第26話 差出人のない手紙
差出人のない手紙は、ユリウスの机の上に置かれていた。
教室には、まだ誰も来ていない。
窓の外では、夜のうちに降った雪が中庭を覆っていた。朝日を受けた地面は白く眩しく、建物の影だけが青黒く伸びている。
手紙を置いた者は、学院の鍵か、それに代わる手段を持っている。
紙には、ごく薄い薬品の臭いが残っている。
学院の治療棟で、器具を消毒するときに使われる薬品だった。紙の端には、魔力を感知するための粉末も付着している。
手紙を受け取った者が魔法を使えば、差出人へ伝わる仕組みらしい。
ユリウスは紙を机の上へ戻した。
燃やさない。
術式も壊さない。
ただ読んだだけなら、相手へ送られる情報は何もない。
「早いな」
教室の扉が開いた。
ダリオが入ってくる。
朝の鍛錬を終えたばかりらしく、赤い髪が汗で濡れていた。
「今日は寝坊しなかったんだね」
「お前は俺を何だと思ってる」
「朝に弱い人」
「今日は剣術の試験があるんだよ」
ダリオは自分の席へ鞄を置いた。
それから、ユリウスの机にある封筒を見る。
「手紙か?」
「うん」
「誰から?」
「名前がない」
「恋文じゃないのか」
「恋文なら、もう少し長く書くんじゃないかな」
「俺が知るか」
ダリオは封筒へ手を伸ばした。
ユリウスは、その前に手紙を折りたたんだ。
「見せられない内容なのか?」
「そういうわけではないよ」
「じゃあ見せろ」
「嫌だよ」
ユリウスが笑うと、ダリオは眉を寄せた。
「お前が嫌だって言うの、珍しいな」
「そうかな」
「大抵は、どうでもいいって顔をするだろ」
ユリウスは手紙を制服の内側へしまった。
「知らない人からの手紙を、勝手に人へ見せるのはよくないと思っただけだよ」
「差出人が分からないんだろ」
「それでも、僕に宛てられたものだから」
ダリオは納得していない顔をしていた。
だが、リナとネネが教室へ入ってきたため、それ以上は尋ねなかった。
「おはよう」
リナが明るい声で言う。
「おはよう、リナ。ネネも」
「おはよう」
ネネは小さく頭を下げた。
以前より顔色はよくなっている。
それでも、階段を上ってきただけで、わずかに呼吸が乱れていた。
「具合は大丈夫?」
ユリウスが尋ねる。
「うん。今日は平気」
「昨日もそう言って、午後の授業を休んだよね」
「昨日は少しだけ」
「少し、が多いんじゃないかな」
ネネは困ったように笑った。
「気をつけます」
その横で、ダリオが呆れた顔をする。
「お前、ネネの体調にはうるさいな」
「よく休むからだよ」
「俺が怪我しても、そんなに聞かないだろ」
「ダリオは怪我をしていても走るから、聞くだけ無駄なんだ」
「ひどくないか?」
リナが笑った。
ネネも笑った。
ユリウスは、いつものように少し遅れて口元を緩めた。
制服の内側には、手紙が入っている。
グレゴール・エイムズは、自分を疑っている。
どこまで知っているのか。
ユリウスは、それを確かめる必要があった。
*
手紙の裏側には、肉眼では見えない術式が刻まれていた。
放課後、人のいない実験室で光へ透かすと、文字が浮かび上がった。
旧薬草園。
午後11時。
1人で来い。
ユリウスは、指定された時刻に薬草園へ向かった。
学院西部にある旧薬草園は、冬の間は閉鎖されている。
温室の硝子は何枚も割れ、内部には枯れた蔓が垂れ下がっていた。雪が割れた窓から吹き込み、石床の上に細く積もっている。
「来ると思っていた」
奥から声がした。
グレゴール・エイムズが、枯れた薬草棚の前に立っていた。
白塔で見たときと同じ白衣ではない。
黒い外套を身につけ、顔の半分を布で隠している。
「手紙を読んだだけで、来ない可能性もありました」
ユリウスは答えた。
「その場合は、別の方法を取った」
「別の方法?」
「君の友人に手紙を送る」
グレゴールは薄く笑った。
「赤毛の少年。薬屋の娘。それから、病弱な少女」
ユリウスは表情を変えなかった。
「友人が多いと、弱点も増える」
「彼らが僕の弱点だと?」
「少なくとも、白塔ではそう見えた」
グレゴールはユリウスへ近づいた。
「塔が崩れる直前、重傷だった少年の状態が突然安定した。崩落後には、3人の生徒が全員生きて外へ出ていた」
「運がよかったんでしょう」
