後日談 大蓮寺にて
三年後という時間の経過を挟むことで、終章までとは異なる筆致――より事実に即した記録的な調子――に切り替えています。豪姫の死という重い出来事を、感情語を抑えて描くことを意識しました。
――ここに記すのは、家正が孫に語り終えてから三年後、寛永十一年(1634年)のことである。
その報せが金沢城下に届いたのは、五月のことであった。
「備前様、御逝去」
わしがその報せを耳にしたとき、一瞬、何のことか分からなんだ。分からぬはずがない。永年、心のどこかで、いつかこの日が来ることを恐れておったはずなのに、いざその時が来ると、頭の中が真っ白になるものじゃ。
豪姫様――樹正院様は、金沢城の鶴の丸にて、六十一年の御生涯を閉じられた。
わしは、あの寛永七年、難波秀経殿を取り次いだ日のことを思い出した。あの時すでに、豪姫様は八丈の御方の身を案じておられた。それからわずか四年で、豪姫様御自身が、この世を去られるとは。
秀家様との再会は、ついに叶わなんだ。海を隔てたまま、二十八年もの歳月、互いに思い合いながら、二度と相見えることはなかった。
葬儀は、大蓮寺にて執り行われることとなった。わしと、一色主膳輝昌殿とが、その差配に当たることとなった。かつて宇喜多家中で共に働き、共に苦しみ、そして共に加賀へ戻ってきたわしらが、こうして豪姫様の最後の御見送りを共に務めることになろうとは、若き日には思いもよらなんだ。
しかし、葬儀の支度に取り掛かってすぐ、わしと一色殿は、思いもよらぬ壁にぶつかった。前田の御家は、代々曹洞宗を宗旨とする。しかるに、豪姫様の御心は、生涯を通じて宇喜多の家――浄土宗の教えのもとにあられた。前田の家の姫として葬るべきか、宇喜多の家の妻として葬るべきか。宗旨の違いは、単なる作法の違いにあらず、豪姫様がどちらの家の者として弔われるか、という、重い問いであった。家中でも、いずれの寺で、いずれの作法で執り行うべきか、しばし議論が定まらなんだ。
この窮地に、進んで名乗りを上げてくださったのが、大蓮寺三世・寳譽上人であった。上人は、浄土宗の作法をもって、御自ら葬儀を執り行うと申し出てくださった。これにより、豪姫様は、生涯お心を寄せられた宇喜多の家の教えのもとで、安らかに送られることとなった。わしはこの時、上人の御決断に、深く頭を下げた。上人がおられなんだら、豪姫様の御弔いは、宙に迷うたままであったやもしれぬ。
わしは、豪姫様が日々お祈りになっておられた聖観音の御像を、大蓮寺へお納めすることにした。あの御像は、豪姫様が海を隔てた秀家様と、御子息たちの無事を、来る日も来る日もお祈りになった、まさに御心そのものであった。この御像を中村の家から寺へ納めることこそ、わしにできる、最後にして最大の御奉公であると思うたのじゃ。
野田山の墓所に、豪姫様の五輪塔が建てられた。前田家累代の墓所に、豪姫様は静かに眠られることとなった。わしは、その傍らに立ち、若き日、備前への輿入れの道すがら見た御輿の御姿、大坂の屋敷の庭を歩まれるお姿、そして寛永七年、久方ぶりに拝謁したあの日のお声――「中村、息災であったか」――を、幾度も思い返した。
孫よ、わしがこの生涯を賭して繋いだ糸は、豪姫様がお隠れになった今も、途切れてはおらぬ。豪姫様が始められた八丈島への御仕送りは、前田の家によって、これからも続けられていくであろう。そして、豪姫様と秀家様は、たとえ生きて相見えることが叶わずとも、寳譽上人が守ってくださった浄土の教えのもとで、いつか必ず結ばれる日が来る――わしはそう信じておる。
わしもまた、老いた身である。あとどれほどの歳月が残されておるか分からぬ。しかし、この胸に刻んだ豪姫様への忠義だけは、わしが世を去るその日まで、決して色褪せることはあるまい。
――中村刑部丞家正、追記す。
宗旨の違いという史実の一件を、家正と一色殿の視点から描くことで、単なる出来事の記録ではなく、二人の当事者としての戸惑いを伝えたいと考えました。




