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鎗ヶ崎の交差点  作者: 誠一郎
17/40

鎗ヶ崎の交差点⑰

 知花の店は中目黒駅から目黒川を渡ると現れる細い路地沿いにあった。

 少し奥まったビルの一階の扉の前には、年期の入った木の看板が置かれており、老舗の焼き鳥屋らしい字体で「心」と書かれていた。

 その路地は何度か通ったことがあった。しかし僕は店の存在に気づかなかった。なぜもっと早く店の存在に気づけなかったのだろうか。この二年間、僕は何を見て生きてきたのかとまた自分を責めた。

 店の扉を開けるとカウベルが響き、カウンターに立っていた知花が優しい笑顔で「いらっしゃい」と言って迎えてくれた。

 居酒屋らしくないオールドアメリカン風のモダンな作りの店内で割烹着を着る知花に違和感はなかった。むしろ、カウンターの上の照明に照らされた彼女はとても美しかったし、思っていた以上に居酒屋の女将という姿が板についていた。

「来たよ」

「ありがとう」

 僕は一番端のカウンターに座った。まだ時間が早いこともあって、店には数組の客しかいなかった。

「何飲む?」

「じゃあ、ハイボールを」

「はい」

 焼き場に一人。厨房にも一人スタッフがいて彼女はカウンターで飲み物を作っていた。

「いいお店だね」

「ありがとう」

「この道、たまに通ってたけど気づかなかったよ。まさかここで二年前から働いているなんてね」

「結構奥まってるから」

「店名の由来は?こころって読むの?」

「ううん。しん。名前は先代から変えてないの。先代のおやじさんが哲心って名前でそこからとったんだって。はい。ハイボールと御通しです」

 ハイボールと一緒にでてきたのは、こんにゃくの煮物だった。

「これは君が?」

「うん。メニューは変えてないからせめてお通しは自分で作ろうと思って」

「料理、好きなんだっけ?」

「一応昔から好きだったの。だからここでアルバイト始めて。だいぶ前の話だけどね」

 華やかな世界にいた彼女が飲食店でアルバイトをしていたと言うのは意外だった。僕と会わなくなった後、知花はいったいどんな人生を歩んで来たのかと思ったが、いきなりそんなことは聞けなかた。

「美味しいなこれ。独身男にはこういう料理がしみるよ」

「そう?ありがとう。ねえ、お腹空いてる?」

「うん。お任せで頼んでいいかな」

「うん。ちょっと待ってね」

 知花は焼き場と厨房の店員に注文を伝えると、また僕の前に立った。正面から知花の顔を見るのは何年ぶりだろうか。いや考えてみれば、あの頃、僕が見ていたのはいつも彼女の横顔ばかりだった。

 僕は知花をいつも後ろから追いかけていて、どうにか並んだ時に見れたのはどこか違う場所を見ている横顔だった。僕はいつもその視線の先にあるものに怯えていた。しかし今日は知花の視線の先には僕がいる。

「一人で店やるなんてすごいね」

「そんなことないよ。先代のお客さんもいて場所もあったから。最初から一人だったらできなかったかも。それに思ったよりも大変だし」

「それは大変だろうけど。でも本当、まさかだよね」

「ね。私もあの頃はこうなるなんて考えたこともなかったな」

 当時の知花はやりたい事がないと言っていた。この店は彼女が初めて見つけたやりたい事であり、自分の場所なのだろうか。改めて店内を眺めると、店の隅々まで彼女のこだわりや優しさが感じられる空間になっていた。まるで今の知花の人柄が滲み出ているかのように。

「お店の営業時間は何時まで?」

「一応二十五時までだけど、お客さんがいる限りはね」

「大変だね。あまり寝れてないんじゃない?」

「大丈夫。今は頑張り時だから」

 すると団体客が入って来た。

「知花ちゃん来たよ」

「いらっしゃい」

 それを皮切りに立て続けに客が訪れ、あっという間に席が埋まった。

どの客も彼女に「知花ちゃん」と声をかけていた。それだけで常連がついているのがわかった。僕はしばらく忙しく働く彼女を見ながら酒を飲んだ。時折手が空くと、知花は僕の前に立ち何気無い会話をした。