「冬至祭でも同じだ」
グレゴールの声が低くなる。
「門から伸びた腕が、病弱な少女を潰す直前、落下地点がずれた。彼女の傷も、見た目ほど出血していなかった」
「教師の魔法でしょう」
「教師たちは、門を閉じることに集中していた」
「では、どうしてでしょうね」
ユリウスは微笑んだ。
「世の中には、不思議なことがあるものです」
グレゴールは、しばらくユリウスの顔を見ていた。
「君は怖くないのか」
「何がですか」
「私が、学院へ話すことが」
「何を話すんです?」
「君が異常な力を隠している」
「証拠は?」
「ない」
グレゴールは即答した。
「だから、こうして話をしている」
温室の外で風が鳴った。
割れた硝子が、細かく震える。
「私は君を告発したいわけではない」
「では、何が目的ですか」
「協力だ」
グレゴールは懐から、小さな金属板を取り出した。
白い塔の印が刻まれている。
「王都の大結界は、冬至祭の事件で大きく損傷した。今も完全には修復されていない。このままでは、春までに外部からの侵食が始まる」
「だから、生徒から魔力を抜いた?」
「ほかに方法がなかった」
ネネなら、別の方法を探すと言うだろうな。
そう思ってから、ユリウスは少し意外に思った。
この場にいないネネの答えを、自然に思い浮かべていた。
グレゴールは笑った。
「君は、必要なら少数を捨てるだろう」
グレゴールの目が細くなる。
「森で公爵家の少年を見捨てたように」
ユリウスは何も答えなかった。
「彼を助けることはできた。違うか?」
「なぜ、そう思うんです?」
「白塔で見た君は、崩落を恐れていなかった」
「表情に出にくいだけです」
「私と君は似ている」
グレゴールが言った。
「必要なものと、不要なものを分けられる。感情に判断を邪魔されない」
「それで?」
「君の力を使えば、生徒を犠牲にする必要はなくなる」
「僕の力を知らないのに?」
「だから知りたい」
グレゴールは金属板を棚の上へ置いた。
「エマ・ルースを探せ」
ユリウスは、わずかに目を細めた。
「生きているんですか」
「冬至祭の夜、白塔から逃げた」
エマは2年前に退学したことになっていた。
その後ずっと、白塔に拘束されていたのだろう。
「彼女は施設の記録を持ち出した。そこには、白塔に関わった者の名が記されている」
「あなたの名前も?」
「当然だ」
「では、見つけたらどうするんです?」
「連れてこい」
「断ったら?」
グレゴールは、静かに答えた。
「薬屋の娘が作った眠り薬について、王宮へ知らせる」
「その件は、解決しています」
「証拠を作ったのは君だろう」
ユリウスは黙った。
「閉架書庫の記録も、ベルトランの書類も、整いすぎている。魔力の痕跡を消せても、人が考えた順序までは消せない」
「推測ですね」
「それで十分だ。王宮は、疑う理由さえあれば動く」
「リナが処分されるだけでは?」
「家族もだ。薬舗の営業許可は取り消され、父親は投獄されるかもしれない」
ユリウスは、リナの顔を思い浮かべた。
泣くだろう。
自分を庇い、最後まで名前を言わない。
その可能性は高い。
リナと薬舗を失えば不便になる。
だが、ここで命令に従うと面倒なことになる。
「もう1つ」
グレゴールが続けた。
「病弱な少女は、危険な場所へ自分から入る癖があるそうだな」
温室の空気が冷えたように感じた。
実際には、気温は変わっていない。
「彼女は関係ありません」
ユリウスは言った。
声は、いつもと同じだった。
「ならば、関係させないためにエマを探せ」
グレゴールは背を向けた。
「7日後、王都西部の旧水路へ連れてこい」
「エマが拒んだら?」
「方法は君に任せる」
グレゴールの姿が、黒い霧に包まれる。
「平均的な生徒が、どのような方法を選ぶのか楽しみにしている」
霧が消えた。
温室には、ユリウスだけが残された。
棚の上には、白い塔の印が刻まれた金属板が置かれている。
ユリウスはそれを拾った。
グレゴールは、自分の力を正確には知らない。
だが、ネネの存在には気づいている。
殺すべきだろうか。
今なら、追跡できる可能性がある。
しかし、グレゴールの背後には別の者がいる。
白塔の記録を手に入れなければ、全体を把握できない。
まず、エマ・ルースを探す必要があった。




