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平均点の少年は、誰の痛みも分からない  作者: くるみ


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第2話 森の底

午後の授業は、学院北部にある演習森林で行われることになっていた。

5人1組で森へ入り、指定された魔石を回収する。

森には訓練用の魔獣が放されているが、教師の監視下にあり、命を落とす危険はないと説明されていた。


「今日こそ、お前に剣を抜かせるからな」


森へ向かう道で、ダリオが言った。


「魔石を取るだけの実習だよ」

「魔獣が出るだろ」

「ダリオが倒せばいい」

「俺1人に任せる気か?」

「適材適所という言葉があるよ」

「お前は逃げるのだけは妙にうまいんだ。少しくらい戦えるだろ」

「怖いから、必死に逃げているだけだよ」


ユリウスは笑った。

剣を持った相手が次にどこを攻撃するかは、肩と腰の動きを見れば分かる。

魔法使いがどの術式を使うかは、詠唱が始まる前に魔力の流れから判断できる。

避けること自体は難しくない。

偶然に見える速さで避けるほうが、いくらか難しかった。


「いつまで喋っている」


前方から、冷たい声が飛んできた。

エドガー・バルガスが、苛立った顔で2人を見ていた。

公爵家の次男である。

魔法実技は学年7位。貴族としての身分と自分の能力の両方に、強い自信を持っていた。


「森へ入ったら、勝手な行動はするな。俺の指示に従え」

「班長なんて決めたか?」


ダリオが言う。


「俺が最も適任だ」

「剣術なら俺のほうが上だぞ」

「魔獣を剣で殴ることしか考えられない人間に、指揮が務まるものか」


ダリオの眉間に皺が寄った。

右手が剣の柄へ伸びる。


「やめなよ、ダリオ」


ユリウスが腕をつかむと、ダリオは舌打ちしながら手を離した。


「お前は腹が立たないのか」

「何に?」

「こいつの言い方だよ」

「別に」


ユリウスは、本当に何も感じていなかった。

好意もなければ、憎しみもない。

道端に落ちている石が、自分を見下していたとしても、人は腹を立てない。

エドガーは石よりよく喋る。

違いは、その程度だった。


今回の班は、ユリウス、ダリオ、リナ、エドガー、ネネの5人だった。

ネネは、黒い髪を顎のあたりで切りそろえた、小柄な少女である。

成績はどの科目も平均以下だった。

魔法実技では失敗が多く、人前で話すことも苦手らしい。教師に指名されると、答えを知っていても声が小さくなる。

休み時間には、1人で本を読んでいることが多かった。

ユリウスも、彼女とはほとんど話したことがない。


「足手まといが2人もいるのか」


エドガーがユリウスとネネを見た。


「俺とダリオが前を歩く。リナは中央だ。ユリウスとネネは最後尾をついてこい」

「分かったよ」


ユリウスは答えた。

ネネも、俯いたまま小さくうなずいた。



森へ入ってから、鳥の声を聞いていない。

ユリウスがそれに気づいたのは、演習が始まって半刻ほど過ぎたころだった。

頭上では風が梢を揺すっている。

枝と枝とが擦れ、乾いた葉が落ちてくる。

それでも、羽ばたきの音はしなかった。獣が藪を駆ける気配もない。

静かすぎた。

森全体が息を潜めている。


ユリウスは足を緩めた。

湿った地面に、長い爪痕が刻まれている。

訓練用に放されている魔獣のものではない。3本の溝は深く、抉られた土の縁が黒ずんでいた。

しゃがみ込まなくても、腐臭が分かった。

死肉に似た臭いだった。

それよりも古く、冷たい。

本来、この森にはいないものが入り込んでいる。


「遅いぞ」


前を歩いていたエドガーが振り返った。


「平民は、歩くことも満足にできないのか」

「ごめん」


ユリウスは歩みを速めた。

支給された警報具を使うべきか考えた。

起動すれば、監視を担当する教師が来る。実習は中止され、森は封鎖されるだろう。

それが正しい対応だった。


だが、学院の結界を内側から破れる者がいるなら、正体を知らないままにはできない。ユリウスが王国の追跡術式から消える計画を実行する前に、その者が彼の異常へ気づけば面倒だった。逆に、結界を書き換える技術は利用できるかもしれない。

