閉ざされた王国
船を降りた聖女は、目の前に広がる光景に足を止めた。
港には、大小さまざまな漁船が並んでいた。
細長い船体のものもあれば、横幅の広いものもある。岸壁では水揚げされた魚が次々と運ばれ、網を繕う漁師たちの声が響いていた。
長く国を閉ざしていた王国に、大型の貿易船の姿はまだない。それでも、この港が活気に満ちていることは一目で分かった。
「……ここが、王国ですか」
聖女は港を見渡した。
原因不明の疫病が世界中を襲ったのは、半世紀以上も前のことだった。
各国は大混乱に陥り、感染を恐れて国境や港を閉ざした。人の往来は禁じられ、国々を結んでいた交易路も次々と途絶えていった。
その中でも、最も大きな被害を受けたのが、この王国である。
十年にわたる流行で、国民の七割が命を落としたという。
小さな島国である王国は、外の世界との国交を断った。疫病が終息してからも原因が分からず、北の街との限られた往来を除いて、長い間その扉が開かれることはなかった。
そんな絶望的な状況でも、当時のテル王子は復興を諦めなかったと伝えられている。
残された民を守り、食料を確保し、荒れ果てた街を立て直した。
その努力が、今の王国につながっているのだろうか。
「聖女様。お迎えの馬車が参りました」
声をかけたのは、勇者育成機関から護衛として派遣されたセインだった。
生成り色の長いローブをまとい、その下には濃紺の上衣を着ている。腰の革ベルトには一本の長剣が下げられ、歩き慣れた革の長靴には旅の跡が残っていた。
背中へ落としたフードと飾り気のない服装は、騎士というより旅の修行者を思わせる。
その周囲には、聖女の護衛を務める騎士たちが控えていた。聖女付きの見習いたちも荷物を手に、一行に続いている。
「参りましょう」
「ええ」
聖女はうなずき、港から続く道へ目を向けた。
◇
馬車が走り始めて間もなく、聖女は窓の外から目を離せなくなっていた。
道は平らに整えられ、車輪が大きく跳ねることもない。建物は整然と並び、道端にごみはほとんど落ちていなかった。
街を流れる水路は綺麗に管理され、街路樹の根元にまで手入れが行き届いている。
商店の前では人々が立ち話をし、仕事道具を担いだ職人が通り過ぎていく。子供たちは楽しそうに言葉を交わしながら、連れ立って歩いていた。
誰もが、ごく普通の日常を送っている。
「……驚きました」
聖女は思わずつぶやいた。
帝国の都にも足を運んだことがある。しかし、少なくとも今見ている街並みに限れば、帝国以上に整備されていると言ってよかった。
「随分と復興が進んでいますね」
向かいに座るセインも、窓の外へ目を向けていた。
「ええ。ここまでとは思っていませんでした」
これが、国民の七割を失った国なのだろうか。
聖女は王宮へ向かうまで、何度も窓の外へ目を向けた。
◇
王宮では、ミル王が一行を迎えた。
かつて疫病の中で国を支えたテル王の孫にあたる人物である。
「ようこそ、我が王国へ。聖女様をお迎えできること、心より嬉しく思います」
「お招きいただき、ありがとうございます。ミル陛下」
聖女は丁寧に頭を下げた。
その少し後ろでセインも一礼し、護衛騎士たちは控えの位置につく。聖女見習いたちも静かに頭を下げた。
今回の訪問には、大切な役目があった。
長く国を閉ざしていた王国の現状を確認し、国際社会への復帰を後押しすること。
疫病の原因と対策がようやく明らかになったとはいえ、各国には今なお王国への不安が残っている。
聖女自身の目で国の状況を確かめ、その結果を外の世界へ伝える必要があった。
「港からこちらへ参る間、街を拝見しました。これほど復興が進んでいるとは思いませんでした」
「ありがとうございます。ですが、私たちだけの力ではありません」
ミル王は穏やかに答えた。
「祖父の時代、この国は本当に絶望の中にありました。人は死に、畑は荒れ、船を動かす者すら足りなくなったと聞いております」
当時、外の国々もそれぞれの民を守ることで精一杯だった。
王国へ向かう船はなくなり、救いを求める声も届かなくなった。
「そのとき、北の街が手を差し伸べてくれたのです」
「北の街、ですか?」
「はい。食料も、薬も、人も送ってくれました。港や畑を立て直すための技術まで、惜しみなく提供してくれたのです」
ミル王は続けた。
「不思議なことに、北から来た方々は病にかかっても、重症になることがほとんどなかったそうです。そのため、病人の世話や復興の仕事を担っていただけました」
「そのような方々が……」
聖女は感心したように目を細めた。
疫病が流行する国へ、自ら足を運ぶ。言葉にするのは簡単でも、実際に行うには相当な覚悟が必要だったはずだ。
「ええ。祖父は生涯、その恩を忘れなかったと聞いています。今の王国があるのは、北の方々のおかげです」
ミル王の言葉には、深い感謝がにじんでいた。
