使者
テル王子は、いつになく緊張していた。
メメメ伯が北の国から戻って以来、両国の間では何度か書簡が交わされている。
メメメ伯自身も、すでに何度か二つの国を行き来していた。
そして今日。
初めて、向こうから正式な使者がやって来る。
当初の予定では、ブルーという青年が訪れるはずだった。
メメメ伯が第一層で会った、外交を任されている人物だ。
しかし数日前、急な仕事が入ったとの連絡があり、別の者が派遣されることになった。
テル王子は、机の上に置かれた一枚の紙を見る。
そこには、今回訪れる使者についてメメメ伯が調べた情報が書かれていた。
アルティナ。
赤い髪の女性。
家名なし。
爵位なし。
年齢は見たところ二十代前半。
そして、一番下には少し妙な一文が書き加えられている。
『くれぐれも粗相のないように』
「……だから、それが一番困るんだが」
テル王子は小さく呟いた。
粗相をするなと言われても、その相手がどの程度の立場なのかが分からない。
メメメ伯は何度も北の国へ足を運んでいる。
それでも、あの国の仕組みはいまだにはっきりしない。
王がいるのか。
貴族がいるのか。
能力のある者が上に立つ仕組みなのか。
分かっていることは少ない。
ブルーが外交を担当している。
その程度だ。
今回来るアルティナについては、さらに分からない。
最初は公爵に応対を任せる案もあった。
しかし、もしアルティナが公爵よりもはるかに高い立場だった場合、最初から礼を欠くことになる。
だから今回は。
「結局、僕か」
第一王子であるテル自身が出迎えることになった。
◇
「殿下。到着されました」
窓の外へ目を向ける。
城門を抜けて、一台の見慣れた馬車が入ってきた。
メメメ伯の馬車だ。
その後ろに、もう一台。
「……あれか」
赤と黒を基調とした馬車だった。
深い赤の車体に、黒い縁取り。
遠く北の国から何日も走ってきたはずなのに、泥汚れらしいものがほとんど見えない。
まるで今朝作られたばかりのように艶が残っている。
「ずいぶん綺麗な馬車だな」
思わずそんな感想が漏れた。
しばらくして、扉が開く。
テル王子は立ち上がった。
そして。
彼女が部屋へ入ってきた瞬間。
ほんの少し、世界が明るくなったような気がした。
鮮やかな赤い髪。
長い髪は丁寧に整えられ、歩くたびに柔らかく揺れている。
身にまとっているのは、赤を基調とした上品なドレス。
華やかではある。
しかし、飾り立てすぎてはいない。
腰から広がる布は軽やかで、その立ち姿には令嬢らしい美しさと、どこか剣を持たせても似合いそうな凛々しさが同居していた。
整った顔。
まっすぐ前を見る瞳。
柔らかな笑み。
「…………」
一瞬。
見とれていた。
テル王子は慌てて我に返る。
「よ、ようこそお越しくださいました」
少し噛んだ。
最悪だ。
しかし彼女は気にした様子もなく、綺麗に頭を下げた。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
その後ろには、一人の女性が立っている。
白に近い灰色の髪。
落ち着いたメイド服を着ており、一歩下がった位置から静かに頭を下げた。
「私はこの国の第一王子、テルと申します」
「テル王子ですね」
アルティナが笑う。
「一つ確認してもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「王子というのは、将来王となり、国の政を担う方という認識で合っていますか?」
「必ず王になるとは限りませんが、その可能性が高い立場ではあります」
「なるほど」
アルティナは少し考えたあと、笑顔で言った。
「でしたら、私と立場はだいたい同じです」
「同じ?」
「はい」
そして、ごく普通のことのように続けた。
「私のことは、あちらの国で二番目くらいに偉い者だと思ってください」
「……二番目?」
「はい」
テル王子の背中に冷たいものが流れた。
公爵に任せなくてよかった。
本当によかった。
「では、かなり重要なお立場なのですね」
「そういうことになるのでしょうか」
アルティナは笑顔を崩さなかった。
「一番上に立つ方もいらっしゃる?」
何気なく尋ねたつもりだった。
だが。
アルティナの表情が、ほんの少しだけ変わった。
「申し訳ありません」
丁寧に頭を下げる。
「その方については、我が国の最高機密となっております」
「最高機密……」
「本当はお伝えしたいのですが、私の判断でお話しすることは許されておりません」
「いえ。こちらこそ失礼しました」
「ありがとうございます」
アルティナは再び柔らかく笑った。
だが、これ以上は聞くべきではない。
テル王子にも、それははっきり分かった。
◇
席についてから、互いの国について話をした。
まずは王国側。
人口。
主要な産業。
近隣諸国。
農業。
冒険者。
教会。
そして王家について。
アルティナは思った以上に熱心に聞いていた。
たまに少し的外れな質問もする。
「王子は毎日何を食べるんですか?」
「……毎日?」
「はい」
「特別なものではありませんが」
「朝から肉は?」
「食べる日もあります」
