第41話 王女
王宮の謁見の間には、誰もいなかった。
高い天井から冬の光が落ち、磨かれた床へ細長い窓の形を映している。
玉座の前に、1人の少女が現れた。
腰まで流れる金色の髪。
光を含んだ翡翠の瞳。
白と青の衣装の上に、王家の紋章を銀糸で縫った外套をまとっている。黒髪の小柄な生徒とは、背丈以外の何もかもが違って見えた。
息を呑むほど美しかった。以前、冬の光の中で見た横顔の輪郭だけが、確かに学院のネネと重なっていた。
それでも、ユリウスは彼女だと分かった。
声を聞く前に、指先を重ねる癖と、相手の答えを待つときの静かな立ち方で気づいた。
「来てくれて、ありがとう」
ネネが言った。
声だけは、学院にいた少女と同じだった。
「王女だったんだね」
「うん」
「本当の名前は?」
「ネネリア」
彼女は少しだけ笑った。
「幼いころから、近しい人にはネネと呼ばれているの。学院で使った名前も、すべてが嘘だったわけではないよ」
「顔は、すべて違った」
「王家の擬装術なの」
ネネは髪へ触れた。
「髪や瞳の色を変えるだけではないの。見る人の認識へ、最初からそういう人間だったという情報を重ねる。魔力の流れも、体温も、呼吸の乱れも偽れる」
「僕にも分からなかった」
「姿を隠すことに関してだけは、私のほうが上手だったみたい」
ユリウスは、目の前の金髪と翡翠の瞳を見た。
彼は魔力の偽装を見抜くことに慣れている。だが、ネネの術は魔力を隠すのではなく、観察する側の認識そのものへ溶け込んでいた。疑うための綻びさえ与えなかった。
「病気も?」
「全部、嘘」
「熱も、息切れも」
「擬装の一部。休んだ日は、王宮の会議や視察、白塔についての調査へ戻っていた」
「どうして学院に?」
「王位を継ぐ前に、王宮の外を知りたかった。それから、学院と王宮の一部で不正が行われているという情報があった。誰が関わっているのか、身分を隠して調べていたの」
「だから、弱く見せた」
「警戒されないために」
「能力も?」
ネネの表情が変わった。
「気づいていたんだね」
「王宮の審問室で、止まった時間の中から僕を見ていた」
ネネは否定しなかった。
「王家の魔法は、この国の地脈とつながっているの。時間や空間へ強い干渉が起きると、身体は動かなくても意識までは切れない」
「ということは、僕の能力を最初に見たのは、王宮ではないね」
ネネの表情がわずかに変わった。
「森の実習でも、意識はあった」
「僕が脈を確認した」
「呼吸も、脈も、瞼も、意識を失ったように整えた。あなたに見られていると分かっていたから」
ユリウスは、魔獣の前で震えていた小さな背中を思い出した。
「あのとき、リナと僕の前へ出たのも演技?」
「怖かったのは本当。守ろうとしたのも本当だよ」
ネネは翡翠の瞳を伏せた。
「王家の力を解けば、私が学院へ潜んでいることが敵へ伝わる。それでも、あのままなら使うつもりだった。でも、私の小さな結界が壊され、身体を打って動けなくなった直後に、世界が止まった」
「それで、僕を見た」
「魔獣の核を動かしたことも、エドガーを助けなかったことも、ダリオたちの傷だけを戻したことも」
自分だけが観察する側にいると思っていた。
だが、ネネは最初からユリウスを見ていた。彼より巧みに正体を隠しながら。
「どうして言わなかったの?」
「あなたが何者か分からなかったから」
「王女なら、捕らえることもできたでしょう?」
「できなかったと思う。力の問題だけではなく、あなたが王国の敵なのか、ただ人と違うだけなのか、判断できなかった」
「だから近づいた?」
「最初は、観察するためだった」
「そのあとは?」
ネネは、少しだけ目を伏せた。
「あなたが何を選ぶのか知りたいと思った。やがて、観察しているだけではなくなった。友達になった」
それ以上の言葉はなかった。
だが、ユリウスには続きがあると分かった。
「王宮で、僕が何をしたか知っている?」
「王冠炉を書き換えたこと?」
「それだけではない」
「17人が亡くなり、30人が魔力を失った」
「僕が選んだ」
「分かっている」
「セラも助けられた」
ネネの目が揺れた。
「エマも」
「もう言わなくていい」
「アレンも助けられた」
「ユリウス」
「全部、助けられた」
声は平らだった。
罪を告白しているという感覚はない。
事実を並べているだけだった。
「でも、助けなかった」
「どうして、今それを言うの?」
「君は全部知りたいんでしょう?」
「知りたい」
ネネは答えた。
「でも、聞きたいわけではない」
「違うの?」
「知ることと、傷つかないことは違うよ」
ユリウスは黙った。
ネネは玉座の横に置かれた細身の剣へ手を伸ばした。
鞘には王家の紋章が刻まれている。
「王剣です」
「僕を殺すため?」
「まだ決めていない」
「今の君は、僕を殺せないと思う」
ネネの指が止まった。
「力が足りないから?」
「違う」
ユリウスは彼女を見た。
「君は、誰も見捨てられないから」
「あなたは、誰でも見捨てられる」
「君以外なら」
ネネの表情が歪んだ。
喜びではなかった。
「それを、愛情だと思っているの?」
「分からない」
「また、その答え」
「でも、君がいなくなることは怖い」
ユリウスは言った。
「君が僕を嫌うことも、離れていくことも、ほかのこととは違う」
「リナが離れたときには?」
「少し不便だった」
ネネは目を閉じた。
「そう」
「君なら違う」
ネネは王剣を取った。
抜きはしない。
両手で鞘を握り、胸元へ引き寄せる。
「国は、私1人のものじゃないの」
「知っている」
「あなたが私だけを大切にするなら、そのために国民を犠牲にするでしょう」
「必要なら」
「それを許すことはできない」
「でも、僕を殺すこともできない」
ネネの目に涙が浮かんだ。
「そうだよ」
王女ではなく、学院にいた少女の声になった。
「だから、どうすればいいのか分からない」
ユリウスは彼女へ近づこうとした。
ネネは退かなかった。
だが、王剣を握る指へ力が入った。
ユリウスは足を止めた。
「僕を裁くの?」
「裁かないといけない」
「誰が?」
「私が」
「君が望むなら、ここにいるよ」
「逃げないの?」
「君がいるから」
ネネは唇を噛んだ。
「それは、従うということ?」
「君の命令なら」
「私以外の人の命令は?」
「聞く理由がない」
「それでは駄目なの」
「どうして?」
ネネは目を強く瞑って、そして、ゆっくり目を開いた。
ユリウスは、その翡翠の目を以前に見たことがある、と思った。
「国は、私が間違えないことを前提にできないから」
ユリウスには、その考え方が理解できなかった。
ネネが正しければ、それでよい。
間違えたとしても、国側をネネに合わせればよい。
「明日、審問を開きます」
ネネが言った。
「公開ではないわ。でも、学院長、王国評議会、被害者の代表が出席する」
「リナも?」
「戻ってもらった」
「どうして?」
ネネの声に、わずかな強さが戻った。
「何をされたのか、話すため」
「僕は何をすればいい?」
「嘘をつかないで」
「分かった」
「逃げないで」
「君が望むなら」
ネネは悲しそうに笑った。
「そういう答えしか、できないんだね」