 周りへの気配りや会話の仕方は昔の彼女とは違っていて少し不思議な感じがした。当時の彼女はあまり自分から話をするタイプではなかった。しかし今はとても自然に接客をしている。飲食店を経営するために自分を変えたのだろう。それに比べて、自分はどうだろうか。何かを変えるために努力をしたことがあるだろか。正直あまり自信はなかった。

 十二時を過ぎると一斉に客が帰って行った。僕は何杯目かのハイボールを飲んでいた。すると、ひと段落ついた知花が言った。

「私も飲んでいい?」

「もちろんどうぞ。何飲むの?」

「じゃあワインにしようかな」

「じゃあ僕も」

 他の店員が片付けを始めている中で僕らはワインで乾杯をした。

「お疲れ様」

「うん」

 僕がタバコに火をつけると彼女もタバコを取り出した。

「私も吸っていい?」

「うん。あれ?吸ってたっけ?」

「前は吸ってなかったかな」

「どうぞ」

 十年前に、カウンターを挟んで一緒に酒を飲みタバコを吸う時が訪れるとは思いもしなかった。少し、時の流れを感じた。

「変なこと聞いてもいいかな?」

「何?」

「なんでこのお店引き継いだの?」

 酔っていたせいか、少し踏み込んだ質問をしてしまったかもしれないと思ったが、知花は店内を愛しい視線で眺めながら言った。

「うん。二十代の頃、なかなかやりたいこと見つけられなくてね。このままどうしようかなって思ってた時に先代が引退するって言って。その時に、やってみようって思ったの。思いつきもあったんだけど、このお店も好きだったし」

「そうなんだ。凄いね」

「そんなことないよ。私も変な質問していい?」

「もちろん」

「なんでDJ辞めたの?」

 なぜと聞かれると答えに詰まった。夢を諦めるには年齢や収入やプライドや世間体や様々な要因がある。いや、そんなものは言い訳だろう。僕には運も才能も情熱もなかったのだ。

「まあいろいろあって。なんて言うかな・・・」

「あ、ごめん」

「いや、全然」

「いろいろあるよね。あれから十年経ってるんだもんね」

 僕は煙が揺蕩う店内で、十年の時の重さを感じていた。お互いに昔のような無謀さや勢いや気の強さは無くなっていた。しかしそこには昔を知っている者同士の妙な安心感と気楽さがあった。そして、何かが始まる予感も。

 しかし、彼女の今の情報があまりにもなく、どうやって関係を進展させればいいかわからなかった。すると知花が唐突に言った。

「ねえ、日曜日何してる?」

「え?今週の?特に何も」

「これ、一緒に行かない?ラム酒とか興味ある?」

 手渡されたのは渋谷のクラブでのイベントのフライヤーだった。

「クラブか」

 彼女と行くクラブにはいい思い出がない。僕は少し戸惑った。すると知花が察したように言った。

「あ、クラブだけど、お酒のイベントで、いろんなラム酒の卸業者が集まって試飲ができるの。今、ちょっとラム酒に興味あって。早い時間からだから日曜日でも大丈夫かなって」

 僕は心底安心して言った。

「いいよ。行こう」

 会計を済ませて店を出ると彼女が店先まで送ってくれた。

「今日、ありがとう。来てくれて」

「うん。美味しかったよ。それにいいお店だね」

「そう言ってくれると嬉しいな。また来てね。あ、あと日曜日よろしく」

「うん。じゃあ」

「また」

 路地を歩く僕に、彼女はいつまでも手を振ってくれていた。

 ずっと会いたいと願っていた人と、また会う約束ができた。そんな小さな事だけで自分の日常に意味が生まれた気がした。鎗ヶ崎の交差点へ向かう急な坂道にも、全く憂鬱さを感じることはなかった。

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