終焉
家正自身の視点を離れ、三人称の記録的な文体に切り替える最後の章です。「筆はここで途絶えている」という一文で、これまでの一人称の語りとの断絶を明示しています。
――家正の筆は、ここで途絶えている。
寛永十三年、家正は金沢の地で没した。豪姫の葬儀を執り行ってから、二年後のことであった。享年は定かに伝わっていないが、寛永八年の時点で「七十に近い」と語っていたことから推せば、七十代半ばであったろう。
金沢の茜屋小路には、家正の屋敷があった。後年、屋敷の前を流れる倉月用水に架かる橋は「刑部橋」とも呼ばれ、その名は長く土地の記憶に刻まれた。屋敷地は、後に子孫が数家に分かれるとともに割地され、同姓数家が軒を並べて住まうこととなったという。明治維新の際まで、その地には中村姓の家が残っていたと伝えられている。
播磨の山里に生まれ、前田の家に仕え、豪姫の輿入れに従って宇喜多の家へ入り、宇喜多騒動の渦中で命を狙われながらも生き延び、浪々の歳月を経て、豪姫御自らの手によって加賀へ呼び戻された家正。その生涯は、大きな時代のうねりに翻弄されながらも、一人の主君への忠義を貫いた歳月であった。
彼が語り継ごうとした思いは、孫へ、そのまた子孫へと、幾世代にもわたって受け継がれていったのであろう。金沢の地に残る橋の名、大蓮寺の天井に残る紋、そして今なお続く家の記憶――それらすべてが、家正が確かにこの世に生きた証である。
史実と創作の境界を、本文の最後で意図的に曖昧にしています。橋の名や家紋という具体的な痕跡を通して、物語が実在の歴史とつながっていることを感じてもらえればと思います。