「なるほど」
一体、何の参考になるのだろう。
だが、聞かれた以上は答えた。
「では、今度はこちらから聞いても?」
「もちろんです」
「あなた方の国は、どのようにできたのですか?」
アルティナは少し考える。
「昔、迫害された人たちがいたそうです」
「迫害?」
「はい。故郷を追われたり、土地を奪われたり。そういう人たちが集まってできた国だと教わっています」
「なるほど……」
「その人たちを助けた方がいて、今の国の基礎ができたそうです」
「その方については?」
テル王子が慎重に尋ねる。
アルティナは申し訳なさそうに微笑んだ。
「すみません。そこから先は、先ほどお話しした最高機密に関わってしまいます」
「ああ、失礼」
「いえ。気になるのは当然だと思います」
国の頂点に関する情報だけは徹底して伏せるつもりらしい。
「では、現在の国の運営について教えていただけますか?」
「それなら大丈夫です」
アルティナは両手を使って七を示した。
「七人で、それぞれ仕事を担当しています」
「ではブルー殿も?」
「はい」
「外交担当と聞いています」
するとアルティナが笑った。
「あれ、今回作ったんですよ」
「……作った?」
「はい。今まで他の国と外交なんてしたことがありませんでしたから」
さらりと言われた。
テル王子は一瞬言葉を失う。
つまり、本当に。
この王国が最初なのだ。
「ブルーがそういうの得意そうだから、担当になりました」
「なるほど……」
思っていたより、ずっと大雑把な国なのかもしれない。
「では失礼ながら、アルティナ殿は何を担当されているのでしょう?」
「私ですか?」
アルティナが止まる。
本当に考えている。
少し上を見る。
右を見る。
左を見る。
そして。
「笑顔担当と思ってください」
「…………」
テル王子は思わず笑った。
「それは重要ですね」
「そうでしょう?」
冗談なのだろう。
明るい女性だ。
少しだけ緊張がほぐれた。
◇
話が一段落したところで、茶と菓子が運ばれてきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アルティナがカップへ手を伸ばそうとする。
その前に。
後ろに立っていたメイドが動いた。
カップを取り、一口。
菓子もほんの少し口にする。
数秒待つ。
そして、アルティナへ小さくうなずいた。
「…………」
毒見。
隠そうともしていない。
アルティナはそれを確認してから、ようやくカップを手に取った。
一口。
ほんの少しだけ。
菓子にも手を伸ばしたが、こちらも小さく一口だけだった。
「お口に合いませんでしたか?」
「いえ。いただいております」
笑顔は崩れない。
しかし、それ以上は食べなかった。
テル王子は考える。
信用されていない。
当然と言えば当然だ。
初めて訪れた外国。
しかも、アルティナは本人の言葉を信じるなら、国で二番目に位置する人物。
毒を警戒するのは理解できる。
ただ。
これほど堂々と毒見をする使者は、テルも初めて見た。
外交に慣れていないからなのか。
それとも、この女性がそれほど大切に扱われているのか。
◇
話題はその後も続いた。
難しい政治の話ばかりではない。
「普段は何時頃に起きるんですか?」
「日によります」
「王子でも寝坊します?」
「……たまには」
「へえ」
「アルティナ殿は?」
「私は起こされます」
「自分では?」
「起きません」
隣のメイドが、ほんの少しだけ目を伏せた。
何か言いたそうだった。
食べ物。
仕事。
休日。
一日の過ごし方。
王子がいつ王になるのか。
どんな祭りがあるのか。
テルも負けじと質問を返した。
聞けば聞くほど、奇妙な感覚が生まれてくる。
北の奥深く。
三重の巨大な壁に守られ。
王国ほどの城を持ちながら、ほとんど存在を知られていなかった国。
どれほど異質な人々が暮らしているのかと思っていた。
だが。
食事をする。
仕事をする。
朝起きる。
眠る。
祭りを楽しむ。
家族と暮らす。
思ったほど変わらない。
目の前のアルティナもそうだ。
よく笑う。
少し変わったところはあるが。
僕たちと同じ人間なのだ。
テルは、そう思った。
「ああ、そうだ」
一つ思い出す。
「来月、王都で武闘大会が行われます」
「武闘大会?」
アルティナの目が少しだけ輝いた。
「何ですか、それ」
「各地から腕に自信のある者が集まり、戦って優勝者を決める大会です」
「戦う?」
「もちろん一定の規則はありますが」
それまで笑っていたアルティナの顔が、少しだけ真剣になった。
「面白そうですね」
「よろしければ観覧に来ませんか?」
「いいんですか?」
「もちろんです」
テルは少し考えたあと、さらに続ける。
「それと、もしそちらに腕自慢の戦士がいるなら、参加していただいても構いません」
アルティナが目を丸くした。
「うちの人が?」
「はい。互いのことを知る良い機会にもなるでしょう」
「なるほど……」
アルティナが少し考え込む。
そして。
「ぜひ参加させてください」
「本当ですか」
「はい」
笑顔が戻る。
「誰を出すかは、帰って相談します」
「楽しみにしています」




