見習い
「……あれ?」
ユウカは、自分の手のひらを見つめた。
指先に集めた光が、また消えてしまった。
もう一度、ゆっくりと息を吸う。
教わったとおりに魔力を集め、両手を重ねた。
ほんの一瞬、淡い光が灯る。
「あっ!」
しかし、喜んだのも束の間だった。
光は小さく揺れ、そのまま消えてしまった。
「……また、だめだった」
ユウカは肩を落とした。
朝日が昇り始めたばかりの庭には、まだ誰の姿もない。
もう一度やってみようか。
そう思ったところで、館の方から人の声が聞こえてきた。
そろそろ朝の仕事が始まる時間だった。
ユウカは手のひらをぎゅっと握り、館へと戻っていった。
◇
ユウカは七歳の聖女見習いだった。
朝の仕事は、聖女のための支度を手伝うことから始まる。
ただし、聖女の着替えや身の回りの世話は、専属のそば付きたちが行っている。
ユウカに任されるのは、必要な布や道具を運び、使い終わったものを片付けることだった。
「ユウカさん。こちらを控え室までお願いします」
「はい!」
ユウカは籠を受け取り、両手で抱えた。
中には、綺麗に畳まれた布が入っている。
落とさないように気をつけながら廊下を進み、指定された部屋へ届けた。
「ありがとうございました。もう大丈夫ですよ」
「あの、ほかに何かありますか?」
「今はありません。修行の時間まで休んでいてください」
「……はい」
ユウカは頭を下げ、部屋を後にした。
周囲では、神官やほかの見習いたちが忙しそうに行き交っている。
聖女の予定を確認する者。治療に使う道具を準備する者。書類を受け取り、足早に次の部屋へ向かう者。
皆、それぞれの役目を持っていた。
ユウカは廊下の端に寄り、行き交う人々を眺めた。
何か手伝えることはないだろうか。
そう思っても、声をかける前に仕事は片付いてしまう。
聖女の近くには、優秀な人々が集まっていた。
正式な神官たちはもちろん、聖女見習いたちも高いレベルと優れた魔法の力を持っている。
その中で、ユウカだけは違った。
魔法が苦手で、ほかの見習いと同じことができないのだ。
ユウカには、家族の記憶がなかった。
物心がついた頃には、拾われた先で、ほかの子供たちと一緒に暮らしていた。
父親も母親も知らない。
自分がどこで生まれたのかも、分からなかった。
食事はいつも、みんなで少しずつ分け合っていた。
お腹いっぱい食べられることはほとんどなく、次の食事までお腹が鳴ることも珍しくなかった。
それでも、そういうものなのだと思っていた。
そんなユウカに、魔法の力があることが分かった。
そして、聖女見習いとして迎えられたのだ。
魔法を覚えれば、怪我をした人や病気の人を助けられる。
自分にも、誰かの役に立てることがある。
そう思うと、嬉しかった。
けれど、実際に修行が始まると、ほかの見習いたちとの違いはすぐに明らかになった。
どれだけ練習しても、魔法がうまく使えない。
今回の王国訪問も、本当なら別の聖女見習いが同行する予定だった。
その子は見習いの中でも特に優秀で、すでに神官にも劣らないほどの治癒魔法を使えるという。
ところが出発前、近くの街で大きな事故が起こった。
多くの怪我人が出たため、その見習いは救護へ向かうことになったのだ。
そして、代わりに選ばれたのがユウカだった。
だから、自分がここにいるのは、たまたまなのだ。
廊下の向こうから、話し声が聞こえてきた。
「どうして、あの子が同行しているの?」
「ほかに人がいなかったんでしょう」
ユウカは足を止めた。
けれど、声のする方を確かめようとはしなかった。
直接、何かを言われたわけではない。
誰かに意地悪をされたこともない。
ただ、誰もユウカに話しかけてこなかった。
仕事の用事があれば声をかけてくれる。でも、それが終われば、皆それぞれの仲間のところへ戻っていく。
