第8話 灰色の眼
閉架書庫で会った男の名を知るまでに、4日かかった。
ユリウスが利用したのは、記録委員のセシル・ロウだった。
セシルは以前、落とした書類をユリウスに拾ってもらってから、彼と話すたびに声が少し高くなった。必要もないのに髪へ触れ、頼み事をされると断る前に笑う。好意を持つ人間に共通する反応だった。
「灰色の外套を着た技術官を探しているんだ。君なら、外部職員の記録を見つけられると思って」
ユリウスがそう言うと、セシルは頬を赤くした。
「私だから頼んでくれたの?」
「セシルは、いつも記録を誰より丁寧につけている印象があって」
セシルは仕方ないな、と言いながら花のように笑った。
数日後、セシルは外部技術官の名簿と入構記録を書き写してきた。
男の名は、オズワルド・ケイン。
学院の大結界を管理する、王宮結界局所属の外部技術官だった。大規模な術式の点検や修復が必要なときだけ、王都から呼ばれる。
公式には、演習森林の事件の翌日に派遣されたことになっている。
しかし、仮入構証は事件の4日前に発行されていた。署名した職員は、その週、病気で学院を休んでいた。
それでも、偽造と断定はできない。代理署名や記録の誤りは珍しくなかった。
ユリウスは、オズワルドを観察した。
男は昼間、壊れた結界を正確に修復し、質問する教師には丁寧に答えた。怯える下級生が作業区画へ入れば、怒鳴らずに外へ送り返した。公金を横流しする様子も、怪しい人物と接触する様子もない。
深淵の術式を扱う犯人にしては、あまりに模範的だった。
次にユリウスは、剣術部の下級生ノアへ声をかけた。ノアはダリオを英雄だと思い、彼に名前を覚えてもらうことを望んでいた。
「ダリオが、ノアはよく周りを見ていると言っていたよ」
「先輩が?」
「森の事件の前、旧礼拝堂の近くで誰かを見なかった?例えば灰色の外套の男とか」
ノアは役に立ちたい一心で、記憶を何度も探った。灰色の外套の男を見たこと、靴が黒い泥で汚れていたこと、礼拝堂の方向から来たことを話した。
ただし、遠目であり、顔は見ていない。ダリオに褒められたい気持ちが、記憶を都合よく作り替えている可能性もあった。
手掛かりは増えた。証拠はなかった。
ユリウスは、オズワルドを観察し続けることにした。
その必要がなくなるまで。
*
異変は、火災で救出された少年から始まった。
名はフィン。
下級学年の生徒だった。
火災のあと、しばらく医務室で療養していたが、身体に大きな問題はないと判断され、寮へ戻っていた。
それから、夜中に歩き回るようになった。
眠ったまま廊下へ出て、東棟の焼け跡を見つめている。
声をかけても反応しない。
朝になると、何も覚えていなかった。
「また眠れてないの?」
中庭で、ネネがフィンへ尋ねていた。
少年は俯いたまま頷いた。
「夢を見るんです」
「どんな夢?」
「火の中に誰かがいるんです。僕を呼んでる」
「怖いね」
ネネは少年と同じ高さになるよう、膝を曲げた。
「先生には話した?」
「言ったけど、火事を思い出してるだけだって」
「そうかもしれない。でも、怖いときは1人でいないほうがいいよ」
ネネは自分の首元から、小さな布袋を外した。
「これ、持っていて」
「なんですか?」
「眠るときのお守り。私はあまり効かなかったけど」
ネネは笑った。
フィンは両手で袋を受け取った。
「ありがとうございます」
ユリウスは、少し離れた場所から2人を見ていた。
少年の瞳には、灰色の膜が浮かんでいる。
人間のものではない魔力が、眼球の奥で動いていた。
火災の炎に混じっていた何かが、少年の中へ入り込んでいる。
おそらく、寄生型の術式だった。
少年を殺すためだけのものではない。
育ちきれば、身体を器として別の存在を呼び込む。
深淵種の召喚陣と同じ系統の魔力だった。
術式の外縁には、二重の円と欠けた三角形が刻まれている。閉架書庫で見たオズワルドの工具箱にも、同じ形の管理印があった。
結界技術官の印が、修復箇所へ残ること自体は不自然ではない。犯人の痕跡なのか、誰かが彼へ罪を着せるために使ったのかは、まだ判断できなかった。
「何を見ているの?」
リナが隣へ来た。
「フィンだよ」
「かわいそうだよね。火事のあと、ずっと具合が悪いみたい」
「そうだね」
「ネネ、毎日話しかけてるんだよ」
「どうして?」
「助けた子だから、気になるんじゃない?」
「助けたあとは、先生に任せればいいのに」
リナはユリウスを見た。
「ユリウスって、ときどき変なことを言うね」
「そうかな」
「助けたからこそ、そのあとも心配になるんだよ」
ユリウスはフィンを見た。
ネネは少年の話を聞き続けている。
自分には関係のない子供だった。
命を助けた時点で、役割は終わっている。
それでもネネは、時間を使い続けていた。
なぜそこまでするのか、不思議だった。
*
その夜、フィンが同室の生徒を襲った。
突然目を覚まし、枕元にあった燭台で殴りかかったのだという。
幸い、相手は腕に怪我をしただけで済んだ。
フィンは医務室の隔離室へ移された。
翌朝になると、本人は何も覚えていなかった。
瞳を覆う灰色の膜は、前日より濃くなっている。
寄生術式が完成に近づいている。
ユリウスは、その日の放課後にリナへ声をかけた。
「医務室へ入る方法はある?」
「また危ないことをするつもり?」
リナは不安そうに眉を寄せた。
「フィンのことを調べたい」
「フィン?」
「火災のあとから、おかしいだろう?」
「先生たちも調べてるよ」
「先生たちは、ただの心の病だと思っている」
「違うの?」
「分からない。だから確かめたい」
リナは迷っていた。
閉架書庫へ無断で入ったことを、まだ気にしているのだろう。
ユリウスは声を少し落とした。
「リナにしか頼めないんだ」
「私に?」
「君の母親は、医務室へ薬を納めているんだろう?」
リナの家が薬舗を営んでいることは、以前から知っていた。
学院の医務室にも、定期的に薬を納めている。
「薬を届けるときなら、奥まで入れるかもしれない」
「でも、フィンの部屋は隔離されてるよ」
「近くまで行ければいい」
「何をするの?」
「見るだけだよ」
それも完全な嘘ではなかった。
状態を見たうえで、どう処理するかを決める。
「危ないことはしない?」
「しないよ」
ユリウスは微笑んだ。
「僕を信じてくれる?」
リナは視線を逸らした。
頬が赤くなっている。
「ずるいよ。そんな聞き方」
「嫌なら断っていい」
「断れないって分かってるでしょう?」
ユリウスは、首を傾げてみせた。
リナはしばらく黙っていた。
「明日の夕方、薬を届けることになってる」
「一緒に行ってもいい?」
「荷物を運ぶのを手伝ってくれるなら」
「もちろん」
リナは小さく笑った。
ユリウスも笑った。
好意というものは便利だった。
相手に命令しなくても、自分から望んだ行動を取ってくれる。




