第1話 平均値
ユリウス・レインは、誰からも好かれていた。
教室の中心にいるわけではない。人目を引く容姿でもなければ、場を沸かせるほど話が上手いわけでもなかった。
それでも、彼を嫌う者はほとんどいない。
教師に呼ばれれば、素直に返事をする。廊下ですれ違えば、相手の身分にかかわらず会釈をする。困っている者には手を貸すが、そのことを後で口にすることはなかった。
授業を休んだ生徒には快くノートを貸し、怪我をした者がいれば、翌朝には具合を尋ねる。
成績も悪くなかった。
学年には120人の生徒がいる。
先月の順位は、筆記試験が52位、魔法実技が61位、剣術が48位だった。
得意科目はなく、不得意科目もない。
どの成績も、平均から大きく外れてはいなかった。
偶然ではない。
ユリウスは、自分がどの程度の点数を取れば目立たずに済むのか、毎回計算していた。
「おはよう、リナ。足はもう大丈夫?」
朝の教室で声をかけると、隣の席に座っていた少女が振り返った。
「あ、ユリウス。うん。もう平気。昨日は薬をありがとう」
リナは制服の裾を少し上げ、包帯の巻かれた足首を動かしてみせた。まだわずかに腫れている。
「階段から落ちたと聞いて、心配したよ」
「数段だったの。皆が大げさに騒いだだけ」
「打ちどころが悪ければ、数段でも危険だよ」
ユリウスが眉を下げると、リナは照れたように笑った。
「ユリウスは心配性だね」
「何もなかったなら、それが1番だよ」
ユリウスも笑った。
リナが死んでいたとしても、自分は悲しまなかっただろう。
それは分かっている。
人間は、階段を数段落ちた程度では、そう簡単には死なない。だが、頭部の打ちどころが悪ければ、低い段差でも命を失うことがある。
リナが死ねば、隣の席には別の生徒が座る。
その者の性格や習慣を調べ、好む話題を覚え、適切な距離を測り直さなければならない。
面倒なことだった。
だから、死ななくてよかったと思った。
「朝から相変わらずだな」
背後から伸びてきた手が、ユリウスの肩を乱暴に叩いた。
ダリオだった。
癖の強い赤毛に、日焼けした顔。同年代の生徒よりも身体が大きく、黙っていても目立つ。
剣術では学年3位だが、筆記試験は下から数えたほうが早かった。
「何が相変わらずなの?」
「そういうところだよ。お前、誰にでも親切だろ」
「困っている人がいたら、助けるのは普通じゃないかな」
「俺は昨日、課題を見せてくれって頼んだのに断られたぞ」
「見せたら、ダリオのためにならないからね」
「リナには薬を渡して、俺には答えを見せないのか」
「薬を自分で調合しろとは言えないだろう?」
ダリオは口を開いた。
何か言い返そうとしたらしい。
しばらくして言葉が見つからなかったのか、唸りながら自分の席へ戻っていった。
戻る途中、ダリオはリナの包帯へ一度だけ視線を落とした。
「まだ痛むなら、今日は階段を使うなよ」
ぶっきらぼうに言い、返事を待たずに背を向ける。
リナは不思議そうに瞬きをしたが、ユリウスは、ダリオの耳がわずかに赤くなっていることに気づいていた。
ユリウスは、その背中を眺めた。
ダリオは分かりやすい。
怒っていれば声が大きくなり、困っていれば眉間に皺が寄る。嬉しいときは頻繁に鼻の下を擦り、嘘をつくときは右の耳に触れる。
観察に労力を使わずに済む。
ユリウスは、彼といることを不快に感じなかった。
世間では、それを友情と呼ぶのだろう。
自分がダリオに友情を感じているのかどうかは、分からなかった。
*
自分がほかの子供とは違うと気づいたのは、5歳の冬だった。
その朝、飼っていた小鳥が籠の底で死んでいた。
妹は泣き続けた。
母は小鳥を白い布で包み、庭の隅に埋めようとした。
ユリウスは、その前に腹を開いてみたいと思った。
生きていたときに動いていたものが、死後にはどう変わるのか。心臓はどのような形をしているのか。羽の下で、骨はどうつながっているのか。
知りたかった。
台所から小刀を持ち出したところを、父に見つかった。
頬を打たれたのは、それが初めてだった。
「何をするつもりだった」
「中を見ようと思った」
「妹が泣いているんだぞ」
「知ってる」
「悲しくないのか」
ユリウスは考えた。
