第三章 大坂屋敷家老
秀家からの偏諱や旭川改修など、史実で確認できる家正の功績を、この章にまとめて配置しています。地味な仕事への誇りというテーマを、具体的な事業の描写を通して実感してもらいたいという意図がありました。
宇喜多家に入ったわしは、程なくして大坂屋敷の家老という重き役目を仰せつかった。秀家様は、わしの算用の才と、川の流れを読む普請の心得を殊のほか喜んでくださり、諱の「家」の字までお与えくださった。中村家正――この名は、秀家様からの偏諱によるものじゃ。武士にとって、主君から名の一字を賜るというのは、この上ない誉れでな。わしはその重みを、生涯忘れたことはない。
大坂での日々は、忙しくも充実したものであった。城下町を流れる川の水路を変え、水害を防ぎ、年貢の算用を整え、家中の勘定を管理する。地味な仕事ではあるが、これがなければ家というものは立ち行かぬ。戦場での華々しい武功こそないが、わしはこの裏方の仕事に、確かな誇りを持っておった。
もっとも、わしの役目は大坂の屋敷内だけに留まらなんだ。秀家様は、備前岡山の城と城下町そのものを、一から作り直そうという大きな志をお持ちであった。旭川の流れを城のかたちに合わせて整え、山陽道を城下へ引き込み、京橋川の東側にも新たに町割りを許す。商家には「よき家」を建てさせ、みすぼらしい家は取り壊して土地を与え直す。二階建ての町家を並べさせ、酒を造る者どもは城下に集め、勝手な酒造りは禁じる。寺や社の領地もまた、いったんすべて召し上げ、金山寺の圓智という僧を用いて改めて配り直す。
わしは、この旭川改修の「直属奉行人」を仰せつかった。川筋を城のかたちに合わせて付け替えるという大仕事は、播磨で培った水の心得があってこそ、任せていただけたのであろう。検地の縄を引き、材木の値を算じ、寺社への割り渡しを取り仕切る。備前四十八ヶ寺の寺領を再配分する際も、わしの算用が用いられたと聞く。この頃のわしは、まるで白紙の上に新しい国のかたちを描いていくような、そんな高揚を覚えておった。秀家様は、若くして、一つの国をまるごと作り替えようとしておられたのじゃ。わしのような小身の者が、その大事業の片隅に加えていただけたことは、身に余る誉れであった。
豪姫様は、大坂の屋敷でも変わらず、皆から慕われておられた。時折、屋敷の庭を歩く豪姫様のお姿を遠くから見かけることがあった。故郷の加賀を離れ、見知らぬ土地で新しい家に嫁がれた豪姫様も、きっと様々な思いを抱えておられたであろう。わしもまた、故郷播磨と、短くも過ごした前田の家を離れた身であった。互いに立場は違えど、遠い土地で新しい根を張ろうとする者同士、どこか通じるものがあったやもしれぬ。
秀家様は、若く聡明で、天下の政にも通じたお方であった。豊臣家の一門衆として重んじられ、宇喜多家は備前・美作五十七万石を領する大きな家となっておった。わしのような小身の者が、このような大きな家の家老を務めるというのは、身に余る誉れであった。だからこそ、わしは誰よりも懸命に働いた。
もっとも、わしの胸の内には、常にもう一つの務めがあった。折に触れ、加賀の前田家へ、密かに文を送ることじゃ。宇喜多家中の様子、豪姫様のご様子、政の動き――それらを、しかるべき筋を通じて、前田家へお伝えしておった。これは決して、秀家様への裏切りではない。わしにとって、宇喜多家への奉公と、前田家への忠義は、矛盾するものではなかった。豪姫様がお健やかにお過ごしになり、宇喜多家が安泰であることこそ、前田家にとっても望ましいことであったからじゃ。少なくとも、わしはそう信じておった。
しかし、この二重の忠義というものが、時にわしの心を重くしたことも、正直に記しておかねばなるまい。宇喜多家臣として働けば働くほど、わしの中には、この家の者として本当に骨を埋める覚悟があるのか、という自問が生まれた。二つの主に仕えるということが、どれほど心を引き裂くものか――若かったわしには、まだ分かっておらなんだ。
慶長四年、わしにとって、いや前田の家にとって、大きな出来事が起こった。利家様が、大坂の御屋敷で身罷られたのじゃ。わしがこの報せを聞いたのは、備前の地であった。あの、若き日のわしを見出し、豪姫様の御供として送り出してくださった御方が、もうこの世におられぬ。その喪失は、わしの胸に深く刻まれた。
利家様の死後、前田の家督は嫡男・利長様が継がれた。しかし、その利長様が家督を継いだ途端、前田の家には新たな嵐が吹き荒れた。徳川家康公より、謀反の疑いをかけられたのじゃ。加賀征伐かという噂まで飛び交い、前田の家中は上を下への大騒ぎとなったと聞く。利長様は、御家の存続そのものを守ることに、心血を注がねばならなくなった。
わしは、ここで一つの変化に気づいた。それまで、わしが密かに文を送っておった相手は、利家様であり、その意を汲む前田の重臣たちであった。しかし利家様が身罷られ、利長様が当主となられてからは、前田の家の関心は、己の家の存続――徳川家との関係を保つこと――に強く向けられるようになった。宇喜多家や、そこに嫁がれた豪姫様の御身の上を気にかける余裕は、もはや前田の家全体としては、薄れつつあったのじゃ。
一方で、豪姫様御自身のお気持ちは、些かも変わることはなかった。夫・秀家様と、宇喜多の家を思うお心は、利家様の生前と何ら変わらぬまま、いや、むしろ強くなっておられたやもしれぬ。わしは、いつしか、前田の家全体の意向と、豪姫様お一人の切なるお気持ちとが、少しずつ食い違い始めているのを感じるようになった。
孫よ、これはわしにとって、実に難しい立場であった。表向きは宇喜多家臣、内では前田家への忠義――そう思い定めておったはずが、その「前田家」の中身が、公の路線(利長様)と、私のお気持ち(豪姫様)とに、分かれ始めたのじゃ。わしがまことに忠義を尽くすべきは、どちらであったのか。今にして思えば、わしは迷わず、豪姫様お一人への忠義を選んでおった。それが、公の路線に背くことになろうとも、じゃ。
しかし、大きな家には、大きな家なりの難しさがある。家中の人の和というのは、家が大きくなるほどに保つのが難しくなるものじゃ。わしはその難しさを、やがて骨身に染みて知ることになる。
二重の忠義に悩む場面は本作オリジナルの解釈です。「孫よ」の呼びかけを削って独白に近づけたのは、この場面が孫への教訓というより家正自身の内省であるべきだと判断したためです。




