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変化

 同時刻。


 王城。


 国王の執務室では、いつもと変わらぬ仕事が続いていた。


 今日は一年に一度の武闘大会。


 王都中から人が集まり、騎士や兵士の多くも会場周辺の警備へ回されている。


 当然。


 王城に残された警備は、普段より少ない。


 とはいえ。


 ここは国王の執務室だ。


 扉の外には護衛がいる。


 城内にも、最低限の兵は残っている。


 普通なら。


 何者かが、簡単に入り込める場所ではなかった。


「…………」


 国王は机に向かい、書類へ目を通していた。


 大会へ顔を出す予定もある。


 それでも、国王の仕事がなくなるわけではない。


 一枚。


 また一枚。


 書類をめくる。


 その時だった。


「……?」


 部屋の隅。


 何かがおかしい。


 暗い。


 窓からは、昼の陽光が差し込んでいる。


 なのに。


 そこだけが。


 夜よりも暗かった。


「誰だ」


 国王が顔を上げる。


 返事はない。


「衛兵!」


 声を上げる。


 だが。


 扉の外から、返事はなかった。


「…………」


 国王が椅子から立ち上がる。


 暗闇が動いた。


 影ではない。


 漆黒の塊が。


 ゆっくりと、人の形になっていく。


 そして。


 そこから、一人の女が姿を現した。


 長い髪も。


 身につけた服も。


 すべてが黒い。


 まるで。


 闇そのものが、女の姿を取ったようだった。


「何者だ!」


 国王が叫ぶ。


 女は答えない。


 ただ。


 国王を見た。


「…………」


 目が合った。


 その瞬間だった。


「――っ」


 身体が動かなくなった。


「な……」


 腕が上がらない。


 足も動かない。


 喉まで固まったように、声もまともに出せない。


 国王は必死に身体を動かそうとする。


 だが。


 指一本。


 思うように動かなかった。


 女は、そんな国王を見たまま。


 窓から差し込む陽光へ、ちらりと視線を向ける。


「まったく」


 低い声で呟いた。


「私が昼に仕事するなんてね」


 自分の黒い袖へ目を落とす。


「目立つでしょうが」


「き……さま……」


 どうにか声を絞り出す。


 だが。


 身体は動かない。


 女が、一歩近づく。


 逃げることも。


 身を守ることもできない。


 そのまま国王は、床へ崩れ落ちた。


「…………」


 女――漆黒は。


 倒れた国王を見下ろした。


 意識はある。


 目も見える。


 だが。


 動けない。


「な……にを……」


 その時。


 首筋に鋭い痛みが走った。


「――っ!」


 いつの間にか。


 漆黒が、すぐそばにしゃがみ込んでいる。


 首筋には。


 細い針のようなものが刺さっていた。


「これで終わりよ」


 何かが。


 身体の中へ入ってくる。


 毒。


 そう気づいた時には。


 もう遅かった。


 息が苦しい。


 視界が揺れる。


 身体の感覚が、急速に消えていく。


 国王は何かを言おうとした。


 だが。


 もう声は出なかった。


 やがて。


 その身体から、完全に力が抜ける。


「…………」


 漆黒は、しばらく様子を見ていた。


 呼吸はない。


 もう動かない。


「終わりね」


 国王は。


 自らの執務室で死んだ。


 漆黒は窓から差し込む陽光を見て、小さくため息をつく。


「やっぱり」


 黒い髪をかき上げた。


「こういう仕事は、夜に限るわね」


     ◇


 同じ頃。


 武闘大会の貴賓室。


「ぜひ今後も、両国の交流を続けていきたいと思っています」


 テル王子が微笑んだ。


 中央の席にはテル王子。


 その隣には、アルティナ。


 そして、メメメ伯。


 アルティナの少し後ろには、シンディが静かに立っている。


 部屋の外には、王国の護衛。


 だが。


 室内に兵はいない。


 メメメ伯がいる。


 長年、この国で冒険者として名を上げた男だ。


 それだけでも。


 王国側にとっては、十分な安心材料だった。


「私たちとしても、そうできればと思っています」


 アルティナが笑顔で答える。