ユウカは一人で、修行の場所へ向かった。
◇
修行場には、いくつもの光が浮かんでいた。
神官たちは奥の区画で、複雑な治癒術の実技に取り組んでいる。
その手元には幾重にも魔法の光が重なり、術式を組み替えるたび、淡い輝きが広がっていた。
一方、聖女見習いたちには別の課題が与えられていた。
今日の課題は、手のひらに魔力を集め、光を一定の大きさに保つこと。
基礎的な魔力制御の修行だった。
「次、ユウカ」
「はい!」
名前を呼ばれ、ユウカは前へ出た。
周りの見習いたちは、すでに成功している。
手のひらの上で大きな光を輝かせている子もいれば、いくつもの光を浮かべてみせる子もいた。
修行場のあちらこちらが、魔法の光で明るく照らされている。
ユウカは深呼吸をして、両手を前に出した。
何度も練習してきた。
昨日も、その前の日も。
今朝だって、早く起きて練習した。
だから、今日こそは。
「……えいっ」
指先に、小さな光が灯った。
けれど、すぐに消えてしまう。
「もう一度」
「はい!」
ユウカは再び魔力を集めた。
今度は、ほんの小さな光が手のひらに浮かんだ。
消えないように、そっと息を止める。
しかし、光は次第に弱くなり、やがて見えなくなった。
「……っ」
ユウカは唇を噛んだ。
どうして、うまくいかないんだろう。
教わったとおりにしているはずなのに。
顔を上げると、周囲にはたくさんの光があふれていた。
神官たちの光。
見習いたちの光。
どれも明るく、綺麗に輝いている。
それなのに。
自分の手から出るのは、こんなに弱い光だけだった。
「今日はここまでにしましょう」
「……はい」
指導役の声に、ユウカは頭を下げた。
怒られたわけではない。
それでも、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
◇
夜。
聖女一行には、王国から立派な館が一棟、滞在先として提供されていた。
広い食堂や客間を備えたその館は、王宮の敷地内に建てられている。
聖女見習いたちに与えられた部屋も、ユウカが今まで泊まったことのないほど豪華だった。
大きな窓に、柔らかな絨毯。天井には美しい装飾が施され、調度品も立派なものばかりだった。
ただし、見習いたちは五人で一部屋だった。
広い床に布団を並べ、みんなで眠っている。
本来なら、王国へ同行する予定だった優秀な見習いも、ここで寝泊まりするはずだった。
ユウカは布団の中で、じっと天井を見つめていた。
周りからは、四人の寝息が聞こえてくる。
少し眠ったら、また魔法の練習をしよう。
そう思って布団に入ったのに、昼間の失敗が何度も頭に浮かんで、なかなか眠れなかった。
周りには、あんなに綺麗な光があふれていた。
なのに、自分の光はすぐに消えてしまった。
ユウカは布団から手を出し、指先をじっと見つめた。
いつもなら、少し眠れば十分なのに。
「……もう一回だけ」
今日はもう、眠るのをやめよう。
ユウカはそう決めると、そっと布団を抜け出した。
ここで魔法の練習をしたら、ほかの四人を起こしてしまうかもしれない。
何かを壊してしまっても大変だ。
上着を羽織り、眠っている見習いたちの間を静かに歩く。
誰も起きていないことを確かめてから、ユウカはそっと扉を開けた。
館の中は静まり返っていた。
少しでも、みんなに追いつきたい。
治癒魔法を使えるようになりたい。
怪我をした人も、病気で苦しんでいる人も助けたい。
自分も、誰かの役に立ちたい。
今度こそ、ちゃんと光を出せるようになりたい。
そんなことを考えながら、人のいない練習場所を探して館の中を歩いていた。
けれど、なかなかよさそうな場所は見つからない。
いくつか廊下を曲がったところで、ユウカは足を止めた。
「……あれ?」
