卵
王都の南門。
一人の青年が、長い列の最後尾に並んでいた。
「……でかいな」
ユウトは城壁を見上げた。
旅の途中でいくつもの街を見てきたが、ここまで大きな都市は初めてだった。
高い城壁。絶えず出入りする馬車。荷物を抱えた商人。
冒険者らしい武装した者たち。
門の向こうには、多くの建物の屋根が見えている。
「さすが王国の王都」
思わず声が漏れた。
ようやく着いた。ここなら何かある。
そう思ったところで、腹が鳴った。
「…………」
ユウトは黙って懐へ手を入れる。
銅貨を取り出した。
一枚。
二枚。
三枚。
数え直す。
もう一度数える。
「……少ない」
当然だ。
つい少し前まで、ユウトは山の中で祖父と二人で暮らしていた。町へ出ることもほとんどなかった。
その祖父が死んだ。
一人になったユウトは山を下り、王都を目指した。
だが、金がかかった。
思っていた以上に。
宿代。食事代。街道を通るための金。
山では必要なかったものに、次々と金が消えていった。
「じいさん、町って金かかるんだな……」
ユウトは腰に差した剣へ目を向ける。
祖父が自ら打った剣だった。
派手な装飾はない。けれど、手に握ると不思議なくらい馴染む。
幼い頃から何度も、祖父が手入れしている姿を見てきた。
これだけは絶対に売れない。
身につけている防具も祖父のお古だ。
傷もある。古びてもいる。
それでも、ユウトにとっては大切な形見だった。
「まず仕事だな」
王都なら仕事も多いだろう。
そして、いつか。
勇者として名を上げる。
魔物を倒す。人々を助ける。
誰もが自分の名前を知るようになる。
そんな英雄になる。
「よし」
気合いを入れ直したところで、列が進んだ。
◇
「武闘大会?」
王都へ入って間もなく、ユウトは大通りに貼られた大きな紙の前で立ち止まった。
周囲にも人が集まっている。
『王国武闘大会』
大きな文字。
その下には開催日と参加条件。
開催まで、あと一週間。
そして。
「優勝賞金……金貨百枚!?」
思わず声が出た。
隣にいた男が笑う。
「初めて見るのか?」
「はい」
「王国じゃ有名な大会だぞ。腕に覚えがある奴なら、国内外から集まってくる」
「金貨百枚……」
「まあ、優勝できればな」
金貨百枚。
しばらく宿代に困らない。装備も整えられる。旅も続けられる。
何より。
「優勝したら、有名になります?」
「そりゃなるさ」
男が笑った。
「去年の上位なんか、王都じゃ結構な有名人だ」
その言葉で決まった。
「出ます」
「え?」
「俺、この大会に出ます」
「そうか。まあ頑張れ」
ユウトはもう一度張り紙を見る。
勇者として名を上げる。
金も手に入る。
一石二鳥だ。
しかも一週間ある。
申し込みさえできれば、そこから訓練できる。
問題は。
「……参加費?」
小さく書かれた文字を見つけた。
もう一度、懐の銅貨を見る。
「…………」
足りない。
◇
「どうしよう」
ユウトは道端の長椅子に座っていた。
王都へ着いてまだ半日。
すでに最大の問題にぶつかっている。
大会に出たい。しかし金がない。
大会までは一週間あるが、参加申し込みは今日までだった。
「剣を売るしか……」
「やめておいた方がいいと思うわよ」
「ですよね……って」
顔を上げる。
いつの間にいたのだろう。
一人の女性が立っていた。
薄い布を重ねた、踊り子のような服。
腰や腕には小さな飾りがついており、動くたびにかすかな音を立てる。
長い髪。柔らかな笑顔。
王都の人間というより、旅芸人に見えた。
「誰ですか?」
「ただの通りすがり」
「俺、声に出してました?」
「かなり」
「……恥ずかしいな」
踊り子がくすりと笑った。
「大会に出たいの?」
「はい」
「でも、お金がない」
