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鎗ヶ崎の交差点  作者: 誠一郎
16/40

鎗ヶ崎の交差点⑯

 タクシーを降りて、店の扉を開けた瞬間に僕はその場から動けなくなった。彼女は十年前と同じカウンター席に座っていた。そして僕を見ると笑顔を向けた。

「なんだよ。早く入って来いよ」

「ああ」

 カウンターでニヤついている田中に即されてやっと足を動かすことができた。そして、知花の隣に座った。

「久しぶり」

 そう言った知花に僕は動転して言った。

「何で?」

 すると田中が言った。

「なんだよその言い方は。久しぶりに会ったのに」

「ああ。そうだよね。ごめん」

 知花は悪戯っぽく笑っていた。僕はまだ現実が理解できなくて田中に説明を求める視線を送った。

「この前な、中目に行って居酒屋に入ったら見たことある人が働いてるなあって思って。そしたら知花ちゃんだったんだよ」

「中目黒?居酒屋?」

「そう。すごい偶然」

 知花は嬉しそうに言った。しかし僕にはわけがわからなかった。知花が居酒屋で働いている?しかも僕の住まいにほど近い中目黒で?

「いや話が見えないんだけど」

「私ね、中目黒でお店やってるの」

「お店?君が?」

「そう。意外でしょ?」

「まあ、そうだね」

 この十年の間に知花の今を何度想像したかわからない。変わらずモデルをしているのだろうか。あるいは昔周りにいた大人の誰かと結婚しているかもしれないと考えたこともある。しかし居酒屋を経営しているなんてイメージは一つもなかった。

「それで、またうちの店に来てよって言ったら、さっき本当に来てくれたんだよ」

「なんとなく懐かしくて。このお店。全然変わってないよね」

 僕は十年ぶりに会う知花を見つめた。よく見ると少しふっくらとしただろうか。雰囲気も柔らかくなったような気がする。しかし相変わらずその瞳は大きく、吸い込まれるようで、異国の生まれのような美しい顔がほころぶととても可愛らしかった。

「ねえ、今何してるの?まだ音楽やってる?」

「いや、もうやってないよ。今は会社員」

「こいつ代官山に住んでるからお店近いよ」

「あ、そうなんだ」

「て言うか、いつから中目黒で店を?」

「二年前から」

 ずっと知花は近くにいた。なぜもっと早く見つけることができなかったのだろう。僕は無意味に自分を責めた。

「それでお前も呼ぼうってなってさ」

「遅くにごめんね」

「いやいいけど」

「元気だった?」

「うん、まあね」

 知花に聞かれて、僕は自分のこの十年を思い返した。元気と言えばそうだった。仕事や遊びは大方の事は経験した。ある意味では安定していたと思う。ただ、何かが足りなかった。

「君は?」

「うん。まあ。ね」

 この十年の間に、彼女には何があったのだろうか。聞きたいことが山ほどあった。しかし十年間の空白の果て、僕らの間にあった気軽さはリセットされてしまい、簡単に過去を聞くことはできなかった。

 僕らの間にはまるで初対面のような緊張感があった。田中がいなかったらあまり会話は成立しなかったかもしれない。いや、緊張していたのは僕だけだったかもしれないが。

「どんなお店なの?」

「居酒屋だよ。前の持ち主から引き継いだんだけどね。今度、お店来てね」

「いいの?」

「もちろん」

 すると田中がワインのボトルをカウンターに置いた。

「これサービス」

「いいのか?」

「ああ。久々の再会だしな」

 僕らは十年ぶりの再会に乾杯をした。

 知花はワインを一杯飲むと頬を赤く染めた。酒を飲むと頬が赤くなる体質も変わっていなかった。

 三人での会話の中で、僕は知花の今を知ることのできる情報が聴けるのを待っていた。しかし田中も僕も、何も聞くことはできなかった。十年ぶりに会う、しかも三十歳を過ぎた美しい女性に込み入った質問をしてしまえるほど僕らは礼儀知らずではなかった。

 当時流行っていた音楽や映画の話をしながらワインを飲み干した頃には深夜の三時を過ぎていた。

「そろそろ帰ろうかな」

 そう言った知花に僕はさりげなく聞いた。

「今、どこに住んでるの?」

「恵比寿」

「じゃあ途中までタクシーで一緒に帰ろうか」

「うん」

 会計を済ませた時に、田中が意味ありげに僕の肩を叩いた。僕は平静を装って左眉だけ動かして店を出た。

 パーシモンホールの前でタクシーを拾った。恵比寿に向かう夜中の駒沢通りは車通りが少なく、タクシーはスムーズに進んだ。タクシー内で僕らは無言だった。田中の店で過去の話を出し尽くしてしまったのだ。お互いに通り過ぎる東横線沿線の街並みを眺めていた。

 僕はこの再会を喜んでいたし運命を感じていた。田中の店に入り、知花を見た時の胸の高鳴りはこの十年間感じたことのないもので、僕はすでに二度目の恋に落ちていた。この人生の物足りなさを埋めてくれるのは彼女しかいないと。

 しかし十年の空白が僕を躊躇させてもいた。いや、やっと再会できたのに彼女の今に自分が必要ではなかった時の絶望が怖かったのだ。

 それでも、今を聞かなくては進展しない。僕は窓の外の景色を眺めているふりをして、話しかけるタイミングをずっと探していた。

 タクシーが五本木の交差点を通り過ぎる時、不意に懐かしい記憶に包まれた。交差点を左折すると、三宿に辿り着く。あの時の苦い記憶が蘇った。もしもまた知花と付き合えるのならあの頃のような思いはしたくない。いやきっと今の自分ならそんなことにはならないはずだ。ちゃんと働いているし、少しは大人になっている。 

 何度も自分に言い聞かせているうちにいつの間にかタクシーは山手通りの交差点の信号に辿り着いていた。この信号を渡って急な坂道を登れば鎗ヶ崎の交差点に着く。そして僕は彼女を残してタクシーを降りることになる。時間はそう残されてはいなかった。

 窓の外を眺める美しい横顔に僕は勇気を出して言った。

「連絡先、変わってる?」

 確信を聞くよりも少し距離を縮めようと思った。いや、いきなり結婚をしているかとか、彼がいるかと聞く度胸がなかっただけだ。すると知花が笑みを浮かべて言った。

「変わってないよ」

「じゃあ、お店に行く時に連絡してもいいかな?」

「うん。待ってるね」

 鎗ヶ崎の交差点に着くとタクシーを降りた。

「じゃあ」

「うん」

 十年前。この場所で僕達は別れた。とても未熟だった僕は一人で胸を焦がして、知花を幻滅させてしまった。しかし今日、こうして僕達は再会した。これこそ運命なんだ。あの時の別れはこの時のためにあったんだ。

 知花が乗ったタクシーのテールランプが見えなくなるまで見つめながら、僕は望んでいた機会の到来に喜びを噛み締めていた。

 しかし我に帰り見慣れた交差点を眺めると少し不安になった。十年前の記憶にある交差点と、目の前の交差点には何も変わりがないことに気づいたからだ。信号や横断歩道の色や形や垣間見える空の景色も。そしてビルに描かれた、笑っている表情のパンダのイラストも。

 僕は十年前の自分より本当に成長しているのだろうか。何も変わらないままだとしたら、知花との結末は同じものになってしまうのではないか。一抹の不安と自信のなさをどうにか押し止めながら、僕は代官山へ続く坂を登った。

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