「これを機に、交易も増やしていければいいですね」


「ええ。北の街の商品には、こちらでも興味を持つ者が増えています」


「ミカンだけじゃなくて、麦酒も?」


「もちろんです」


「それは良かったわ」


 アルティナが、少し得意そうに笑う。


「食べ物や飲み物なら、まだまだ色々ありますから」


 隣のメメメ伯が、わずかに口元を緩めた。


 少し前まで。


 北の街の存在すら、王国ではほとんど知られていなかった。


 それが今では。


 第一王子と。


 北の国から来た使者が。


 今後の交易について話している。


 何も知らない者が見れば。


 両国の関係は、これから良い方向へ進んでいくように見えただろう。


 テル王子が、テーブルの菓子を一つ口に運ぶ。


 王国側が用意したものだ。


 誰も。


 それを警戒する理由などない。


 しばらくして。


「……あれ?」


 テル王子が、口元へ手を当てた。


「どうされました?」


「いえ……急に眠気が」


 まぶたが。


 ゆっくりと落ちていく。


「お疲れなのでは?」


「そう……かもしれません」


 武闘大会の開会から、ずっと貴賓席にいる。


 前夜祭もあった。


 疲れていても。


 不思議ではない。


「少し休まれますか?」


 メメメ伯が尋ねる。


「そうですね。決勝までは、まだ少し時間も――」


 言葉が途中で止まった。


「テル王子?」


「…………」


 身体が。


 ゆっくりと傾く。


 椅子の背もたれへ身体を預け。


 そのまま、目を閉じた。


 数秒。


 誰も動かなかった。


 規則正しい寝息だけが、室内に響く。


 アルティナが、テル王子の顔を覗き込む。


 それから。


 小さく息を吐いた。


「ようやく、当たりを食べたわね」


 先ほどまでの外交用の笑顔は消えていた。


 いつものアルティナの顔だった。


「予定より遅かったですか?」


 メメメ伯が尋ねる。


 シンディが首を横に振る。


「いえ。結果的には、ちょうど良かったです」


「それにしても」


 アルティナは、テーブルに並ぶ菓子を見る。


「運がいいこと」


「そうですね」


「ほとんど当たりだったんでしょう?」


「九割ほどには」


「それを、ずっと外してたの?」


 アルティナが眠っているテル王子を見る。


「この王子、そういうスキルでも持っているのかしら」


「どうでしょう」


 メメメ伯が苦笑する。


「最後には当たりましたので」


「それもそうね」


 テーブルには。


 王国側が、自分たちで用意した菓子が並んでいる。


 そのほとんどに。


 あらかじめ睡眠薬が仕込まれていた。


 にもかかわらず。


 テル王子は、ここまで薬の入っていない菓子ばかりを選んでいた。


 そして。


 ようやく当たりを引いた。


「じゃあ」


 アルティナが立ち上がる。


「始めましょうか」


「はい」


 メメメ伯も立ち上がった。


 シンディが、部屋の扉を見る。


「外は?」


「問題ありません」


 メメメ伯が答える。


「しばらく誰も入ってきません」


「さすがね」


「長く住んでおりますので」


 アルティナが、床へ視線を落とす。


 そこに。


 淡い光が浮かび上がった。


 一本。


 また一本。


 光の線が伸び。


 円を描く。


 複雑な模様が重なっていった。


 魔法陣。


 光が強くなる。


 そして。


 一人の青年が現れた。


「…………」


 アルティナが青年を見る。


 眠っているテル王子を見る。


 もう一度。


 青年を見る。


「この人形、本当にそっくりね」


「ありがとうございます」


 青年が答える。


 声まで。


 テル王子とほとんど同じだった。


 これは人間ではない。


 テル王子に似せて作られた人形。


 ゴーレムだ。


 髪。


 顔。


 背丈。


 体格。


 すべてが再現されている。


 何も知らない者が二人を並べて見れば。


 どちらが本物か、見分けるのは難しいだろう。


「イチョウが作ったんだったわね」


「はい」


 シンディが答える。


 アルティナが、もう一度人形の顔を覗き込む。


「これだけ似てたら、気味が悪いくらいね」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 人形が。


