終章 託すもの
孫との対話という額縁を回収する、本作のクライマックスです。二つの家に仕えたという秘密と、八丈島への絆という二つの告白を、この章で初めて孫に――そして読者に――明かしています。
気づけば、日はすっかり傾いておった。孫は井戸端で汗を拭い、稽古着のまま、わしの話にじっと耳を傾けておった。
「祖父様は、たくさんのものを失われたのですね」
孫がぽつりとそう言った。わしは頷いた。
「そうじゃ。大坂の屋敷も、朋輩たちとの日々も、若き日の夢も、多くを失った。しかし、な」
わしは孫の顔を見つめた。
「失ったからこそ、見えてきたものもある。豪姫様への忠義の心は、栄達の中では、当たり前のものとして見過ごしておったやもしれぬ。しかし、全てを失った浪々の日々の中で、その忠義こそが、わしを支える灯火であったと気づいたのじゃ」
孫は真剣な顔で聞いておった。
「播磨の小さな邑から始まり、前田様、宇喜多様、そしてまた前田様――多くの家を渡り歩いたわしじゃが、変わらなかったものが一つある。それは、己に与えられた役目に、誠実に向き合うということじゃ。槍働きであれ、算用であれ、寺社の取次であれ、その時々でわしにできる最善を尽くす。それだけは、どのような境遇にあっても、忘れずにおった」
「祖父様、それがこの家の――中村の家の、教えなのですね」
わしは微笑んだ。孫は、わしの話の核心を、幼いなりにしっかりと掴んでおる。
「そうじゃ。武功も、石高も、いつかは移ろう。しかし、誠実に役目を果たす心、人の和を大切にする心、そして受けた御恩を忘れぬ心――これらは、この中村の家に生きる者が、代々受け継いでいくべきものじゃと、わしは思う」
わしは、しばし迷うたが、ここまで話したのだ、もう一つだけ明かしておこうと思うた。
「孫よ、これは今まで誰にも語らなんだことじゃ。わしが宇喜多家にあった頃、実はな、心の一線だけは、決して前田の家から切れておらなんだ。表向きは宇喜多家の家老、しかし密かに、豪姫様と前田家のために働く務めも、共に負うておったのじゃ。宇喜多の重臣たちがわしを疑うたのも、あながち見当違いではなかった。彼らは、わしの中にある、もう一つの忠義を、どこかで感じ取っておったのやもしれぬ」
孫は驚いた顔をした。
「では祖父様は、二つの家に仕えておられたのですか」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。わしにとって、宇喜多家への奉公と、前田家への忠義は、矛盾するものではなかった。ただ、それを両立させるということが、どれほど心を引き裂くものか――そなたには、まだ分かるまい。いつか、そなたが同じように、二つの立場の狭間に立つことがあれば、この祖父の話を思い出すがよい」
わしは少し間を置いてから、続けた。
「もう一つ、そなたに覚えておいてほしいことがある。豪姫様には、海を遠く隔てた八丈の島に、今もお暮らしになっておられる御方がある。かつての宇喜多秀家様じゃ。豪姫様は、その御方のために、幾年もの間、密かに米や金子をお届けになっておられる。わしは、その絆を繋ぐ取次の一端を担うたことがある。表には出ぬ、地味な役目であったがな」
孫は目を丸くして、わしを見つめた。
「祖父様、それはどういうことでございますか」
「豪姫様のお心は、遠い昔にお別れになった御方への忠義そのものじゃ。人は、目の前の縁だけでなく、遠く離れた縁をも大切にせねばならぬ――わしはそのことを、豪姫様から学んだ。この中村の家に連なる者たちよ、たとえわしが世を去ろうとも、この絆を心に留め置いてくれ。いつの日か、そなたたちの誰かが、その糸を繋ぐ役目を担うことがあるやもしれぬ。その時は、決して疎かにしてはならぬぞ」
孫は、その言葉の重みをすぐには測りかねる様子であったが、それでも神妙に頷いた。この話が、幼い胸にどれほど残るかは分からぬ。しかし、種を蒔いておくことこそが、わしにできる最後の務めであろうと思うた。
わしは孫の頭に手を置いた。若い頃、播磨の川で魚を獲っていた自分の姿と、今こうして孫に語りかけておる自分の姿が、一本の川のように繋がっているのを感じた。
播磨から前田へ、前田から宇喜多へ、そしてまた前田――加賀へ。幾度も流れを変えながらも、決して途絶えることのなかった、わしという川。その水は、今、この孫へと注がれていく。
「さあ、日も暮れる。夕餉の支度ができておるはずじゃ。参ろうか」
わしは孫の手を引いて、縁側から立ち上がった。庭の柿の木が、夕陽に照らされて、静かに揺れておった。
これで、わしの語りは終わりじゃ。孫よ、そなたがこの話を、いつかまた誰かに語り継いでくれることを、わしは願っておる。
――中村刑部丞家正、記す。
「川」という比喩を、序章の播磨の川から終章まで一貫して使いました。家正の人生そのものを流れとして描くことで、額縁構造に一本の筋を通したいと考えました。




