第7話 鍵
演習森林に現れた深淵種について、学院は調査を続けていた。
召喚陣を仕掛けた者は、まだ見つかっていない。
学院の外から侵入した形跡はなく、森を覆う結界にも異常はなかった。
つまり、召喚陣を設置したのは、学院の内部にいる誰かである可能性が高い。
その事実は、生徒たちには公表されていなかった。
ユリウスにとって、犯人を見つけることは善意ではなかった。学院の結界を破れる者は、彼が自分の魔力紋を消す計画を妨げるかもしれない。知らない脅威を残すつもりはなかった。
だが、ユリウスは教師たちの会話から、おおよその事情を把握していた。
授業中、教師が廊下で話している声を拾う。
書類を運ぶ職員の手元を見る。
学院長室へ入る者の顔を覚える。
それだけでも、断片は集まった。
問題は、召喚陣そのものの記録だった。
学院の図書館には、一般の生徒が入れる書庫のほかに、教師の許可がなければ閲覧できない閉架書庫がある。
深淵種に関する資料は、そこに保管されているはずだった。
「リナは、図書委員だったね」
放課後、ユリウスは何気ない口調で尋ねた。
「うん。今日は当番じゃないけど」
「閉架書庫へ入ったことはある?」
リナが瞬きをした。
「ないよ。あそこは先生か、上級司書しか入れないから」
「鍵はどこにあるの?」
「司書室だと思うけど、どうして?」
ユリウスは少し迷うような表情を作った。
実際には、答えを決めていた。
「森で見た召喚陣について、調べたいんだ」
「召喚陣?」
「たまたま見たのを思い出したんだ。また同じことが起きたら、今度は誰かを助けられるかもしれない」
リナの表情が変わった。
予想どおりだった。
「ユリウスは、あのとき何もできなかったことを気にしてるの?」
「少しだけ」
ユリウスは視線を落とした。
「エドガーが死んで、ダリオも大怪我をした。僕は、倒れていた君たちのそばにいることしかできなかった」
嘘ではない。
ユリウスはエドガーを助けず、ダリオを密かに助けた。
表面上は、倒れた者たちのそばにいただけだった。
「ユリウスのせいじゃないよ」
「分かってる。でも、知っていれば、次は違うかもしれない」
リナは黙った。
唇をわずかに噛んでいる。
ユリウスは、急かさなかった。
人は、自分で決めたと思ったことには責任を感じる。
命令された行動よりも、長く秘密を守る。
「閉架書庫の鍵、借りられるかもしれない」
やがて、リナが言った。
「本の整理を任されることがあるの。先生に頼めば、司書室には入れると思う」
「無理をしなくていいよ」
「無理じゃないよ」
「見つかったら、リナが処分される」
「ユリウスも一緒でしょう?」
「そうだな。僕が頼んだと話せば、君の処分は軽くなるかもしれない」
「そんなこと言わないで」
リナは少し怒ったような顔をした。
「一緒にやるなら、私も自分で決めたことだから」
ユリウスは微笑んだ。
「ありがとう。リナなら、信じられると思った」
その言葉を聞いて、リナの頬が赤くなる。
ユリウスは、それを見て、相手の喜ぶ笑顔を返した。
*
2日後の夕方、リナは閉架書庫の鍵を持ってきた。
夕食前の図書館には、ほとんど人がいない。
窓の外では雪が降り始めていた。
「30分だけだよ」
リナは小声で言った。
「司書の先生が食事へ行ってる間に戻さないと」
「分かった」
2人は閉架書庫へ入った。
古い紙と革の臭いがした。
窓はなく、壁に取りつけられた魔石の光だけが、棚の間を照らしている。
「深淵種の記録は、たぶん奥」
リナが目録を見ながら言った。
「第3分類、外界生物……。あった」
棚には、鎖を巻かれた本が並んでいた。
ユリウスは目当ての1冊を抜き取った。
題名は、『深層界との接触および遮断』。
頁をめくる。
演習森林で見た召喚陣と、同じ構造の図があった。
深淵種を呼び出すには、大きな魔力が必要になる。
だが、学院の結界内では、外部からの魔力供給は遮断される。
召喚を成功させるためには、結界の一部を内部から書き換えなければならない。
学院の防衛術式を知る者。
あるいは、術式へ触れられる立場の者。
犯人は、学院の教師か職員である可能性が高い。
「何か分かった?」
リナが背後から頁を覗き込んだ。
「少しだけ」
ユリウスは本を閉じた。
「持ち出せないかな」
「無理だよ。閉架書庫の本は、全部に持ち出し防止の術式があるから」
「では、必要な頁だけ覚えるよ」
「覚えられるの?」
「得意なんだ」
ユリウスは再び本を開いた。
文字を目で追う。
正確には、覚える必要はなかった。
頁に刻まれた情報を、そのまま自分の記憶へ写すことができる。
だが、それを説明する必要はない。
書庫の外で、扉が閉まる音がした。
リナの肩が跳ねた。
「先生が戻ってきたのかも」
足音が近づいてくる。
ユリウスは書庫内を見回した。
隠れられる場所はない。
時間を止めるのは簡単だった。
だが、リナの目の前では使えない。
「どうしよう」
「僕が話すよ」
「でも」
「大丈夫」
鍵が回る音がした。
扉が開く。
立っていたのは、司書ではなかった。
灰色の外套を着た男だった。
学院の教師ではない。胸には学院職員の徽章がついているが、今期から使われている銀縁ではなく、2年前の旧式だった。
右手には真鍮の鍵を持っている。閉架書庫の正規の管理者が使う銀色の親鍵ではない。
男はユリウスたちを見た。
「ここで何をしている」
リナの顔から血の気が引いた。
「すみません。私が――」
「調べ物を頼んだのは僕です」
ユリウスはリナの前へ出た。
「演習森林の事件について知りたくて、勝手に入りました」
男の視線がユリウスへ移る。
「森林の事件?」
「深淵種についてです」
男の瞳が、わずかに細くなった。
ほんの一瞬だった。
だが、ユリウスには十分だった。
「生徒が知る必要はない」
男は冷たく言った。
「本を戻せ。鍵も元の場所へ返せ。ここで見たものは忘れろ」
「学院へ報告しないんですか」
ユリウスが尋ねると、男の指が一瞬だけ止まった。
「子供の過ちに、いちいち処分は必要ない」
「ありがとうございます」
ユリウスは素直に本を棚へ戻した。
男の横を通り過ぎる。
外套の裾には、演習森林の召喚陣の周囲に残っていたものと同じ、油を含んだ黒土がついていた。革手袋の手首には、深淵術式に触れた者へ残る細い格子状の火傷が覗いている。
それでも、どちらも結界の修復作業でついたと説明できるものだった。
書庫を出たあと、リナは何度も謝った。
「ごめんね。見つかっちゃって」
「リナのせいではないよ」
「あの人、誰だろう。見たことないよね」
「学院の職員みたいだけど、正規の司書ではないね」
「怖い感じだった。でも、見逃してくれてよかった」
「そうだね」
ユリウスは微笑んだ。
「今日のことは、誰にも話さないでくれる?」
「もちろん」
「ダリオにも、ネネにも?」
リナは少し迷った。
それから頷いた。
「ユリウスがそう言うなら」
扱いやすい。
ユリウスは、そう思った。
正規の職員なら、無断侵入を報告し、鍵を没収するはずだった。男は自分たちを見逃したのではない。報告を残せなかったのだ。
男にも、閉架書庫にいたことを知られたくない理由がある。