 テル王子と同じ声で答えた。


「笑ってみて」


「はい」


 青年が微笑む。


「アルティナ殿。何かおかしなところでも?」


「…………」


 アルティナが少し身を引いた。


「本当にそっくり」


「そのために作られましたから」


「そうでしょうけど」


 シンディが、眠っているテル王子の上着を脱がせていく。


 それを、人形へ渡す。


 上着。


 装飾。


 王家の紋章が入った飾り。


 一つずつ、身につけていく。


 髪型も整える。


 最後に。


 シンディが襟元を直した。


「顔をこちらへ」


「はい」


 顎を少し上げる。


 右。


 左。


 正面。


 シンディが細かく確認する。


「問題ありません」


「じゃあ、本物は?」


 アルティナが尋ねる。


「転送できます」


 眠ったままのテル王子は。


 簡素な服へ着替えさせられていた。


 何も知らない。


 ほんの少し前まで。


 北の国との未来について話していた。


 別の魔法陣が。


 テル王子の足元へ浮かび上がる。


「行き先は?」


 メメメ伯が確認する。


 アルティナが答えた。


「第一養殖場」


「承知しました」


 魔法陣の光が強くなる。


 眠ったテル王子の姿が。


 少しずつ薄れていく。


 そして。


 消えた。


「…………」


 部屋に残ったのは。


 テル王子と同じ姿をした人形。


 アルティナ。


 シンディ。


 メメメ伯だけだった。


 アルティナは、人形を見る。


「あなた」


「はい」


「今日からテル王子よ」


「承知しております」


「まず、メメメ伯をあなたの傍付きの相談役に指名しなさい」


「メメメ伯を、ですか」


「ええ。今まで以上に、あなたの近くにいても不自然じゃない立場が必要でしょう?」


「承知しました」


 人形は、メメメ伯へ向き直る。


 声も。


 表情も。


 すでに。


 テル王子そのものだった。


「メメメ伯」


「はい、殿下」


「今後、私の傍付きの相談役を務めていただきたい」


 メメメ伯が、恭しく頭を下げる。


「謹んでお受けいたします」


「…………」


 アルティナが、二人を見比べた。


「よし」


 小さく頷く。


「これなら大丈夫そうね」


 そこでようやく。


 アルティナの肩から力が抜けた。


「はぁー……」


 椅子の背もたれへ身体を預ける。


「疲れた」


 メメメ伯も。


 先ほどまでの恭しい姿勢を崩した。


「まだ終わってないけどな」


「分かってるわよ」


 アルティナは、片手をひらひらと振る。


 すると。


 メメメ伯が、少し黙ったあと。


 アルティナを見る。


「そういえば」


「何?」


「ピーチのこと」


 アルティナが目を向ける。


「訓練したんだってな」


「ああ」


「聞いた」


「誰から?」


「白からも。オレンジからも」


「…………余計なことまで話してそうね」


 メメメ伯は、小さく笑った。


「まあな」


 それから。


 少しだけ、真面目な顔になる。


「でも、ありがとう」


「……何が?」


「ピーチのことだよ」


 メメメ伯は。


 闘技場の方角へ視線を向けた。


「俺がいない間に、あいつのことを考えて訓練してくれたんだろ」


「別に」


 アルティナが顔を背ける。


「大会に出るのに、あのままじゃ心配だっただけよ」


「それでもだ」


 メメメ伯は笑う。


「今日の戦いを見れば、無駄じゃなかった」


「でしょう?」


 アルティナが。


 少しだけ得意そうに胸を張る。


「私の訓練なんだから」


「ただし」


「何よ」


「やりすぎだ」


「…………」


「腕と脚を使えなくして、その上で人間五人と戦わせたって?」


「必要だったのよ」


「最後に自分まで剣を抜いたとも聞いた」


「それも必要だったの」


「シキ様が寝間着のまま止めに来るくらい?」


「…………」


 アルティナは答えなかった。


 たまたま来ただけ。


 そう言おうと思った。


 けれど。


 そんなわけがない。


 あの時間に。


 あの場所へ。


 あの瞬間に現れた。


 それが偶然であるはずがなかった。


 シキ様は。


 止めに来た。


 たぶん。


 そういうことなのだろう。


