鎗ヶ崎の交差点㉑
「いらっしゃいませ」
店のドアを開きカウベルが鳴ると、カウンターにいた知花が変らない笑顔で迎えてくれた。僕はたまらなくなったが気持ちを抑えた。彼女にはもう子供も夫もいる。
「久しぶり。そこ座って」
僕は前と同じカウンターの端に座った。
「無事に産まれた?」
「産まれたよ。でも大変。夜泣きで全然眠れないし。何にする?ハイボール?」
「あ、うん」
「了解」
ハイボールを作る知花の横顔は子供を産んだ後とは思えないほど変わらなく美しかった。僕はやはり自分が知花を好きな事を自覚しながら、切ない想いに駆られていた。どんなに好きでも僕はもう知花のそばにいる事はできない。
「お待たせしました。ハイボールです」
「ありがとう。元気だった?」
「うん。私がいない間にお客さん減っちゃったからまた頑張らないと」
確かに客は僕の他に一組しかいなかった。
店の客が知花目当ての男性が多いのはわかっていた。常連客は、美しい彼女との会話を楽しみに店に来る。彼女がいなくなれば店の売り上げは落ちるのは当たり前だろう。それを取り返すために、知花は子供を産んで早々に復帰したのだ。
「産んでまだ間もないよね。大丈夫なの?」
「二ヶ月かな。でも大丈夫」
「無理しないように」
「ありがとう。あ、これ、好きでしょ?用意しておいたの」
彼女が出してくれたのは、僕が好きなコンニャクの煮物だった。この料理を毎日食べることのできる夫は幸せだろう。その光景を想像すると悲しくてたまらなかった。
「相変わらず美味しいよ」
「そう言ってくれると嬉しいな。ねえ。見て」
知花は携帯を取り出すと、息子の写真を見せてくれた。そこにははっきりとした目鼻立ちの知花にそっくりな男の子が写っていた。
「そっくりだね。可愛い」
「ありがとう。でもすごくやんちゃ。動き回るし、埃とか平気で食べようとするし」
「君もやんちゃでしょ?」
「うーん。まあね」
「名前はなんて言うの?」
「心太。お店の名前から一文字とって」
「いい名前だね」
携帯をしまう時、知花は嬉しそうに心太の写真を見つめた。その姿を見て、彼女が母になってしまったのだと確信をした。すると少し諦めがついた気がした。
「まさかお母さんになるとはね」
「実感はまだないんだけどね」
「今はどこに住んでいるの?」
「うん。池尻の方」
「新婚生活か」
「今さら新婚って感じじゃないけど」
「でもいい人なんでしょ?」
すると知花の表情が急に曇った。
「結婚って難しいなと思いながらどうにかね」
曇った表情の訳を知りたかった。しかし、彼女の生活に入り込む立場ではないと自分を諌めた。
「君が仕事の時は旦那さんがお子さんを見ているの?」
「うん。あと、私のお母さんにも見てもらっているの」
「おかわりは?」
「じゃあビール。あと串焼きを」
「はい。待ってて」
店員が炭の上に串をおいた。知花はビールをグラスに注いでいる。僕はその光景を見ながらこの距離感がきっと僕達にはちょうどいいんだと諦めを受け入れようと必死だった。こうやってカウンター越しに幸せを願いながら、微々たる売り上げを落としていくことが僕に出来る精一杯のことだと。
少しずつ客が増えてきた。知花は前と変わらない笑顔と人懐っこさで客に接していた。僕はその姿をずっと見つめていた。彼女の姿を焼き付けるために。
今、彼女は幸せなのだ。どんなに僕が想いを寄せても入る隙間などない。だったら今日だけ、この店にいる間だけ、視界の中だけの彼女だけでも僕のものにしたかった。
結局僕はその日、閉店の時間までカウンターに居座ってしまった。
「遅くまでごめん。帰るよ」
切ない気持ちを押し止めながら僕は言った。店員と客。一生僕達はこの関係のままでいるしかない。その事実を受け入れるのだ。また十年もまったく会えないよりはマシじゃないかと自分に言い聞かせながら。すると知花が言った。
「ねえ、今日はもう閉めるからちょっと一杯飲まない?」
「え?うん」
僕は戸惑いながら、そして少しの喜びを隠しながら腰を落とした。




