愛の訓練
武闘大会への出場が決まった、その翌日のことだった。
「ピーチ。今から来なさい」
「え?」
振り返るより早く、首根っこをつかまれた。
「わっ! ちょ、ちょっと待ってください!」
「待たないわ」
「私、これから愛について布教する予定で――」
「後よ」
「大事な予定なんです!」
「知らないわ。ほら、来なさい」
「そんなぁ!」
そのままずるずると引っ張られていく。
いつもより、少し機嫌が悪い。
理由は分かっていた。
私が武闘大会に出ることになったからだ。
もう決まったことだし、アルティナ様もそれは分かっている。
でも、本当の意味では納得していないらしい。
「じ、自分で歩きます! 歩きますから!」
「だったら最初から歩きなさい」
ようやく首根っこを離してもらい、私は乱れた服を整えた。
「大会に出るんだから、訓練するわよ」
「私、毎日ちゃんと修業してますよ?」
「足りないわ」
「愛は足りてます!」
「それは聞いてない」
アルティナ様は振り返りもせず、訓練場へ向かって歩いていく。
「ほら、早くしなさい」
「はい……」
こうして私は、半ば無理やり訓練場へ連れていかれた。
◇
最初は、いつもと変わらない訓練だった。
「愛の力です!」
勢いよく踏み込む。
拳を突き出すが、アルティナ様は身体を少し傾けただけでかわした。
「遅い!」
「わっ!」
足を払われる。
私は床を転がった。
それでも、すぐに起き上がる。
「もう一回です!」
「来なさい」
何度も向かっていく。
避けられて。
転ばされて。
時には大きく吹き飛ばされた。
それでも、いつもの訓練だった。
「今のは惜しかったです!」
「全然よ」
「次は当てます!」
「百年早いわ」
「愛があれば百年なんてすぐです!」
「意味分からないわよ」
そんなやり取りをしながら、しばらく訓練は続いた。
でも。
途中から、内容が変わった。
「そこまで」
「え?」
アルティナ様が剣を下ろした。
「ここからが本番よ」
「今までのは?」
「準備運動」
「結構飛ばされましたけど……」
アルティナ様は答えず、訓練場の奥へ向かって手を上げた。
「入って」
扉が開く。
そこから五人の人間が姿を現した。
「……え?」
全員が武器を持っていた。
剣。
槍。
斧。
棍棒。
短剣。
五人は私の前まで来ると、それぞれ武器を構えた。
「アルティナ様?」
「この人たちと戦いなさい」
「……人間ですよ?」
「見れば分かるわ」
「でも……」
アルティナ様は五人へ視線を向けた。
「この人たちは、生き残った純粋な人間よ」
「……純粋な?」
「ええ」
アルティナ様が腕を組む。
「私たちの側の血は混じってない。シキ様から続くものを何も持っていない、ただの人間」
もう一度、私を見る。
「だから、やりなさい」
「だからって……」
「大会であなたが戦う相手も、ほとんどこういう人間でしょう?」
「…………」
「ちょうどいい機会よ」
アルティナ様の目が細くなった。
「ピーチ」
「はい?」
「この人たちを殺しなさい」
「…………え?」
聞き間違えたのかと思った。
「今、何て……」
「殺しなさいと言ったの」
「む、無理です!」
思わず声が大きくなる。
「人間ですよ!」
「だから何?」
「だって……」
私は五人を見る。
怖い顔をしている。
武器だって持っている。
それでも。
どうしても、ただの敵には見えなかった。
この人たちにも、きっと誰かがいる。
帰りを待っている人がいるかもしれない。
家族がいるかもしれない。
好きな人がいるかもしれない。
誰かのために頑張って。
誰かを大切にして。
誰かから大切にされているのかもしれない。
そう考えると。
どうしても。
この人たちの中にも、愛があるように見えた。
「……できません」
「何?」
「この人たちにも、待ってる人がいるかもしれないです」
「…………」
「家族とか。大切な人とか。きっと、何かあると思うんです」
「だから?」
「そんな人たちを殺すなんて……できません」
アルティナ様は小さく息を吐いた。
「あなた、人間が相手になると手加減しすぎるでしょう?」
「でも……」
「前から気になってたのよ」
私の武闘大会への出場が決まった。
