第十章 卯辰山の八幡宮
寛永七年の難波秀経との再会という、数少ない史実の記録が残る場面です。ここから八丈島への仕送りという、豪姫の晩年の忠義を描く後半への橋渡しとして書いています。
寛永七年のことじゃ。宇喜多家の旧臣であった難波秀経殿が、金沢西町にお住まいの豪姫様――備前様のもとへ、面会に参られることになった。わしは一色照昌殿と共に、その取次役を仰せつかった。
久しく途絶えておった宇喜多の旧臣との縁が、こうしてまた結ばれる。そのことに、わしは深い感慨を覚えた。難波殿の顔を見たとき、大坂での日々が一気に蘇ってきた。共に仕えた朋輩、共に苦しんだ騒動、そしてあの別れの日。互いに老い、白髪も増えたが、目を合わせただけで、通じ合うものがあった。
豪姫様――備前様は、金沢の地で静かにお暮らしになっておられた。かつての輿入れの華やかさ、大坂屋敷での気品あるお姿とはまた違う、落ち着いた佇まいであった。しかし、その瞳の奥には、変わらぬ聡明さと、旧臣たちへの温かい思いやりが宿っておった。
「中村、息災であったか」
そう声をかけていただいたとき、わしは胸が熱くなるのを抑えられなかった。若き日、備前への輿入れの道すがら、遠くからそのお姿を見た豪姫様。大坂の屋敷を追われるように去ったわし。それでも、豪姫様はわしのことを覚えていてくださった。
人の一生において、このような瞬間がどれほど貴重なものか、孫よ、そなたにも分かる日が来るであろう。長い年月と、様々な浮き沈みを経てなお、変わらぬ縁で結ばれる人がいるということ。それは、何物にも代えがたい宝じゃ。
わしはこの日、改めて心に誓った。この御恩を、残りの人生をかけて返していこう、と。たとえ大きな武功を立てることはなくとも、日々の役目を誠実に果たすことこそが、わしにできる恩返しであると。
面会の後、わしは難波殿を屋敷まで見送りがてら、二人だけで少し歩いた。人目のないところまで来ると、難波殿はふと声を落として、こう漏らされた。
「中村殿、備前様は今日もお元気そうであったが……その御心の内は、いかばかりであろうな。八丈の御方(秀家様)のことを、片時もお忘れにはならぬのだ」
わしは息を呑んだ。秀家様が八丈島へ流されてから、すでに二十年余りが過ぎておった。豪姫様――備前様は、江戸の前田の御屋敷を通じて、隔年で米や金子、衣類の類を秀家様のもとへお届けになっておられると、噂には聞いておった。しかし、それがどれほどの重みを持つ御心の内であるか、わしはこの日、難波殿の言葉で初めて深く思い知らされた気がした。
「難波殿は、その御用向きで参られたか」
わしがそう尋ねると、難波殿は静かに頷いた。
「八丈からの便りを、備前様に直にお伝えしたく参った。詳しくは申せぬが……御方様は、変わらずお達者との由。それをお伝えするだけでも、備前様のお心は少しは安まろう」
わしは、己の役目が何であったかを、そのとき改めて悟った。年貢の算用でも、寺社の取次でもない。豪姫様と、遠く海を隔てた秀家様、そしてその一族を繋ぐ、この細い糸を絶やさぬこと。表向きの役目の陰で、わしのような取次の者が担っておるのは、まさにその糸を繋ぐことであったのじゃ。
「難波殿、このような御用向きがまたあれば、遠慮のういつでもお声をかけられよ。わしにできることであれば、いかようにもお力添えいたそう」
わしがそう申し上げると、難波殿は深く頭を下げられた。
その夜、わしは一人、この日のことを思い返しながら考えた。豪姫様の秀家様への御心――それは、決してご当代限りのものではあるまい。この御恩と絆は、豪姫様が身罷られた後も、前田の家が続く限り、受け継がれていくべきものではないか。そして、わしのような、豪姫様に直に仕えた者の務めは、その絆の重みを、次の世代に語り伝えることではないか――そう、わしは思うたのじゃ。
「中村、息災であったか」という豪姫の台詞は、本作で最も感情の重みを込めた一言です。多くを語らせず短く留めたのは、かえって長い年月の重さを感じさせたかったためです。




