範囲内だろう。
ならば、今の流れで進もう。
オレンジはユウカへ向き直り、いつもの笑顔を戻した。
「よし、ユウカ。まずは何が得意なのか、そこから確かめてみよう」
「うん!」
ユウカは大きくうなずいた。
オレンジは旗を肩に担ぎ直す。
「さっきみたいに、いきなり全部出したりしないでね」
「うん!」
その返事を聞いて、オレンジは笑った。
この子がどこまで強くなるのか。
少なくとも今は、それを見てみたいと思っていた。