国民の七割を失った国が、ここまで復興できた理由。
北の街の存在は、その大きな一つなのだろう。
◇
会談を終えると、食事が運ばれてきた。
焼きたてのパンに、色鮮やかな野菜。香ばしく焼かれた魚料理のほか、大皿には薄く切られた魚の身が美しく並べられていた。
透き通るような白身に、鮮やかな赤身。
聖女が珍しい料理を眺めていると、ミル王が胸の前で両手を組んだ。
そして目を閉じ、静かに祈りを捧げる。
「陛下、今のは?」
「ああ。食事の前の祈りです」
「こちらの国にも、そのような習慣があるのですね」
「疫病の後から始まったものだそうです。日々の恵みに感謝するために、祖父の時代から続いております」
ミル王は当然のことのように答えた。
「今では、どこの家庭でも行っていますよ」
「そうなのですか」
聖女は微笑んだ。
あれほどの災厄を経験したのだ。当たり前に食事ができることへの感謝が、国全体の習慣になったとしても不思議ではない。
聖女も同じように胸の前で両手を組み、この国の今の幸福に祈りを捧げた。
祈りを終え、改めて料理へ目を向ける。
「こちらは……火を通していないのですか?」
「ええ。今朝、水揚げされたばかりの魚です」
ミル王は微笑んだ。
「このまま食べられるのですか?」
「もちろんです。この国では、こうして新鮮な魚をいただく習慣があるのですよ」
聖女は興味深そうに皿を眺めた。
見た目は美しいが、魚を生のまま食べるというのは、彼女にとって馴染みのない習慣だった。
隣のセインは、少し考えてから首を横に振る。
「私は、火を通したものをいただきます」
「ふふ。では、私が先にいただいてみますね」
聖女は魚を一切れ口に運んだ。
柔らかな身に、魚そのものの甘みが広がる。生臭さはなく、噛むほどに味わいが増していった。
「……美味しいですね」
「それはよかった」
ミル王は嬉しそうに笑った。
「港で水揚げされた魚は、その日のうちに王都へ運ばれてきます。こちらでは、珍しい料理ではないのですよ」
「それは羨ましいですね」
聖女はもう一切れいただいた。
セインは結局、生の魚には手を伸ばさず、焼き魚を選んでいた。
長く国を閉ざしていたとは思えないほど、豊かな食卓だった。
◇
「聖女様、この後はいかがなさいますか?」
食事を終えたところで、ミル王が尋ねた。
「少し、街を見て回りたいと思います」
「それでしたら、案内の者をお付けしましょう」
「ありがとうございます。ですが、できれば普段の街の様子も拝見したいのです」
「もちろんです。ただ、万一のことがあってはいけませんので、念のためです」
ミル王が合図すると、一人の青年が進み出た。
年の頃は十五ほどだろうか。
紫色の髪をした、まだ少年の面影が残る青年だった。整った礼装に身を包み、年齢に似合わず落ち着いた様子で頭を下げる。
「この者に案内を任せます。国難の折、祖父テル王を支えたメメメ伯の子孫です」
「メメメ伯……。復興に尽力されたという、あの方ですね」
「はい。ムムと申します。我が家は代々、王家にお仕えしております」
青年は穏やかに微笑んだ。
「聖女様。どうぞ、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
王家に長く仕えてきた家の者なら、この国のこともよく知っているだろう。
セインもムムへ軽く会釈する。
「聖女様の護衛は、私と騎士たちが務めます。案内をよろしくお願いします」
「承知しております。ご希望の場所へお連れいたしますが、危険があると判断した場合は、私からお止めすることもございます。その点だけはご了承ください」
ムムの言葉に、聖女はうなずいた。
「分かりました。ご迷惑はおかけしないようにします」
「ありがとうございます」
青年は再び頭を下げた。
「私は、この国の今の姿を外の世界へ伝えなければなりません。できるだけ多くの場所を見て回りたいのです」
「承知いたしました。では、まずは王都をご案内いたしましょう」
今回、王国に滞在できるのは一か月。
その間に国の状況を確認し、長く閉ざされていた国交を再開しても問題がないかを見定める必要がある。
◇
王宮を出ると、綺麗に整備された道が広がっていた。
馬車から眺めたときにも驚いたが、実際に歩いてみると、街の様子がさらによく分かる。
歩行者のための道と、馬車が通る道が分けられていた。
人々が歩く道は平らで、足を運ぶたびに硬い石に当たるような感覚がない。一般的な石畳と比べても、足にかかる負担が少ないようだった。
「歩きやすい道ですね」
「ありがとうございます。子供からお年寄りまで、安心して歩けるよう整えております」
ムムが答えた。
道の脇を馬車が通り過ぎていくが、歩いている人々が慌てて避ける様子はない。
聖女は足元を確かめるように数歩進んだ。