森へ入り込んだものは、計画を脅かす敵か、必要な手掛かりのどちらかだった。

確かめる前に教師へ知らせるつもりはなかった。

危険であれば、自分で消せばよい。

誰かが傷つく可能性については、深く考えなかった。


「あっ」


すぐ後ろで、小さな声がした。

振り返ると、ネネが木の根に足を取られていた。

転びはしなかったものの、細い幹に手をつき、恥ずかしそうに俯いている。


「大丈夫?」


ユリウスが尋ねると、ネネは小さくうなずいた。


「うん。私が遅いから、ごめんなさい」

「急がなくていいよ」

「ありがとう」


ネネはそれ以上何も言わず、再び歩き始めた。

臆病で、運動も得意ではない。

ユリウスは、彼女についてそう判断した。

一行はさらに奥へ進んだ。

木々の間隔が狭くなり、空が見えなくなる。日の光は枝葉に遮られ、地面まで届かない。

やがて、視界が開けた。

森の中に、不自然な空地があった。

その中央に、青い魔石が浮かんでいる。


「あれだ」


エドガーが言った。

真っ先に空地へ足を踏み入れる。


「待て」


ユリウスは呼び止めた。

声が小さかったのか、エドガーは振り返らなかった。

魔石の下には、落ち葉が積もっている。

その隙間から、黒い線が覗いていた。

円環。

内側に刻まれた、歪んだ古代文字。

召喚陣だった。

魔石は、課題として用意されたものではない。

人を引き寄せるための餌だった。


エドガーの指が、魔石に触れた。

地面が沈んだ。

空気が震えた。

腹の底へ響く音が、森の地下から湧き上がってくる。


地面に亀裂が走った。

裂け目の奥は暗かった。

土の色でも、夜の色でもない。光というものが初めから存在しない場所へ、穴が開いている。

その底から、1本の脚が現れた。

腐りかけた肉に覆われた、節の多い脚だった。

続いて2本、3本と這い出してくる。

6本の脚が地面を掴み、巨大な身体を穴の外へ引き上げた。

蛇のように長い首。

縦に裂けた口。

剥がれ落ちた皮膚の下から、濡れた骨が覗いている。

額には、深淵種の紋章があった。

王国の騎士団でも、1個中隊をもって討伐する魔獣である。


「なんだ、これは」


エドガーの声が掠れた。

誰も答えなかった。

魔獣が首を巡らせる。

赤黒い眼が、5人を見た。

獲物を選んでいるようには見えなかった。

あれにとっては、どれを先に潰しても同じなのだろう。


「下がって!」


リナが叫んだ。

魔獣の前脚が動いた。

速い動きではなかった。

それでも、避けられる者はいなかった。

ダリオだけがリナの前へ飛び出し、剣を横に構えた。

刃と爪とが衝突する。

金属が軋んだ。

ダリオの身体が宙へ浮く。

背後にいたリナも巻き込まれ、2人は別々の方向へ投げ出された。

リナは木の幹に頭を打ち、そのまま崩れ落ちた。


「リナ!」


ダリオが地面へ手をつく。

右脚が、あり得ない方向へ曲がっていた。

立ち上がれるはずがない。

それでも彼は、剣を拾い、リナの前へ戻ろうとした。


魔獣が、倒れたリナと、そのそばに立つユリウスへ首を向けた。

その間へ、ネネが入った。

細い肩は震えていた。両膝も、立っているのが不思議なほど揺れている。

それでも、彼女は両腕を広げ、リナとユリウスを背後へ庇った。


「逃げて」


声も震えていた。

ネネの前に、薄い透明な膜が生まれる。初歩的な防御魔法だった。深淵種の一撃を受け止められるはずがない。

逃げればよいのに、とユリウスは思った。

彼女が残っても、守れる者はいない。自分まで死ぬ可能性を増やすだけだった。


魔獣が前脚を振るう。

透明な膜は、硝子のような音を立てて砕けた。

衝撃を受けたネネの身体が空地の端まで飛び、木の根へ叩きつけられる。

