2話:「君のような悪女は追放だ」……はい、喜んで?
夜の森は、静まり返っていて真っ暗だった。
普通のお嬢様なら、今頃恐怖で泣き叫んでいただろう。けれど、華やかな夜会ドレスのまま茂みを進む私の足取りは、不思議と軽かった。
(あー、すっきりした!)
冷たい夜風が、火照った頬に心地いい。
もう、あの身勝手なエドワード殿下の顔を見なくていい。毎日毎晩、睡眠時間を削って国のために祈りを捧げる必要もない。これからは、自分のために生きていけるのだ。
とはいえ、さすがにこのドレスでは歩きにくい。
私は大きな木の根元に腰掛け、ドレスの長い裾を思い切りよくビリリと破いた。これで膝丈のワンピースのようになり、ずいぶんと動きやすくなった。
「さて、これからどうしようかしら……」
私が小さく呟いた、その時だった。
――グルルルルル……。
闇の奥から、地を這うような低い唸り声が聞こえてきた。
ガサリ、と草むらが揺れ、姿を現したのは、大柄な犬ほどの大きさがある魔獣『黒狼』だった。赤く光る目が、完全に私を獲物として捉えている。
普通の人間なら、ここで腰を抜かして終わりだ。
けれど、私はふうと息を吐き、むしろ優しく微笑んでその魔獣を見つめた。
「こんばんは。お腹が空いているの? それとも、お散歩かしら?」
私が声をかけると、ディレ・ウルフはピクリと耳を動かした。激しく牙を剥き出しにしていた表情が、一瞬で「あれ?」と困惑したものに変わる。
これこそが、私の持つ『聖獣使い』の力。
私は、動物や魔獣たちの感情を読み取り、彼らと言葉を交わすことができるのだ。
「ううん、違うわね。……あなた、足が痛いのね?」
よく見ると、魔獣の右前足に、鋭い植物のトゲが深く刺さっていた。血がにじみ、ひどく腫れている。痛みのせいで気が立って、凶暴になっていたらしい。
「じっとしていてね。今、楽にしてあげるから」
私はそっと近づき、怯える魔獣の頭を優しく撫でた。私の手から、じんわりと温かい金色の魔力が溢れ出し、魔獣の体を包み込んでいく。
『キューン……』
凶暴な魔獣が、まるで甘える子犬のような声を漏らした。
私の癒やしの魔力がトゲを押し出し、傷口を一瞬できれいに塞いでいく。痛みが消えたことに気づいた魔獣は、嬉しそうに私の頬を大きな舌でレロレロと舐め始めた。
「ふふ、くすぐったいお友達。もう大丈夫よ。夜道は気をつけてね」
魔獣は名残惜しそうに何度も振り返りながら、森の奥へと去っていった。
ふう、と一安心したけれど、さすがに魔力を使ったせいで、急に激しい眠気と疲労が私を襲ってきた。
(だめ、意識が……。少しだけ、ここで休もう……)
私はたまらず、大木の根元にバタンと倒れ込んでしまった。
王宮での連日の激務に加え、婚約破棄の精神的ダメージ、そして今の魔力消費。私の体は、すでに限界を迎えていたのだ。意識が急速に遠のいていく。
目を閉じる直前、ザッ、ザッ、と激しい足音がこちらへ近づいてくるのが聞こえた。
「おい! 大丈夫か!」
低くて、とても心地のいい、焦ったような男の人の声。
誰かしら……。
けれど私は、その声の主の顔を見る前に、完全に意識を失ってしまった。
◇◇◇
「……ん……」
どれくらい眠っていたのだろう。
気がつくと、私は硬い地面の上ではなく、とても柔らかくて温かい場所に横たわっていた。
ゆらゆらと、心地いいリズムで体が揺れている。
(あれ……? 私、死んじゃったのかしら?)
ゆっくりと目を開けると、そこは豪華な馬車の中だった。
そして何より驚いたのは、私が誰かの腕の中にすっぽりと収まっていること――つまり、お姫様抱っこをされている状態だったことだ。
「気がついたか」
上から降ってきた声に、私はハッと顔を上げた。
そこにいたのは、息をのむほど美しい髪を持った男性だった。
夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪に、鋭くも知性を感じさせる深い氷のブルーの瞳。整いすぎた容姿は、まるで彫刻のようだ。彼は仕立てのいい黒い軍服を着ており、圧倒的な高貴さと強者のオーラを放っていた。
「あ、あの……あなたは……?」
「私はアルフレッド・ラインハルト。隣のラインハルト公爵領を治める者だ。国境の森で倒れている君を見つけてな。……体は痛まないか?」
ラインハルト公爵……!
その名を聞いて、私の頭に電撃が走った。
お隣の軍事大国において、最強の軍隊を率いる若き天才公爵。戦場では容赦なく敵を討ち倒す姿から、巷では『冷酷公爵』と恐れられている、あの有名なアルフレッド様!?
でも、私を見つめる彼の瞳は、噂とは違って、ひどく心配そうに揺れていて、とても温かい。
「あ、ありがとうございます、アルフレッド様。私はエリアナと申します。その……怪我は、どこもしていません。少し疲れていただけです」
「そうか。ならば良かった。だが……」
アルフレッド様は、私の破れたドレスや、汚れた手足をじっと見つめ、ふっと悲しげに目を細めた。
「そんな格好で、夜の森に一人で倒れているなど、普通ではない。一体、何があった? 君をこんな目に遭わせたのは、どこのどいつだ」
彼の声が、一瞬だけ低く、冷たく響いた。その迫力に、私は思わずくりくりと目を丸くしてしまう。
冷酷公爵様が、出会ったばかりの私のために、本気で怒ってくれているみたいだ。
「それは……」
私が言い淀むと、アルフレッド様はフッと優しく微笑み、私を抱きしめる腕の力を少しだけ強めた。
「話したくないなら、無理にとは言わない。だが、もう安心しろ。俺の領地へ向かっている。そこなら、誰も君を傷つけさせない」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥が、じわっと熱くなった。
エドワード殿下は、私の言葉を何も信じてくれなかったのに。この人は、私の事情も知らないのに、真っ先に「守る」と言ってくれた。
「……はい。ありがとうございます、アルフレッド様」
私は彼の胸にそっと頭を預けた。
馬車は夜の闇を抜け、新しい光が差し込むお隣の国へと、まっすぐに走っていくのだった。




