EP 2
瀕死のウサギ耳村長に極上メシを食わせたら、胃袋ごと懐かれました。
黄金色の山から立ち上る、暴力的なまでに食欲をそそる匂い。
キャルル・ムーンハートは、目の前に差し出された平皿を前に、ゴクリと喉を鳴らした。
(毒……? いや、幻術……?)
近衛騎士隊長候補として鍛え上げられた彼女の理性が、必死に警告を発する。
ほんの数分前まで、自分たちを焼き尽くそうとしていた敵の『獄炎魔法』と『殺意』だ。それが、目の前の謎の青年が中華鍋を振るっただけで、どうしてこんなに美味そうなチャーハンになるというのか。
罠かもしれない。食べてはいけない。
そう分かっているのに――。
「ぐ〜……っ」
キャルルの平坦なお腹が、空気を読まずに盛大な音を立てた。
限界まで魔力を振り絞り、血を吐くまで戦い抜いた肉体は、完全に飢餓状態に陥っていたのだ。
ウサギ耳をパタパタと恥ずかしそうに揺らすキャルルに、タダシは呆れたように息を吐いた。
「安心しろ。変なもんは入れてない。塩と胡椒、それにネギ代わりの野草で味を調えただけだ。ほら、ガキの分もあるぞ」
タダシはもう一つの小皿を、キャルルの背後に隠れていた子供に差し出した。
子供は一瞬ビクッとしたが、匂いの誘惑に耐えきれず、小さな手でスプーンを握り、チャーハンをパクリと口に入れた。
「……っ! おいひぃ!!」
子供の顔が、パァッと花が咲いたように明るくなる。
それを見たキャルルは、もう限界だった。
震える手でスプーンを握り、黄金色に輝く米の山をすくい上げ、恐る恐る口に運ぶ。
――パラッ。
口に入れた瞬間、米が一粒一粒、ほどけるように散らばった。
敵の殺意から作られたはずの卵は、信じられないほど濃厚で甘みがあり、米の一粒一粒を完璧なまでにコーティングしている。
噛み締めるたびに、ごま油の芳醇な香りと、魔力由来の爆発的な旨味が口の中を暴れ回った。
「美味しい……なにこれ、美味しい……っ!」
キャルルは夢中でスプーンを動かした。
騎士としての作法も忘れ、一心不乱にチャーハンを掻き込む。美味い。ただひたすらに美味い。これまでの人生で食べてきた王宮の豪勢な料理が、すべて色褪せて感じるほどの衝撃だった。
だが、真の驚きは『味』ではなかった。
「……えっ?」
半分ほど食べたところで、キャルルは自分の体に起きている異変に気づいた。
全身を苛んでいた激痛が、嘘のように引いていく。
それどころか、魔法の直撃を受けて焼け焦げていた服の下の火傷が、見る見るうちに塞がり、綺麗な白い肌を取り戻していくではないか。
「嘘……傷が……? それに、魔力が、底なしに湧いてくる……!」
タダシの【絶対解体調理】によって作られた料理は、ただ美味いだけではない。
敵の強大な魔力を『食材』として体内に取り込むことで、食べた者に異常なまでの【超回復】と【ステータスバフ】をもたらすのだ。
血を吐き、死を覚悟していたはずのキャルルの体は、たった一皿のチャーハンで、満月時を凌駕するほどの活力を取り戻していた。
「あ、あなたは、一体……?」
キャルルがスプーンを握りしめ、潤んだ瞳でタダシを見上げた、その時だった。
ズシンッ! ズシンッ! ズシンッ!