悲しいという言葉の意味は知っていた。
大切なものを失ったときに感じる苦痛。胸が締めつけられ、涙が出て、何もする気がなくなる。
妹はそうなっていた。
母も目を赤くしていた。
けれど、ユリウスの内側には何もなかった。
小鳥が生きていた昨日と、死んでいる今日との間に、自分にとって大きな違いはない。
「ごめんなさい」
そう答えると、父は少し安心した顔をした。
その顔を、ユリウスはいまでもよく覚えている。
ユリウスは小刀を元の場所へ戻した。
それから、人の表情をよく見るようになった。
悲しい話を聞くときは、視線を少し下げる。
誰かを慰めるときは、すぐに解決策を示してはいけない。まず、「つらかったね」と言う。
誰かが成功したときは、目を少し大きく開き、普段より明るい声で祝う。
相手の話に興味がなくても、途中で遮ってはならない。ときどき名前を呼び、短く相槌を打つ。
人間の表情には、いくつかの型があった。
場面に合ったものを選べば、多くの者はユリウスを優しい人間だと思った。
それは、魔法陣を描くことに似ていた。
正しい場所に、正しい記号を置く。
手順を間違えなければ、望んだ結果が得られる。
難しいことではなかった。
自分の力を隠すことに比べれば、なおさらだった。
その力に気づいたのは、7歳のときである。
家の裏手にある林で、1人で遊んでいた。
崖の上から石が落ちてきた。
避けられないと思った瞬間、石は空中で止まった。
風に揺れていた草も、落ちかけていた枯れ葉も、すべてが動きを失っていた。
動いていたのは、ユリウスだけだった。
驚きはした。
恐怖はなかった。
ただ、これは普通ではない能力だと思った。
手を伸ばして石に触れ、落ちてこない場所へ移した。時間を戻すと、石はそのまま地面へ落ちた。
家族には話さなかった。
話せば、父はまたあの顔をすると思った。
母は怯えるだろう。
誰かに知らせるかもしれない。
それは望ましくなかった。
ユリウスは、人のいない場所で力を試した。
最初は、止められる時間を一呼吸ずつ延ばした。限界を越えると視界が暗くなり、鼻や耳から血が流れた。けれど、痛みは中止の理由にはならなかった。どこまで続ければ身体が壊れるのかを示す、ただの現象だった。
自分の掌を切り、火傷をつくり、指の骨を折った。傷をどこまで戻せるか、どの程度なら痕跡を残さず治せるかを確かめるためだった。
森で傷ついた鳥や獣を見つければ、肉や骨を戻した。治療前と治療後の違いを知るため、自分で小さな傷を増やしたこともある。かわいそうだとは思わなかった。自分の身体に刃を入れるときと、動物へ触れるときの間に、ユリウスにとって大きな違いはなかった。
普通の子供なら、恐怖や罪悪感が箍になる。ユリウスには、その箍がなかった。
時間を止める。
物の位置を変える。
空間を切り離す。
魔法を構成する仕組みをほどく。
傷ついた生き物の肉や骨を、損傷する前の状態へ近づける。
失敗すれば、自分の傷を戻してやり直した。眠らずに力を使い続け、意識を失えば、目を覚ましてから同じ試みを繰り返した。
そうして10年近く、誰にも知られない場所で自分を壊しながら、力だけを磨いた。
ただし、死んだものは戻らなかった。
動かなくなった心臓へ力を使っても、肉体が形を取り戻すだけだった。そこに意識が戻ることはない。
死は、ユリウスにも覆せない。
それでも、彼の力は十分に異常だった。
力を求めたのは、誰かを救うためではない。誰にも所有されず、命令されず、自分の存在を自分だけのものにするためだった。
王国では、一定以上の魔力を持つ者の魔力紋が登録される。学院を卒業するまでに、その登録と追跡術式から自分の痕跡を消し、誰にも見つけられない場所へ去る。それがユリウスの計画だった。
そのために、学院と王宮の結界がどのように人を識別し、追跡するのかを調べていた。平均的な生徒を演じることも、計画の一部だった。
魔力測定では、水晶が平均的な青色を示すように出力を調整した。実技試験では適度に失敗し、筆記試験では正答をいくつか消してから答案を提出した。
本気で戦うよりも、平均を演じるほうが少しだけ難しかった。
けれど、それにもすでに慣れていた。