「……はい」
「それで剣を売ろうか迷っている」
「できれば売りたくないです」
「でしょうね」
踊り子の視線が腰の剣へ向く。
「大切そうだもの」
「じいさんが打った剣なんです」
「おじいさんが?」
「はい。形見です」
「それは売らない方がいいわね」
「ですよね」
ユウトはため息をついた。
「でも、今日までなんですよ。申し込み」
「そうね」
「どうにか金を作らないと……」
「じゃあ」
踊り子が言った。
「その参加費、私が出してあげる」
「…………はい?」
「大会の参加費よ」
「それは分かりました」
「宿代も何日か分なら出してあげる」
「いやいやいや」
ユウトが慌てて手を振る。
「怪しいですよ」
「失礼ね」
「初対面の人に急に金を出す人は怪しいです」
「正論だわ」
踊り子は笑った。
「もちろん、ただでとは言わないわよ」
「……ですよね」
やっぱり何かある。
ユウトは少し身構える。
「何をすればいいんです?」
「簡単よ」
踊り子がユウトの防具を指差した。
「その防具の背中に、文字を書かせてほしいの」
「……文字?」
「そう」
「何を書くんです?」
「私の芸名」
「芸名?」
「私の国の文字でね」
ユウトは黙った。
思っていた条件と違う。
「それだけですか?」
「それだけ」
「賞金の何割かを渡せとか」
「いらない」
「大会が終わったあと働けとか」
「それもない」
「じゃあ、本当に背中に文字を書く、それだけ?」
「ええ」
踊り子がにっこり笑った。
「あなたが大会に出てくれれば、それでいいわ」
「…………」
ユウトは自分の防具を見る。
古い。ところどころ傷もある。
祖父が若い頃に使っていたものを、そのまま譲り受けた防具だ。
「何で書くんです?」
「特殊なインク」
「落ちません?」
「水や汗くらいじゃ落ちないわよ」
「……ずっと?」
「ずっとじゃないわ。ちゃんと落とせるから安心して」
「本当ですか?」
「本当」
それでも嫌ではある。
知らない文字を背中に書かれる。しかも、何と書いてあるか自分には読めない。
「別の場所じゃ駄目ですか?」
「背中がいいの」
「小さくとか」
「ある程度見えるくらいで」
「うーん……」
ユウトは悩む。
「ちなみに、申し込みって本当に今日までなんですよね?」
「今日の日暮れまで」
「…………」
空を見る。
もう昼をかなり過ぎている。
今から仕事を探して金を稼ぐ。
無理だ。
借りる相手もいない。
剣を売れば間に合うかもしれない。
だが。
腰の剣へ手を添える。
祖父が打った剣。
それだけは絶対に嫌だった。
「…………剣よりはマシか」
「何か言った?」
「いえ」
ユウトは大きく息を吐いた。
「分かりました。やります」
「本当?」
「はい」
「じゃあ決まりね」
踊り子が嬉しそうに笑った。
「でも、変な意味の文字じゃないですよね?」
「私の芸名よ」
「本当に?」
「信用ないわねえ」
「会ったばかりですから」
「それもそうね」
「芸名って、何ていうんです?」
「それは秘密」
「なんで!?」
「私の国の文字だから、教えても分からないでしょ?」
「そういう問題じゃない気がする……」
踊り子はユウトの肩を軽く叩いた。
「大丈夫。格好いいから」
「それも信用できないな……」
◇
その日のうちに、踊り子は本当に参加費を支払ってくれた。
宿も数日分、用意された。
「じゃあ、防具を貸して」
「はい」
ユウトは留め具を外し、自分で防具を脱いだ。
両手で持ち、踊り子へ差し出す。
だが、すぐには手を離さなかった。
「どうしたの?」
「これ、古いんですけど」
ユウトは防具へ目を落とす。
「じいさんから受け継いだものなので、大切にしてくださいね」
踊り子が少しだけ目を丸くした。
