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平均点の少年は、誰の痛みも分からない  作者: くるみ


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第5話 火の夜

事件は、冬の初めに起きた。

その日は朝から風が強かった。

学院の尖塔を雲が低く流れ、窓枠が何度も鳴った。夕刻には細い雨が降り始め、校舎の壁を濡らしていた。


夜半、ユリウスは鐘の音で目を覚ました。

火災を知らせる鐘だった。

寮の廊下に出ると、すでに生徒たちが部屋から飛び出していた。


「東棟だ!」

「下級生の寮だぞ!」


窓の外が赤く染まっていた。

雨の中で、炎が屋根を舐めている。

ユリウスは人の流れに従い、寮の外へ出た。

教師たちは消火魔法を使っていたが、炎は衰えなかった。

通常の火ではない。

建物に刻まれた防火術式を侵食する、魔力を帯びた炎だった。


「誰か、中に残っているのか?」


ダリオが近くの教師へ尋ねた。


「人数を確認している! お前たちは下がっていろ!」


生徒たちは雨の中で身を寄せ合っていた。

泣いている者もいた。

教師が名簿を読み上げる。

返事が重なる。

やがて、1人足りないことが分かった。

東棟の最上階に部屋を持つ、男子生徒だった。


「寝室にいない!」


捜索に入った教師が窓から叫んだ。


「どこへ行った!」


ユリウスは周囲を見た。

燃えている建物の裏手に、小さな温室があった。

下級生が飼育している魔法生物の小屋が併設されている。

少年は、逃げる途中で生き物を助けに行ったのかもしれない。

合理的ではない。

自分が死ねば、飼育していた生物もいずれ誰かが引き取る。

ユリウスは教師へ伝えようとした。

そのとき、人の群れから誰かが抜け出した。

小柄な背中だった。


「ネネ?」


呼びかけたときには、彼女はすでに燃える東棟の陰へ消えていた。

ユリウスは足を止めた。

ネネが走るところを、初めて見た。

速くはなかった。

何度か足をもつれさせながら、温室へ向かっている。

火は建物の壁を伝い、裏手へ回り始めていた。

放っておけば、数分で温室にも燃え移る。

ネネが中へ入った。

ユリウスはしばらく、その入口を見ていた。

彼女が何をしようとしているのかは分かる。

少年を探している。

だが、理解はできなかった。

教師へ知らせればよい。

自分で入る必要はない。

ネネには火を消す力も、崩れる建物を支える力もない。

行けば、自分まで死ぬ可能性が高い。

なぜ、そんな選択をするのだろう。

興味が湧いた。

ユリウスは、人目のない場所まで移動した。

炎と煙に隠れ、周囲から姿が見えなくなる。

そこで時間を止めた。


雨粒が空中に留まった。

炎も、風に煽られた形のまま動きを失う。

ユリウスは燃える建物の中へ入った。

止まった火の間を歩く。

温室の奥に、ネネがいた。

倒れた棚の下から、少年を引き出そうとしている。

少年は意識を失っていた。

ネネの腕には力がない。

棚はほとんど動いていなかった。

停止した時間の中で、ネネは動かない。


ユリウスは棚へ触れた。

別の場所へ移す。

少年の肺から煙を取り除き、火傷を死なない程度まで戻した。

ネネの手には触れなかった。

彼女の傷まで消せば、不自然になる。

少年を、ネネが持ち上げられる位置へ置く。

崩れかけた梁の落下位置をずらし、2人が外へ出るまでの道を作った。

それから、ユリウスは元の場所へ戻った。

時間を動かす。


雨が落ちた。

炎が再び揺れた。

ほどなくして、温室の入口からネネが現れた。

少年の腕を肩へ回し、身体を引きずっている。


「誰か!」


ネネが叫んだ。


「ここにいる!」


教師たちが駆け寄った。

少年を受け取り、ネネも支える。

彼女は数歩進んだところで膝をついた。

顔は煤で黒く汚れている。

手から血が滴っていた。


「どうして中へ入った!」


教師が叱るように言った。


「この子が、温室へ行くのを見たから」

「だからといって、お前まで死んだらどうする!」


ネネは咳き込んだ。

それでも、少年が運ばれていく方向を見ていた。

ネネは目を強く瞑った。



翌日、ユリウスは医務室へ向かった。

ネネは窓際の寝台にいた。

両手には包帯が巻かれている。


「起きていたんだ」


ユリウスが言うと、ネネは顔を上げた。


「ユリウス」

「具合はどう?」

「少し喉が痛いだけ」

「手も痛そうだね」

「うん」


ネネは包帯を見た。


「でも、あの子は助かったから」

「どうして中へ入ったの?」


ユリウスは尋ねた。

ネネは少し考えた。


「見つけたから」

「教師を呼べばよかった」

「呼びに戻っている間に、火が広がると思ったの」

「君が死ぬ可能性もあった」

「そうかもしれない」

「怖くなかった?」

「怖かったよ」


ネネは即座に答えた。


「では、なぜ入ったの?」


問いを重ねると、ネネは困ったように笑った。


「私が見つけたのに、何もしないであの子が死んだら、きっと後悔するから」

「自分が死ねば、後悔もできないよ」

「そうだね」

「ネネは優しいね」

「ユリウスは、そう思う?」

「うん」


ネネはそれ以上なにも言わなかった。

窓の外へ視線を向ける。

昨夜の雨は上がり、薄い光が中庭へ落ちていた。


「自分だけが無事でも、誰かを見捨てたことをずっと覚えているなら、私は幸せではいられないと思っているんだ」


ユリウスには意味が分からなかった。


「知らない子だったんだろう?」

「うん」

「君が責任を感じる必要はない」

「必要があるかどうかではなくて、嫌だったの」

「何が?」

「見捨てることが」


ネネは、自分の包帯を見つめた。


「弱くても、できることが少なくても、何もしない理由にはならないと思うから」


ユリウスは黙った。

理解できなかった。

エドガーを助けなかった自分とは、正反対の考えだった。

自分には助ける力があり、助けなかった。

ネネには助ける力がなく、それでも助けようとした。

それは愚かな行為であるはずだった。

だが、なぜか目を離しがたかった。


「本当に、お人よしなんだね」


ユリウスが言うと、ネネは小さく笑った。


「そうかもしれない」

「いつか死んじゃうよ」

「死なないように気をつける」


ネネはまた笑った。

ユリウスは、その顔をしばらく見ていた。

何を考えているのか知りたかった。

どこまでなら、自分を犠牲にできるのか。

知らない人間を助けるために、どこまで損を受け入れられるのか。

彼女は、いつか限界に達するのだろうか。

それとも、最後まで変わらないのだろうか。

ユリウスは確かめてみたいと思った。

理解できないものを、もう少し近くで見たい。

ただ、そう思った。

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