「…………」


 それでも。


 アルティナは、自分がやりすぎたとは思っていなかった。


 ピーチには。


 必要だった。


 あの子は、人間を傷つけられない。


 殺すことなど。


 もっとできない。


 なら。


 そのままで戦える方法を見つけるしかない。


 甘いままでは。


 いつか。


 守りたいものまで守れなくなる。


「でも」


 アルティナが、メメメ伯を見る。


「私は、間違ってないと思ってるわ」


「そう言うと思った」


「必要だったもの」


「分かってるよ」


 メメメ伯は、ため息をついた。


「だから、感謝もしてる」


 少し間を置く。


「ただ、次はもう少し加減しろ」


「加減したわよ」


「どこがだ」


「死んでないでしょう?」


「基準がおかしいんだよ」


 アルティナが。


 不満そうに頬を膨らませる。


「でも、強くなったじゃない」


「……まあ」


 メメメ伯が少し笑う。


「それは認める」


「なら私のおかげね」


「全部、自分の手柄にするな」


「半分くらい?」


「ピーチ本人が九割だ」


「少なすぎるでしょう!」


 シンディが、小さく息を吐いた。


「お二人とも。まだ外には王国の方々がいらっしゃいます」


「分かってるわ」


「分かってる」


 二人の返事が重なった。


 一瞬。


 顔を見合わせる。


 メメメ伯が、先に笑った。


 アルティナも。


 つられて笑う。


 大仕事の一つが。


 ようやく終わった。


「それで」


 アルティナが、メメメ伯を見る。


「ちゃんとこの王子、フォローしなさいよ」


「言われなくてもする」


「絶対ばれないようにね」


「それも俺の仕事だ」


「ならいいわ」


「そっちこそ、余計なことを言うなよ」


「私?」


 アルティナが眉を上げる。


「私、今日ずっと完璧だったでしょう?」


「前夜祭から何度、俺が話を引き取ったと思ってる」


「…………」


「覚えてないのか」


「細かいことはいいのよ」


 偽物のテル王子は。


 そんな二人を眺めたあと。


 何事もなかったかのように、元の椅子へ座った。


 シンディが、テーブルの上を整える。


 ずれていたカップを戻す。


 食べかけの菓子の位置を直す。


 ほんの少し前まで。


 本物の第一王子が、ここに座っていた。


 それなのに。


 部屋の中だけを見れば。


 何一つ。


 変わっていない。


「…………」


 アルティナは、その光景を眺めた。


 昨日の前夜祭を思い出す。


 何人もの貴族と話した。


 領地のことを考えていた者。


 国の未来を心配していた者。


 商売の話ばかりしていた者もいた。


 酒の話を楽しそうにする者もいた。


 そして。


 自分を踊りに誘った王子。


 悪い人間ばかりではなかった。


 むしろ。


 普通だった。


 自分たちの国を良くしようとして。


 家族を大切にして。


 領民のことを考えて。


 笑っていた。


 テル王子だって。


 悪い人間ではない。


 それは。


 もう分かっている。


「アルティナ殿?」


 偽物のテル王子が呼びかける。


 同じ顔。


 同じ声。


 同じ笑顔。


「何でもないわ」


 アルティナは答えた。


 闘技場では。


 人間たちが、これから始まる決勝を楽しみにしている。


 今日という日が。


 いつもと同じように終わると思っている。


 昨日会った貴族たちも。


 王城の兵士たちも。


 王都で暮らす人々も。


 悪い人間ばかりではない。


 分かっている。


 それでも。


 彼らは。


 人間だ。


 アルティナは椅子へ座った。


 隣には。


 テル王子と同じ顔をした人形がいる。


 外から見れば。


 何も変わっていない。


 王は死んだ。


 だが。


 王子はいる。


 王国もある。


 明日になっても。


 きっと。


 この国の人々は、昨日と同じように目を覚ます。


 仕事へ行き。


 店を開き。


 家族と食事をする。


 けれど。


 少しずつ。


 ゆっくりと。


 誰にも気づかれないまま。


 この国は。


 今日から変わっていく。

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