彼女は目を閉じ、動かなくなった。

ユリウスは近くへ寄り、呼吸を確認した。

呼吸はある。

脈も安定している。

瞼の震えもなく、身体から力が抜けているように見えた。

致命傷はない。

ユリウスは、意識を失っているのだと判断した。

魔獣が口を開いた。

喉の奥に、黒い火が灯る。


「化け物め!」


エドガーが杖を振り上げた。

炎の槍が空を裂き、魔獣の肩へ突き刺さる。

爆炎が膨らんだ。

熱風が空地を駆け抜け、落ち葉を巻き上げる。

煙の向こうで、魔獣は立っていた。

皮膚の一部が焦げている。

それだけだった。


「そんなはずはない」


エドガーが後ずさった。


「上位術式だぞ」


魔獣が彼を見る。

エドガーの顔から、血の気が引いた。


「ダリオ、立て!」


ダリオは答えなかった。

折れた脚を引きずり、リナのそばへ戻ろうとしている。


「時間を稼げ」


エドガーが言った。

声が震えていた。


「俺が教師を呼んでくる」


逃げるつもりなのだと、ユリウスには分かった。

魔獣の尾が、ゆっくりと持ち上がる。

その先に、エドガーがいた。


止めることはできた。

ユリウスが望めば、魔獣は2度と動けない。

尾が振り下ろされる前に、肉体を構成する術式を解体することもできる。

だが、ここで力を使えば、確実にエドガーに見られる。

公爵家の人間である彼が学院や王宮へ報告すれば、調査を避けることは難しい。

記憶を消すこともできるかもしれない。

だが、正確にどこまで消せるかは試したことがない。人格まで壊してしまえば、別の疑いを招く。

後処理が面倒だった。

それならば、ここで魔獣に殺されたほうが自然だった。


ユリウスは何もしなかった。

尾が振り下ろされた。

肉を潰す音がした。

エドガーの身体が木の幹へ叩きつけられる。

杖が手から離れ、地面を転がった。

彼は幹に沿って崩れ落ちた。

胸が陥没している。

口から血が流れていた。

もう息をしていない。

死んだ、とユリウスは判断した。

死んだ者を戻すことはできない。


罪悪感はなかった。

人が1人死んだ。

問題が1つ減った。

魔獣がダリオへ向き直った。

ダリオは剣を杖代わりにして立ち上がった。

立てていること自体が不自然だった。


「ユリウス」

「何?」

「リナとネネを連れて逃げろ」

「君は?」

「俺が止める」

「勝てないよ」

「分かってる」


ダリオは魔獣から目を逸らさなかった。


「それでも、誰かが残らないといけないだろ」


ユリウスには、意味が分からなかった。

ダリオが残ったところで、魔獣を足止めできる可能性は低い。

彼が殺されたあと、魔獣は逃げた者を追うだろう。

合理的な選択ではなかった。

それでもダリオは、リナとネネの前に曲がったままの右足を右手で支えながら立ち上がろうとしている。

死ぬつもりなのだ。


ダリオが死ねば、明日から昼食を1人で取ることになる。

ユリウスは、その状況を想像した。

新しい友人を探し、性格を調べ、どの程度の冗談なら通じるのか確かめなければならない。

信頼を得るまでには、時間もかかる。

面倒だった。


「仕方がないな」


ユリウスは呟いた。

魔獣が走り出す。

6本の脚が地面を穿つ。

ダリオが剣を構えた。

両者が衝突する、その直前だった。

ユリウスは指先を動かした。


森から音が消えた。

舞い上がった枯れ葉が宙に留まる。

魔獣は、前脚を上げた姿勢で静止していた。

ダリオも動かない。

ユリウスだけが、止まった時間の中を歩いた。

魔獣の胸に手を置く。

皮膚の下、肉の奥に、黒い核がある。

ダリオの剣が向かう位置から、指2本分だけずれていた。