いつの間にか、見覚えのない場所に来てしまっていた。
ここでは練習できそうにない。
一度戻ろうと思い、ユウカは振り返った。
けれど、どこから来たのか、よく分からない。
「……こっちだったかな?」
首を傾げたとき、廊下の奥に大きな鏡があることに気づいた。
立派な額縁に収められた、背丈よりもずっと大きな鏡だった。
なぜだろう。
その鏡が、妙に気になった。
練習する場所を探していたはずなのに、ユウカの足は自然と鏡の方へ向かっていた。
鏡の前に立つ。
そこには、小さな女の子が映っていた。
少しこけた頬。
冴えない顔色。
身体は元気なのに、鏡の中の自分はずいぶんやつれて見えた。
「……できそこない」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
鏡の中の女の子も、同じように口を動かした。
そして、悲しそうな顔になった。
ユウカはその顔を見つめた。
自分で言っただけなのに。
胸の奥が、きゅっと痛くなった。
「……やだな」
泣きそうな顔を隠すように、ユウカは鏡へ手を伸ばした。
指先が、鏡に触れた。
そのはずだった。
「……え?」
手が、鏡の中へ入っていた。
冷たいガラスに触れる感触はない。
まるで水の中へ手を入れたように、指先が向こう側へ沈んでいる。
ユウカは目を丸くした。
「な、なにこれ……?」
慌てて手を引こうとした。
その瞬間、体がぐらりと前に傾いた。
「あっ――!」
鏡の向こうへ、ユウカの体が吸い込まれていった。
◇
「いたた……」
気がつくと、ユウカは柔らかな草の上に座り込んでいた。
顔を上げる。
「……え?」
そこには、見渡す限りの草原が広がっていた。
頭上には青い空。
頬を撫でる風は心地よく、どこからか鳥の鳴き声も聞こえてくる。
さっきまで、館の廊下にいたはずなのに。
「ここ……どこ?」
振り返っても、鏡はなかった。
代わりに、遠くまで草原が続いている。
ユウカは不安になり、辺りを見回した。
すると、少し離れたところに大きな木が見えた。
見上げても枝の先が分からないほど、立派な木だった。
その下に、誰かが座っている。
「あ……人だ」
ユウカは立ち上がった。
草を踏みしめながら、ゆっくりと近づく。
大樹の下には、白い椅子が置かれていた。
そこに一人の青年が座っている。
特別な服を着ているわけでもなく、どこにでもいそうな普通の青年だった。
青年は何をするでもなく、ぼんやりと空を眺めている。
「あの……」
ユウカが声をかけると、青年はこちらを向いた。
「ここがどこか、分かりますか?」
返事はなかった。
青年は少し驚いた顔をしたが、その後はユウカをじっと見つめていた。
「あ、えっと……わたし、館にいたんです。でも、鏡にさわったら、ここに来ちゃって……」
青年はユウカの後ろへ視線を向ける。
「……鏡から来たのかって?」
青年がうなずいた。
「そうなの! 手が中に入って、びっくりして……」
話しながら、ユウカは不思議に思った。
青年は一言も話していない。
それなのに、何を聞こうとしているのか、なぜか分かる。
「お兄さん、話せないの?」
青年は小さくうなずいた。
「そっか」
ユウカは少し考えた。
「でも、なんとなく分かるよ」
青年は、また首を傾けた。
ユウカも同じように首を傾げる。
二人はしばらく顔を見合わせていた。
やがて青年が、隣の空いた場所を指さした。
「……ここにいていいの?」
こくり。
「ありがとう」
ユウカが近づくと、青年は軽く手を叩いた。
ぱん、ぱん。
すると、いつの間にか一人のメイドが傍らに立っていた。
「お呼びでしょうか」
ユウカは驚いて青年の後ろを見た。
今まで、そこには誰もいなかったはずなのに。
青年はユウカを指さし、それから隣の空いた場所を示した。
