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鎗ヶ崎の交差点  作者: 誠一郎
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鎗ヶ崎の交差点⑳

 今でも、あの瞬間のことは忘れられない。

 映画に行った次の週に、知花は待ち合わせた恵比寿のイタリアンバルのカウンターで僕にこう言ったのだ。

「子供ができたの」

 僕は言葉を失った。すると知花が珍しく矢継ぎ早に、言い訳をするように続けた。

「実はここ数日ずっと体調悪くて、病院行ったら三ヶ月目って。私、ずっと子供ができにくい身体だって言われてたからまさかとは思ってたんだけど」

 僕はどうにか笑顔を作り、言葉を絞り出した。

「でも、子供ができたのはおめでたい事だよ。彼には話したの?」

「うん」

「そう。じゃあ結婚するんだ」

「一応、そういうことになるかな」

「おめでとう。お祝いしないといけないね」

すると知花が僕を見つめて言った。

「ごめんね」

 僕にはその言葉が何よりも辛かった。これからという時に知花はまた遠ざかってしまった。一人で舞い上がっていた自分が惨めで情けなかった。そして、運命を呪った。だったらなぜ、僕達を再会させたのかと。

「いや、謝らないでいいよ」

「うん」

 僕らは言葉少なく店を出た。

 運命の相手に子供ができた。僕はこの時のことを思い出すと自分が彼女に何を言うべきだったのかを考えてしまう。

 産まないでほしいと言うべきだったのか。彼と別れて僕と結婚しよう。そして子供は二人で育てようと言うべきだったのか。

 どちらかを言葉にしていれば、僕の隣には知花はいたのだろうか。運命を変えることができたのだろうか。

 逆にこの時に、完全に諦めて二度と会わなければよかったとも思う。そうすれば、僕はここまで傷つかずに済んだし、人並みに結婚をして幸せになれたかもしれない。

 僕は子供ができて、結婚するという事実を突きつけられても知花が好きだった。ある意味では、この諦めの悪さのおかげでもう一度知花を手に入れる機会が訪れる。しかし、その与えられた機会さえも活かすことができなかった。だったら、この時に永遠にさよならを言っておけばよかったと思うことさえある。

 それから彼女が子供を産むまでの間、僕らは会うことも連絡を取ることもなかった。さすがに子供ができて結婚する相手にアプローチをかけるほどの非常識さは僕にはなかった。

 しかし心は暗澹としたままだった。目と鼻の先の中目黒の街に好きな人がいるのはわかっているのに会えない。それがどんなに辛いことか。

 僕の生活はまた孤独と向き合う日々に戻り、そこに追加されたのは、運命への落胆だけだった。やる気のない仕事。平坦な日々。何もかもに期待を持てない生活に舞い戻った。

 そんな時に一人の女性に出会った。相手は二十七歳のOLで美佳子と言った。僕のどうしようもない状態を見かねた友人が紹介してくれたのだ。

 美佳子は化粧品会社でマーケッターとして働いていた。とても華やかな見た目で、ショートカットが似合う明るい女性だった。彼女とは映画の話題で意気投合し、二人で食事に行きその日にキスをした。そして連絡も頻繁に取り合うようになった。僕が決定的な言葉を彼女に告げれば付き合いは始まっただろう。

 これがタイミングなのかもしれない。何の障害もない美佳子との将来は容易に想像ができ、簡単に手に入れられる幸せが見えた。しかし僕はその見える幸せに違和感を覚えていた。そんなありきたりの道に進んでいいのだろうかと。

 夢を諦めて、会社員になり安定を求めたくせに僕はまだどこか枯渇していて、せめて恋だけは妥協せずにしっかりとしたものを掴み取りたいと願っていた。

妥協とタイミングのせいにして掴みやすい幸せに身を委ねてしまったら本当にこの人生は終わってしまうと。

 僕にとっての掴み取りたい恋は知花だった。知花は夢の女性だった。二十代の頃に出会い十年以上、僕は彼女を想っていた。

 再会した時には知花こそが運命の相手だと信じた。そしてその時に生まれた激しい想いは、十代の頃に音楽に出会った時の衝撃に似ていた。いつまでも気になって仕方がない。ずっと繋がりを持っていたいと思える相手。いまさら何ができるわけでもないのに、僕は知花を求めていた。

 結局、一線を越えるか越えないかのところで美佳子に会うのをやめた。目の前の幸せを自ら手放したことに後悔がなかったわけではない。会わなくなってしばらくして、どうしようもなく寂しくなって、美佳子に連絡をしてしまったこともある。しかし会う約束をしておいて直前で断ってしまった。

 寂しいのは美佳子に会えないからではない。知花に会えないからだと気づいた時に罪悪を感じてしまったのだ。連絡をしたのは自分で美佳子に期待をさせておいて僕は勝手な自分の感情の起伏に彼女を巻き込んでしまった。僕は最低の男に成り下がっていた。

 その頃に、初めて就職した会社から出戻りの誘いがあった。前職の上司とは連絡を取り続けていて、ずっと冗談めかして戻って来ないかと話はされていたが、人員の退職に伴い正式に依頼の話が届いたのだ。

 条件面もかなり良く、会社に対する思い入れのない僕に断る理由はなかった。少しでも気分を変えたい気持ちもあり、僕は四度目の転職をすることにした。

 そんな時期に、知花から突然連絡があった。

「お店に復帰したよ。よかったら来てね」

 妊娠してから彼女は店を休んでいた。僕は母親となった知花がカウンターに立つ姿を想像した。きっと知花は完全な母親の顔になっているのだろう。そして、僕のことは過ぎ去った過去の男として見るのだろう。もしかしたら、夫も店に現れるかもしれない。そんな状況の中、知花に会いに行っても何もならないのはわかっていた。

 しかし夢の女性に会いたいと言う想いに嘘はつけなかった。音楽への夢に長い時間をかけてしまったのと同じように、僕はまた掴むことのできない恋に手を伸ばそうとしていた。

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