第36話 言わなかったこと
ネネは、その日の昼休み、学生食堂のいつもの卓に現れなかった。
教室には来ていた。
朝の挨拶もした。授業中に指名されれば、いつもの小さな声で答えていた。
ただ、鐘が鳴ると弁当を持って教室を出ていった。
「どこへ行くんだ?」
ダリオが尋ねた。
「今日は、少し1人で食べたいの」
「具合が悪いのか?」
「そうではないよ」
ネネは笑った。
笑顔は普段と変わらない。
それでも、ユリウスを見なかった。
扉が閉じる。
ユリウスは本を開いた。
文字へ目を落とす。
数行を読んだ。
内容は理解できている。
それでも、頁をめくる気にならなかった。
*
ネネが声をかけてきたのは、放課後だった。
「少し、話せる?」
「もちろん」
連れていかれたのは、使われていない音楽室だった。
窓の外では、雲の隙間から細い光が差している。教室の隅には、布を掛けられた古い楽器が並んでいた。
ネネは扉を閉めた。
ユリウスと向かい合う。
「リナから聞いたよ」
「何を?」
「全部ではないと思う」
ネネは自分の指先を見た。
「ユリウスが、危険だと知りながらリナに荷物を運ばせたこと。連れ去られるのを見ていたのに、すぐには助けなかったこと」
「そうだね」
ユリウスは否定しなかった。
「本当なの?」
「うん」
ネネが顔を上げる。
否定されると思っていたのかもしれない。
「どうして?」
「命令を出した人間を知る必要があった」
「そのために、リナを使ったの?」
「リナなら、相手も警戒しないと思った」
「危険だとは伝えなかった」
「伝えれば、行かなかった可能性がある」
「だから、言わなかったの?」
「うん」
ネネは何も言わなかった。
窓の外で、鳥が屋根から飛び立った。羽音が遠ざかり、再び静かになる。
「リナが死んだら、どうするつもりだった?」
「死なせるつもりはなかった」
「でも、絶対ではなかったでしょう?」
「絶対に安全な方法はないよ」
「そういう話ではないと思う」
ネネの声は小さかった。
怒っているとき、彼女は声を荒らげない。
ユリウスは、それを知っていた。
「リナは、ユリウスを信じていた」
「知っている」
「好きだった」
「それも知っていた」
「知っていて、利用したの?」
「そうだよ」
ネネの表情が変わった。
恐怖ではない。
嫌悪とも違う。
何かを理解しようとして、理解できずにいる顔だった。
「ユリウスは、悪いと思わないの?」
「結果として、暗部の拠点が分かった。リナも生きている」
「結果がよければ、何をしてもいいの?」
「何をしてもいいとは言っていないよ」
「では、どこまでならいいと思っているの?」
ユリウスは考えた。
相手を殺す。
傷つける。
罪を着せる。
信頼を利用する。
必要なら、どれも選択肢に入る。
「目的による」
ネネは目を伏せた。
「私にも、同じことをする?」
ユリウスは答えようとした。
必要なら。
状況による。
そう答えるのが自然だった。
「しない」
口から出たのは、別の言葉だった。
「どうして?」
ユリウスには答えられなかった。
ネネは、自分だけが利用されないことを喜んでいない。
ネネは窓の外へ顔を向けた。
「ユリウスが、普通の人と少し違うことには気づいていた」
「いつから?」
「分からない」
ネネは答えた。
「エドガーが死んだときも、冬至祭のときも、鐘楼のときも、ユリウスはいつも落ち着いていた」
「表情に出にくいだけだよ」
「そうかもしれないと思ってた」
ネネは振り返った。
「でも、リナのことを聞いて、違うのかもしれないと思った」
「僕が怖い?」
その質問を口にするまでに、わずかな間があった。
ユリウスにとって、人から恐れられることは問題だった。
秘密を知られれば、排除される。
父がそうだった。
学院や王宮も同じだろう。
だが、今はそれとは違う答えを求めていた。
「少し」
ネネは正直に答えた。
ユリウスの胸の奥が冷えた。
痛みではない。
呼吸も、脈拍も変わらない。
それでも、聞きたくなかった言葉だと分かった。
「でも」
ネネは続けた。
「怖いから、すぐに嫌いになるわけではないよ」
「どうして?」
「ユリウスに助けてもらったことも、話したことも、全部なくなるわけではないから」
「僕が君を助けた理由が、君の思っているものと違っても?」
「違うの?」
「分からない」
ユリウスはそう答えた。
ネネは少しだけ笑った。
悲しそうな笑い方だった。
「そればかりだね」
「本当に分からないんだ」
「では、考えて」
「何を?」
「自分が、どうして私を助けたのか」
ネネは扉へ向かった。
「分かったら、教えて」
「それまで、話さない?」
「そうは言ってないよ」
「昼食は?」
ネネが足を止めた。
振り返らないまま答える。
「少し考えさせて」
扉が閉じた。
ユリウスは、誰もいなくなった音楽室に残された。
考える必要はないと思っていた。
感情に名前をつけても、現実は変わらない。
だが、ネネは答えを求めている。
答えがなければ、彼女は離れるかもしれない。
ユリウスは初めて、自分の中にあるものを知る必要を感じた。
*
自室へ戻ると、机の上に黒い封筒が置かれていた。
学院の警戒術式は破られていない。
扉も窓も閉まっている。
封筒には王宮結界局の印が押されていた。
中の紙には、短い文章が記されている。
――白塔原簿と北棟の記録を渡せ。
その下に、別の一文があった。
――病弱な少女の居場所は、こちらでも調べられる。
ユリウスは紙を見た。
炎を使わずに、文字を消す。
紙が白く戻った。
ヴァルターたちは、まだネネの実家を特定できていない。
だが、学院へ戻ったことは知っている。
次に彼女が休むのを待つ必要はない。
学院内で連れ去る可能性もある。
ユリウスは、机の引き出しから白塔原簿を取り出した。
関係者の名は、すべて覚えている。
白塔原簿そのものは、もう必要ない。
それでも相手は欲しがっている。
ならば、使い道はあった。