アルティナ様は、それを機会にするつもりらしい。
人間を相手にしても、必要なら殺せるようにする。
そのための訓練。
「この人たちは、あなたが守る相手じゃない」
アルティナ様が五人を指す。
「こっち側でもない。純粋な人間よ」
「…………」
「だったら遠慮しないで。やりなさい」
「できません!」
「できるようになるまでやるわ」
「そんな……」
五人を見る。
武器を構えたまま、こちらを見ている。
誰一人として逃げる様子はなかった。
「始めなさい!」
「えっ、ちょっと待ってください!」
五人が一斉に動いた。
◇
それから、どれほど時間が経っただろう。
「はぁ……はぁ……」
「くっ……」
五人とも肩で息をしていた。
額から汗を流し、服も濡れている。
それでも、誰一人として武器を下ろしていない。
まだ戦う意思が残っている。
対する私は無傷だった。
息も乱れていない。
ただ、どうすればいいのか分からず、困り果てていた。
「終わらないわよ」
訓練場の端で見ていたアルティナ様が言った。
「え?」
「全員が死ぬまで続ける」
「……!」
「そんなの、できません!」
「だから、できるようにするんでしょう?」
「嫌です!」
「戦場じゃ、嫌だからで済まないのよ!」
アルティナ様が立ち上がる。
「相手は殺しに来る。だったら、こっちも殺さなきゃ死ぬわ」
「でも……」
「ピーチ」
声が低くなった。
「ここでできないことが、本番になったら急にできると思ってるの?」
「…………」
「あなたは強い。でも、その力を使えないなら意味がない」
私は俯いた。
言っていることは分かる。
それでも。
できない。
目の前の五人にも、きっとそれぞれの人生がある。
誰かに愛されて。
誰かを愛して。
帰る場所があるかもしれない。
そんなことを考えると。
殺すなんて、できなかった。
「まだ余裕があるから、そんなことを考えていられるのね」
「え?」
次の瞬間。
何かが起きた。
「――っ!」
気づいた時には、身体が床を転がっていた。
「きゃっ!」
「いたた……」
何をされたのか。
まったく見えなかった。
アルティナ様が動いたことさえ、ほとんど分からない。
ただ一瞬前まで立っていた場所から、私は床へ転がされていた。
起き上がろうとして、そこで初めて右腕が動かないことに気づく。
「え……?」
腕が、だらんと垂れている。
力が入らない。
いつ攻撃されたのか。
どこを狙われたのか。
それすら分からない。
私とアルティナ様の間には、それだけ大きな実力差があった。
「アルティナ様……?」
「これで一本」
アルティナ様は平然としていた。
「まだ余裕があるわね」
「ちょ、ちょっと待って――」
今度こそ見ようとした。
目を離さない。
そう思ったのに。
また。
見えなかった。
「きゃあっ!」
次の瞬間には床へ倒れていた。
左脚に力が入らない。
立とうとしても、身体が大きく傾く。
「腕一本。脚一本」
アルティナ様が言う。
「これでもう、今までみたいには動けないわ」
「…………」
右腕は使えない。
左脚にも力が入らない。
走ることもできなかった。
それでも。
五人は武器を構える。
「行くぞ!」
「……!」
一斉に向かってきた。
残った脚で身体を支えながら、攻撃を避ける。
でも、先ほどまでのようには動けない。
「痛っ!」
剣の腹が肩に当たる。
「うっ……!」
槍の柄が脇腹へ入った。
斧を受け止めようとしても、使える腕は一本しかない。
身体が大きくよろめく。
それでも、私は反撃しなかった。
「ピーチ!」
アルティナ様の声が飛ぶ。
「やりなさい!」
「…………」
「何を迷ってるの!」
答えられない。
また攻撃を受ける。
肩。
背中。
脚。
一撃一撃は、私にとって致命的なものではない。
それでも少しずつ、確実にダメージは蓄積していった。
「少し力を入れればいいだけでしょう!」
アルティナ様が苛立った声を上げる。
「あなたなら一発で終わる!」
「…………」
「殴ってもいい! 首を折ってもいい! 何でもいいから一人倒しなさい!」
「できません!」
私は叫んだ。
「この人たちにも、愛があるんです!」
「……何?」
「待ってる人がいるかもしれない! 大切な人がいるかもしれない!」
