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平均点の少年は、誰の痛みも分からない  作者: くるみ


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第9話 選別

フィンは、隔離室の寝台に縛られていた。

手首と足首に革の拘束具が巻かれている。

灰色の眼は開いていたが、そこに少年の意識はなかった。

口元だけが、かすかに動いている。


「何を言ってるんだろう」


廊下の窓から室内を覗き、リナが囁いた。


「名前を呼んでいる」

「誰の?」

「分からない」


ユリウスには聞こえていた。


開けろ。


フィンは繰り返していた。

彼の声ではない。

喉の奥から、別の何かが話している。

少年の胸には、黒い術式が根を張っていた。

すでに心臓の半分を覆っている。

今なら、まだ取り除ける。

ユリウスが手を触れれば、数秒で終わる。


だが、リナがいる。

廊下には医務室の職員がいる。

室内には、患者の状態を記録する魔石も置かれていた。

ここで力を使うことはできない。


「もう戻ろう」


ユリウスは言った。


「見るだけでいいの?」

「うん」

「何か分かった?」

「先生たちに任せたほうがよさそうだ」


リナは、ほっとしたように息を吐いた。


「よかった。ユリウスが中へ入るって言い出すかと思った」

「そんな危ないことはしないよ」


2人は薬の入った箱を置き、医務室を出た。

ユリウスは振り返らなかった。


今夜、寄生術式は完成する。

その前に取り除く方法はある。

夜中に医務室へ入り、時間を止めればよい。

誰にも見られず、少年を助けられる。

けれど、その場合は寄生術式を仕掛けた者に、術式を無効化できる何者かが学院にいると知られる。

オズワルドが犯人であれば、警戒するだろう。

さらに深く姿を隠すかもしれない。

少年を助けることと、犯人を見つけること。

ユリウスは、どちらが自分にとって有益か考えた。

後者だった。



深夜、学院の鐘が鳴った。

医務室から炎が上がっていた。

ユリウスは寮の窓から、その光を見た。

予想どおりだった。

服を着替え、廊下へ出る。

ダリオも部屋から飛び出してきた。


「また火事か!」

「医務室のほうだね」

「ネネは?」

「女子寮だよ」

「リナもか」


ダリオは階段を駆け下りた。

ユリウスも、そのあとを追った。

医務室の前では、教師たちが結界を張っていた。

窓から黒い炎が噴き出している。

通常の火とは違い、雨や水の魔法では消えない。

建物の中から、叫び声が聞こえた。


「フィンがおかしい!」


医務室の職員が叫んでいる。


「身体から何かが出ている!」


教師たちが生徒を遠ざけた。

ユリウスは人の間から、建物の内部を見た。

フィンの背中から、黒い影が生えている。

人の形に似ているが、頭部には眼も口もない。

影は少年の身体を引きずり、廊下を進んでいた。

その先に、逃げ遅れた患者たちがいる。

リナもいた。

薬を届けたあと、医務室で手伝いを頼まれていたらしい。

ネネもいる。

彼女は寝台から動けない下級生を支え、出口へ向かっていた。

また学院を休みがちになっていたため、診察を受けに来ていたのだろう。


「リナ!」


ダリオが結界へ駆け寄った。


「中にいる!」

「生徒は下がれ!」


教師が腕を掴む。


「離せ! 助けに行く!」

「お前が入っても死ぬだけだ!」


ユリウスは、建物の構造を見た。

黒い影が進めば、まずリナたちへ到達する。

その後、奥の病室にいる3人の患者を襲う。

全員を助けることはできる。

時間を止め、影を解体し、建物全体の炎を消せばよい。


しかし、それほど大きな力を使えば痕跡が残る。

空間や時間へ大きく干渉すると、周囲の魔力に白い歪みが生じる。

高位の術者が調べれば、誰かが介入したことに気づく可能性はゼロではない。

目立たずに助けられる人数には限りがあった。


ユリウスは考えた。

リナは使える。

ダリオもリナを失えば、長く騒ぐだろう。

ネネは、まだ観察対象だ。

奥の病室にいる3人については、名前も知らなかった。

選ぶのに時間はかからなかった。

ユリウスは人目を避け、建物の側面へ回った。

壁の陰で時間を止める。

炎が静止した。

崩れ落ちる木片も、逃げる人々も動きを失う。


ユリウスは建物の中へ入った。

まず、リナの進路を塞いでいた梁を移動させる。

次に、ネネが支えている生徒の肺から煙を取り除く。

2人が出口へ向かう道を作る。

黒い影の中心にある術式を半分だけ解いた。

完全に消せば、痕跡が大きくなる。

教師たちの攻撃で倒せる程度まで弱めればよい。

奥の病室から、3人分の呼吸が聞こえた。

うち1人は、すでに煙を吸いすぎていた。

時間を戻せば、まだ助かる。

ユリウスは、そちらへ行かなかった。

これ以上手を加えれば、残る痕跡が増える。

必要がなかった。

ユリウスは外へ戻り、時間を動かした。


炎が揺れた。

ネネが出口へ向かって走り出す。

リナも、そのあとへ続いた。

黒い影が2人を追おうとした瞬間、学院の教師が放った光の槍が胸を貫いた。

弱くなっていた術式が崩れる。

影はフィンの身体から剥がれ落ち、黒い炎に包まれた。

教師たちは、それを自分たちの攻撃によるものだと思った。

フィンは廊下へ倒れた。

影が消えると同時に、炎も勢いを失った。


「リナ!」


ダリオが駆け寄る。

リナは顔を煤で汚していたが、大きな怪我はなかった。


「ネネは?」

「ここにいる」


ネネは、助け出した生徒のそばに膝をついていた。


「この子を先に」

「もう安全だ!」


教師が言った。

その後、奥の病室から1人の患者が運び出された。

顔には白い布が掛けられていた。

14歳の生徒だった。

煙を吸い、すでに息をしていなかった。

ユリウスは、その姿を見た。

助けることはできた。

だが、助けなかった。

死者は戻らない。

それだけだった。



フィンは助かった。

寄生術式を取り除かれたあとの記憶はなく、自分が何をしたのかも覚えていなかった。

学院は、火災のときに何者かが少年へ呪いを仕込んだのだと発表した。

亡くなった生徒の葬儀は、静かに行われた。

中央広場に新たな慰霊碑は建てられなかった。

公爵家の人間ではなかったからかもしれない。

葬儀の翌日、ネネは中庭の隅に白い花を置いた。


「知り合いだったの?」


ユリウスが尋ねた。


「ほとんど話したことはないよ」

「では、なぜ花を?」

「亡くなったから」

「知らない人でも?」

「知らない人でも」


ネネはしゃがんだまま、花の茎を整えた。


「1人が亡くなっただけで、ほかの人は助かった。先生はそう言ってた」

「間違ってはいないね」

「うん。間違ってはいない」


ネネは花を見つめた。


「でも、1人なら仕方がないと思って、悲しまなくていいわけではないでしょう?」


ユリウスは答えなかった。

ネネは立ち上がった。


「助けられなかったことと、忘れていいことは違うと思う」

「忘れても、何も変わらないよ」

「亡くなった人にとっては、そうかもしれない」

「では、誰のため?」


ネネは少し考えた。


「生きている私のためかな」

「自分のために、悲しむの?」

「そうかもしれないね」


ユリウスには理解できなかった。

悲しみは苦痛だ。

わざわざ苦痛を抱え続ける理由はない。

それでもネネは、名も知らなかった生徒のために花を置いた。

自分が見捨てた人間のために。


ユリウスは、白い花を見下ろした。

何の価値もない行為だった。

だからこそ、気になった。

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