ユリウスは核を動かした。

物体を押したのではない。

核が存在する場所そのものを書き換えた。

剣の軌道と重なる位置へ。

ユリウスが指を下ろす。


音が戻った。

ダリオの剣が、魔獣の胸へ突き刺さった。

刃が黒い皮膚を貫く。

その奥にあった核へ食い込んだ。

魔獣が絶叫した。

森の木々が震える。


「うおおっ!」


ダリオは剣を押し込んだ。

核に亀裂が走る。

だが、砕けない。

魔獣が最後の力で前脚を振り回した。

爪がダリオを捉える。

彼の身体は地面を滑り、空地の端で止まった。

動かなくなった。

ユリウスは周囲を見た。

リナは意識を失っている。

ネネも目を閉じたままだった。

ダリオにも意識はない。

エドガーは死んでいる。


ユリウスは魔獣の前へ歩いた。

胸に刺さった剣の周囲から、黒い液体が流れ落ちている。

魔獣は傷ついていたが、まだ生きていた。

赤黒い眼がユリウスを見下ろした。

その身体が、わずかに強張った。


「静かにしてくれるかな」


ユリウスが言った。

魔獣の咆哮が途切れた。

彼が手を上げると、巨大な身体から細い光の筋が浮かび上がった。


1本。

2本。

無数の線が、肉体を縫うように走っている。

魔獣を構成している魔力の糸だった。

複雑な術式ではない。

解く必要さえなかった。

ユリウスが手を握る。

光の糸が、すべて同時に切れた。

魔獣の身体が崩れた。

音はしなかった。

肉も、骨も、血も、黒い灰へ変わり、地面へ落ちていく。

最後まで残った核が、ダリオの剣に貫かれたまま砕け散った。

これならば、誰が見てもダリオが倒したと思うだろう。


ユリウスは彼のそばへしゃがんだ。

出血が多い。

折れた骨が血管を傷つけている。

完全に治せば不自然になる。

死なない程度に血管を戻し、内臓の損傷を塞いだ。折れた脚はそのまま残す。

リナの頭蓋内にも出血があった。

それだけを消した。

ネネは後頭部を切っていたが、傷は浅かった。出血を止め、自然に治る状態へ整える。

エドガーには触れなかった。

触れても意味がない。

彼はもう死んでいる。

ユリウスは召喚陣を見た。

森の監視を遮断する結界が組み込まれている。

その部分だけを壊した。


ほどなくして、遠くから複数の魔力が近づいてきた。

教師たちだった。

ユリウスは空地の中央に座り込んだ。

肩を落とす。

両手を震わせる。

呼吸を浅くし、何度か息を詰まらせた。

恐怖で動けなかった生徒の顔を作る。

足音が近づいてくる。

枝が折れ、教師たちが空地へ駆け込んできた。


「何があった!」


先頭の教師が叫んだ。

その視線が、倒れている生徒たちを巡る。

エドガーの死体。

意識を失った3人。

地面に散った黒い灰。

砕けた核のそばには、ダリオの剣が落ちていた。


「深淵種が」


ユリウスは掠れた声を出した。


「召喚されました」


「誰が倒した?」

「ダリオです」


教師が、倒れているダリオを見た。


「彼が1人でか?」

「ダリオの剣が、胸の核を砕きました」

「エドガーは?」

「魔獣の攻撃を受けました」


ユリウスは、それ以上の説明をしなかった。

教師はエドガーへ駆け寄り、首元に手を当てた。

しばらくして、静かに手を離した。


「お前は何をしていた」

「倒れていたリナとネネのそばにいました」


ユリウスは俯いた。


「僕には、何もできませんでした」


教師の手が、ユリウスの肩に置かれた。


「もう大丈夫だ」


低く、落ち着いた声だった。

ユリウスは震えながら、小さくうなずいた。

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