それから、柔らかく笑う。
「分かった。大事に扱うわ」
「本当にお願いしますよ」
「分かってるって」
ようやくユウトは手を離した。
踊り子は防具を丁寧に机の上へ置く。
小さな瓶を取り出した。
中には、見たことのない色のインクが入っている。
「それが特殊なインク?」
「そうよ」
「防具、傷みませんよね?」
「傷まないわ」
「本当に?」
「もう。そんなに心配なら見てなさい」
踊り子は細い筆をインクに浸した。
そして、防具の背中へ慎重に文字を書き始める。
ユウトは横から覗き込んだ。
「読めない……」
「私の国の文字だもの」
「何文字あるんです?」
「結構ある」
「芸名、長くないですか?」
「そう?」
踊り子の筆が滑らかに動く。
ユウトが見たことのない形の文字が、次々と防具の背中に並んでいく。
「これ、本当に芸名ですよね?」
「まだ疑ってるの?」
「読めないですから」
「心配性ねえ」
「大事なんです」
「分かってるわよ」
やがて踊り子が筆を置いた。
「できた」
満足そうに防具を持ち上げる。
「乾くまでちょっと待ってね」
「はい」
しばらくして、インクが乾いた。
ユウトは防具を受け取る。
傷はついていない。
「……ちゃんと無事だ」
「だから言ったでしょ」
「古くても大事なものなんです」
「はいはい」
「適当に返事してません?」
「してない、してない」
ユウトは防具を着直した。
当然、背中の文字は自分からは見えない。
「見た目、変じゃないですよね?」
「格好いいわよ」
「それが一番信用できないんだよな……」
◇
その夜。
宿の部屋。
ユウトは机の上に置かれた大会参加証を見る。
武闘大会まで、あと一週間。
一週間しかない。
だが。
一週間もある。
「ここから訓練だ」
ユウトは祖父が打った剣を手に取る。
祖父から教わったことを、もう一度全部やり直そう。
構え。足運び。剣の振り方。呼吸。
そして、感情を制御すること。
じいさんが何度も言っていた。
焦れば、自分の力は出せない。
「絶対勝つ」
ユウトは拳を握った。
金貨百枚。
そして、勇者ユウトの名をこの王国に広める。
ただ一つ。
自分の背中に何と書かれているのかだけが気になった。
◇
同じ頃。
あの踊り子は、一人で王都の人混みを歩いていた。
昼間のことを思い返す。
あの青年を見つけたのは、偶然だった。
いや。
偶然ではないのかもしれない。
『私たちが動けば、いずれ光が現れる』
シキ様が示していた通りだった。
国を作り。
外へ手を伸ばし。
人間の国と接触する。
こちらが動けば動くほど、向こうも動く。
そして。
光が現れる。
「勇者……」
踊り子は小さく呟いた。
あの青年を見た瞬間に分かった。
大勢の人間が行き交う王都の大通り。
その中で、彼だけがひときわ強く光っていた。
普通の人間には見えない。
だが、自分には分かる。
あれは。
勇者の光だ。
まだ弱い。
まだ小さい。
けれど、間違いない。
「幸運でしたね」
踊り子の口元がわずかに上がる。
ユウトには、戦闘経験がほとんどない。
立ち方。
歩き方。
剣の扱い。
見れば分かる。
力はある。
だが、まだ使いこなせていない。
勇者としても、まだ覚醒していないのだろう。
今なら。
まだ手が届く。
踊り子は人混みの中を歩きながら、昼間のユウトを思い出した。
金に困り。
大会に出たがり。
知らない女の条件を、最後には受け入れた。
警戒心はある。
だが、経験が足りない。
「さて」
踊り子は小さく笑った。
勇者は何も知らない。
自分が何者なのかも。
なぜ、自分の前に踊り子が現れたのかも。
そして。
自分の防具の背中に、何と書かれたのかも。
踊り子はそのまま人混みに紛れた。
武闘大会まで。
あと一週間。