突如、大地を激しく揺らす重低音が響き渡った。
タダシたちが視線を向けると、先ほど逃げ出したはずの黒ローブの男が、土煙を上げて戻ってくるのが見えた。
しかも今度は、一人ではない。
男の背後には、身の丈5メートルはあろうかという、赤黒い毛並みを持った巨大な猪型の魔獣が付き従っていた。その牙は鋼鉄のように鈍く光り、鼻からは蒸気のような荒い息を吐き出している。
「ヒャハハハハ! 逃げたとでも思ったかァ! さっきは奇襲で不覚を取ったがな、この俺の最高傑作、S級魔獣『デス・ボア』の突進の前には、小細工なんて無意味だァ!」
ローブの男が狂ったように叫ぶ。
デス・ボア。
その名を聞いた瞬間、キャルルの顔から血の気が引いた。城壁すら一撃で粉砕し、一個大隊を一瞬で壊滅させるという災害級の魔獣だ。
いくら自分が全回復したとはいえ、子供と、この命の恩人を護りながら勝てる相手ではない。
「逃げて! あなただけでも……っ!」
キャルルは割れたトンファーを構え、タダシを庇うように前に出ようとした。
しかし、タダシは動かなかった。
それどころか、キャルルの肩を片手でポンと叩き、後ろへ下がるように促した。
「おい」
タダシの声は、地を這うように低かった。
その声の冷たさに、キャルルは思わず息を呑む。
タダシの目は、巨大な魔獣に対する恐怖など微塵も浮かべていなかった。ただ、純粋な『不快感』に満ちていた。
「土煙が上がってるだろうが」
「……え?」
「食事中だぞ。客のメシに、砂埃を食わせる気か」
料理人として、最も許せないこと。
それは、自分が丹精込めて作ったメシを、泥足で踏みにじられることだ。
「殺せェ! デス・ボアァァァッ!!」
男の号令とともに、巨大な猪が大地を蹴り上げた。
重戦車のような巨体が、凄まじい速度でタダシたちに向かって突進してくる。
圧倒的な質量と暴力。触れれば骨ごとすり潰される、死の行進。
だが、タダシは焦ることもなく、腰に提げていた愛用の『牛刀』をスッと引き抜いた。
「突進が雑だ。そんなに無駄な力み方をしたら――」
タダシが牛刀を構えた瞬間、空気が張り詰めた。
「――筋繊維が硬くなるだろうが」
【絶対解体調理】、連続発動。
タダシの体がブレた。
いや、キャルルの動体視力をもってしても、タダシが何をしたのか全く見えなかった。
ただ、彼が踏み込み、牛刀が銀色の閃光となって数度、虚空を斬り裂いたように見えただけだ。
ドバァァァンッ!!
デス・ボアがタダシに激突する寸前。
巨大な猪の時間が、ピタリと静止した。
次の瞬間。
ズルリ、と。
赤黒い分厚い毛皮が、まるでジッパーを下ろしたかのように綺麗に剥がれ落ちた。
そして、5メートルを超える巨体は、空中で幾つものブロックへと自ら分かれていく。
「ロース、バラ、ヒレ、モモ……まあ、猪肉としては上物だな。血抜きも完璧だ」
ドサリ。ドサリ。ドサリ。
タダシの足元に、信じられない光景が広がっていた。
数秒前まで災害級の魔獣だったモノが、血の一滴も流すことなく、肉屋のショーケースに並ぶような『美しい精肉のブロック』となって、部位ごとに綺麗に積み上げられていたのだ。
内臓は取り除かれ、骨は見事に外されている。まさに、神業としか言いようのない解体ショーだった。
「…………は?」
ローブの男は、目の前の現実を理解できず、間抜けな声を漏らした。
自分の最強の切り札が。
街を一つ滅ぼすはずのS級魔獣が。
ただの『スーパーの特売肉』のような姿になって、ブロックごとに積み上げられている。
「ヒッ……!? ア、アアアァァァァッ!!?」
男の精神は、ここで完全に限界を迎えた。
未知の次元の力を見せつけられた恐怖で白目を剥き、口からカニのように泡を吹きながら、その場にバタリと倒れ込んで気絶した。
静寂が戻った荒野。
残されたのは、気絶した男と、極上の猪肉の山。そして、牛刀の峰をトントンと肩で叩きながら、ふうと息を吐くタダシだけだった。
「……あ……」
キャルルは、へなへなとその場にへたり込んだ。
恐怖からではない。
圧倒的な強さ。理不尽な暴力を、全く別の次元の力でねじ伏せる規格外の存在。
そして何より、自分たちの「食事の時間」を守るために前に立ってくれたその背中に、キャルルの胸はこれまでにないほど激しく高鳴っていた。
これが、恋(胃袋を掴まれた瞬間)であると、彼女が自覚するのはもう少し先の話だ。
「あ、あなた様は……」
キャルルは震える声で、まるで神に祈るように両手を組んで見上げた。
「まさか、天界から降り立った『雷神様』なのですか……!?」
目を輝かせるウサギ耳の少女に対し、タダシは牛刀をスッと鞘に納め、面倒くさそうに頭を掻いた。
「いや、ただの元・社畜だ。それより――」
タダシは足元に積まれた極上の猪肉(元・S級魔獣)を見下ろし、真剣な顔で言った。
「鮮度が落ちる前に、この大量の肉を入れる『冷蔵庫』を探したいんだが。どこか、村の案内を頼めないか?」
こうして、伝説の料理人・牧野タダシは、狂気と混沌に満ちた限界集落『ポポロ村』へと足を踏み入れることになるのだった。
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