メイドは一瞬、ユウカへ目を向けた。
けれど、すぐに静かに頭を下げる。
「かしこまりました」
しばらくすると、もう一脚の白い椅子と、小さなテーブルが用意された。
テーブルには、温かいお茶と色とりどりのお菓子が並べられていく。
「わあ……!」
ユウカの目が輝いた。
小さな焼き菓子に、果物を使った甘いお菓子。見たことのないものまである。
食事を分け合っていた頃は、甘いお菓子など滅多に口にできなかった。
こんなにたくさんのお菓子を、自分が食べてもいいのだろうか。
「これ、食べてもいいの?」
青年がうなずく。
「ありがとう!」
ユウカは椅子に座り、お菓子を一つ手に取った。
◇
「……おいしい!」
ひと口かじると、甘い味が口いっぱいに広がった。
ユウカは目を丸くし、もう一度お菓子を見つめた。
そして、残りをぱくりと口に入れる。
さっきまで胸の奥にあった悲しい気持ちが、どこかへ飛んでいってしまった。
鏡の前で泣きそうになっていたのが、嘘のようだった。
「お兄さん、これ、すっごくおいしい!」
ユウカが笑うと、青年も少しだけ表情を和らげた。
「お兄さんは食べないの?」
青年は首を横に振った。
「そうなんだ。じゃあ、もう一個もらっていい?」
こくり。
「やった!」
ユウカは嬉しそうに、別のお菓子へ手を伸ばした。
メイドがそっとお茶を注いでくれる。
「あ、ありがとうございます!」
ユウカが頭を下げると、メイドは静かに微笑んだ。
それからしばらく、二人の間に会話はなかった。
青年は大樹の下で空を眺めている。
ユウカはお菓子を食べ、お茶を飲んだ。
最初は見知らぬ場所に来てしまったことが怖かった。
でも、青年は怒らない。
メイドも優しい。
何より、お菓子がおいしかった。
ユウカは椅子に座ったまま、足をぶらぶらと揺らした。
やがて、皿の上のお菓子が少なくなってきた。
ユウカは空になりかけた皿を見つめ、それから大きな木を見上げた。
どこまでも広がる草原。
柔らかな風。
ここなら、少しくらい魔法の練習をしても、誰かの邪魔にはならないだろうか。
「あのね、お兄さん」
青年がこちらを向く。
「ここで、魔法の練習をしてもいい?」
青年は少し首を傾けた。
「わたし、聖女見習いなの。でも、魔法がまだうまくできなくて……」
ユウカは自分の手を見つめた。
「お部屋だと、ほかの子を起こしちゃうから。ここなら大丈夫かなって」
青年はユウカを見つめ、それからゆっくりとうなずいた。
「ほんと? ありがとう!」
ユウカは椅子から飛び降りた。
テーブルから少し離れ、草の上に立つ。
青年は白い椅子に座ったまま、そんなユウカを眺めていた。
「えっと……こうして……」
ユウカは両手を前に出した。
目を閉じ、教わったとおりに魔力を集める。
指先に、小さな光が灯った。
「あっ!」
けれど、すぐに消えてしまう。
「……もう一回」
今度は深呼吸をしてから、両手を重ねた。
光が灯る。
さっきよりも、ほんの少しだけ長く輝いた。
しかし、やはり消えてしまった。
「うーん……」
ユウカは首を傾げた。
手のひらを見つめ、もう一度構える。
その様子を、青年は黙って見守っていた。
失敗しても、何も言わない。
小さな光が灯ると、ユウカと一緒にその光を目で追い、消えるとまた彼女へ視線を戻した。
「今度こそ……!」
ユウカは小さな声で気合いを入れた。
何度も、何度も。
光を灯しては消し、また両手を重ねる。
すでに夜は深いはずなのに、ユウカの動きが鈍ることはなかった。
それでも、光はなかなか大きくならない。
青年は椅子の背にもたれ、懸命に練習するユウカを、どこか愛おしそうな眼差しで見つめていた。
大きな木の下で、小さな光がまた一つ灯る。
ユウカはその光を消さないよう、両手をそっと包み込んだ。