息を切らしながら、それでも叫ぶ。
「そんな人を、私が殺すなんてできません!」
「…………」
「だって、それじゃ愛を壊すことになるじゃないですか!」
アルティナ様は何も言わなかった。
ただ、苛立ったように眉を寄せる。
こんな時。
ピオーネ様がいてくれたら。
きっと止めてくれる。
少なくとも、私の話を聞いてくれる。
でも。
今、ピオーネ様はここにはいない。
私がもっと強ければ。
もっとちゃんと戦えれば。
誰も傷つけずに。
誰かの大切なものを壊さずに。
みんなを守れるくらい強ければ。
「……ちっ」
アルティナ様が舌打ちした。
腰の剣へ手をかける。
「命の危険が足りないのね」
「え?」
「まだ、自分は大丈夫だと思ってる」
剣が鞘から抜かれる。
「だったら」
アルティナ様が構えた。
「もう少し、本気で危なくしてあげる」
空気が変わった。
五人の人間たちまで、思わず動きを止める。
「ア、アルティナ様?」
私の顔から笑顔が消える。
アルティナ様が一歩踏み出した。
その時だった。
ギィ――。
訓練場の扉が開いた。
「……シキ様?」
最初にそう言ったのが誰だったのかは分からない。
全員の動きが止まった。
扉の前に、シキ様が立っていた。
「…………」
完全に寝る格好だった。
寝間着姿。
頭にはナイトキャップ。
眠たそうに目をこすっている。
その後ろには、オレンジと白様が立っていた。
「シキ様?」
アルティナ様が目を丸くする。
「どうされたんです?」
シキ様は何も言わない。
ただ、訓練場の中を見渡した。
アルティナ様。
倒れている私。
そして、武器を持った五人の人間。
「あれ」
アルティナ様が少し首を傾げる。
「騒がしかったですか?」
シキ様がゆっくり瞬きをした。
「申し訳ありません。すぐ終わらせますので」
そう言うと。
アルティナ様が剣を振った。
一瞬だった。
五人の首が落ちる。
「…………」
さっきまで私へ向かってきていた五人が、その場に倒れた。
シキ様はしばらくそれを見ていた。
やがて。
何も言わず、くるりと後ろを向く。
そのまま訓練場を出ていった。
「あ、シキ様!」
アルティナ様が慌ててその後を追う。
「一緒に寝ませんか?」
足取りが急に軽くなっている。
「すぐに湯浴みしてきますので!」
さっきまでの苛立ちはどこへ行ったのか。
アルティナ様は嬉しそうにシキ様を追いかけ、そのまま訓練場から姿を消した。
「…………」
静かになった。
床に倒れたまま、私は五人を見る。
ついさっきまで。
動いていた。
息をしていた。
この人たちにも。
きっと、誰かがいた。
帰りを待っている人がいたのかもしれない。
大切にしている誰かがいたのかもしれない。
愛があったのかもしれない。
それなのに。
もう動かない。
「…………」
胸の奥が苦しくなった。
私が弱いからだ。
私がちゃんとできなかったから。
愛が足りなかったから。
もっと強ければ。
誰かの愛を壊さずに済んだのかもしれない。
「ごめんね」
声がした。
顔を上げる。
白様が、私のすぐ横まで来ていた。
「ピオーネがいない時に、こんなことになっちゃって」
「白様……」
「アルティナも悪気があるわけじゃないんだけどね」
白様が小さく息を吐く。
「あなたのことが心配なんでしょう」
「…………」
「やり方は、かなり問題だけど」
「ありがとうございます」
そう言うと。
白様は首を横へ振った。
「お礼なら、私じゃなくてオレンジに言ってね」
「え?」
白様が後ろを指差す。
そこにはオレンジが立っていた。
どうやら、シキ様をここまで連れてきてくれたのはオレンジだったらしい。
「オレンジさん……」
オレンジは私を一度だけ見る。
「貸しだからな」
それだけ言って。
さっさと訓練場から出ていった。
「…………」
私は、その背中を見送った。
動かない右腕。
力の入らない左脚。
そして、床に倒れた五人。
私はまだ弱い。
だから。
もっと強くならないといけない。
誰かの愛を壊すためじゃない。
みんなの愛を守れるように。
大切な人を、大切なままでいさせてあげられるように。
誰かが誰かを想う気持ちを、守れるように。
私は。
もっと強くならないと。