普段なら長く歩くと足が疲れてくるものだが、この道なら随分と楽に移動できそうだった。
一行の前後には護衛騎士たちがつき、聖女見習いたちもその間を歩いている。
道の両側には商店が並び、人々が行き交っていた。
やがて、大きな広場へ出る。
ちょうど昼下がりの時間帯だからだろうか。広場には露店が所狭しと並んでいた。
果物を売る者、焼き菓子を並べる者、見慣れない道具を実演している者。
焼き菓子の甘い香りが漂い、あちこちから客を呼ぶ声が聞こえてくる。
人々の声が絶えず、街は活気に満ちていた。
セインは聖女の少し斜め後ろを歩きながら、周囲へ目を配っている。長いローブの裾が揺れ、腰に下げた剣が時折のぞいた。
「セイン。ここは、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ」
聖女が小さく笑いかけた。
「……職務ですので」
「ふふ。そうでしたね」
セインは短く答えたが、周囲へ向ける視線は変わらなかった。
ムムは二人のやり取りを見守りながら、少し前を歩いている。
広場の一角には、大きな掲示板が設けられていた。
仕事の募集や市場の知らせなど、さまざまな紙が整然と貼り出されている。そこには何人もの住民が集まり、思い思いに掲示物へ目を通していた。
聖女が眺めていると、小さな男の子が母親の手を引いてやって来た。
「あ、母さん! 明日、ここで合唱会があるんだって!」
男の子は掲示板の一枚を指さし、すらすらと内容を読み上げた。
「本当ね。お友達も来るかもしれないわね」
「うん! 見に来ようよ!」
何気ない親子の会話に、聖女は思わず目を向けた。
「……あの子は、文字が読めるのですか?」
声をかけられた母親が、不思議そうに振り向いた。
「ええ。学校で習っていますから」
「学校に通っているのですね」
「はい。うちの子も、もうすぐ二年生なんですよ」
母親は嬉しそうに笑った。
聖女は改めて掲示板を見上げた。
ほかにも、仕事帰りらしい職人や年配の女性が、貼り紙に目を通している。誰かに内容を読み上げてもらっている様子はない。
「こちらでは、学校に通う子供が多いのですか?」
今度はムムに尋ねた。
「ええ。子供たちは皆、学校で読み書きや計算を学びます」
「皆、ですか?」
「はい。学ぶことは、この国の大切な務めですから」
ムムは穏やかに答えた。
聖女は再び掲示板へ目を向ける。
文字を読めることは、どこの国でも当たり前というわけではない。
特に、日々の暮らしに追われる家庭では、子供を学校に通わせる余裕すらないことがある。
それが、この国では当然のこととして根づいているらしい。
聖女は先ほどの親子を見送った。
男の子はまだ嬉しそうに合唱会の話をしている。
国民の七割が命を落とした国に、これほど穏やかな日常が戻っている。
そのことが、彼女には何より嬉しかった。
広場を出ても、驚きは続いた。
道端にはごみがほとんど落ちておらず、水路も綺麗に管理されている。学校へ向かう子供たちが駆けていき、工房では若者たちが働いていた。
病人や怪我人のための施設も整えられているという。
聖女は足を止め、街を見渡した。
港だけではない。
この国は、暮らしの隅々まで整っている。
疫病で国民の七割を失った国。
それが、どうしてここまで発展できたのだろう。
北の街からの支援があったことは聞いた。しかし、その支援だけで、ここまでの国を作り上げられるものなのだろうか。
「聖女様?」
ムムに呼ばれ、聖女は我に返った。
「すみません。あまりに立派な街なので、見入ってしまいました」
「ありがとうございます。陛下もお喜びになるでしょう」
ムムはにこやかに答えた。
聖女は再び歩き始めた。
滞在期間は一か月。
港も、学校も、医療施設も、できる限り自分の目で確かめたい。
この国を、もう一度世界へ迎え入れるために。
◇
セインは一行の後ろから、改めて街を見渡した。
整いすぎた道。清潔な水路。豊かな市場。そして、当たり前のように学校へ通う子供たち。
どれも素晴らしいものだった。
聖女が感銘を受けるのも分かる。ここに暮らす人々の表情にも、不自然なところは見当たらない。
だが、どうにも腑に落ちなかった。
国民の七割を失い、半世紀以上も外の世界との往来を断っていた国が、なぜここまで発展しているのか。
北の街の支援があったとはいえ、それだけで説明がつくのだろうか。
もちろん、復興を喜ぶべきことは分かっている。
それでも、長年にわたって各地を旅してきたセインには、この街の豊かさがあまりにも際立って見えた。
「セイン?」
先を歩く聖女が振り返った。
「……失礼しました」
セインは軽く頭を下げた。
前方では、紫色の髪をしたムムが穏やかな笑みを浮かべ、一行を案内している。
セインは胸の内に残る違和感を抱えたまま、聖女の後に続いた。




