第15話 ノクス・テスタ・アリエ
「こちらです」
案内係が大きな扉の前で止まった。
「最上級天使様がお待ちです」
「……はい」
少し緊張する。
「失礼のないようお願いいたします」
「分かってます」
「では」
扉が開く。
「失礼します」
中へ入ると、想像していたよりずっと広い部屋だった。
奥には大きな机があり、その周囲では何人もの天使が書類を持って動き回っている。
何となく、その天使たちの手を見る。
手の甲には、俺と同じように銀色の文字が浮かんでいた。
全員、上級天使らしい。
ここにいるだけで、今までいた場所とは格が違うのが分かる。
そして中央には、ひときわ強い光を放つ天輪を浮かべた天使がいた。
見た目は四十代くらいだろうか。
背が高く、細身。
黒に近い濃い髪をきっちりと後ろへ流している。
少し細い目には落ち着いた光があり、白い天装にも乱れ一つない。
背中に広がる翼も、今まで見てきた天使より少し大きかった。
姿勢もよく、表情もほとんど動かない。
いかにも頭が切れそうな、理知的な雰囲気だ。
最上級天使。
見るからに偉い。
いかにも天界の上層部という感じで、正直ちょっと怖い。
こういう人は冗談なんか言わないんだろうな。
必要なことだけ話して、すぐ終わる。
俺が入ってきたことに気づくと、その天使がこちらを見た。
「来たか、フンノシエル」
「……はい?」
まだ俺は名乗っていない。
思わず少し驚いた。
「まず名乗っておこう」
「はい」
「私はノクス・テスタ・アリエ。最上級天使の一人だ。静寂と休息を司っている」
「休息……」
思わず、その言葉に反応した。
「どうした?」
「いえ」
休息。
いい言葉だ。
ここ数日で、俺はその言葉が大好きになった。
というか、最近ではトイレに入っただけで安らぎを感じるようになっていた。
仕事場で唯一、ほんの少しだけ仕事から離れられる場所だったからだ。
外には誰か待ってたけど。
「……トイレ行きたいな」
「何か言ったか?」
「何でもありません」
今はそんなことを考えている場合じゃない。
ノクスの表情が少し真面目になった。
「フンノシエル」
「はい」
「お前は、本来一昨日ここへ来る予定だったな」
「……はい」
「なぜ来なかった?」
さすがに声の調子が変わった。
俺も姿勢を正し直す。
「忘れてました」
「随分はっきり言うな」
「仕事してたんです」
「世界管理局で、だな」
「はい」
「それは報告を受けている」
「じゃあ仕方なくないですか?」
「約束を忘れていい理由にはならん」
「……すみません」
そこは普通に怒られた。
「配属された日に課長が倒れて、俺が課長代理になって、そのままずっと仕事してまして」
「それも聞いている」
「寝てないし、まともに飯も食ってないし、途中から何日目なのかもよく分からなくなってました」
「なるほど」
「気づいた時には、もう完全に過ぎてました」
ノクスは少し考えたあと、うなずいた。
「事情は分かった」
「怒ってます?」
「約束を忘れたことについては注意しておく」
「はい」
「だが、あの勤務状況であれば、お前だけを責めるつもりもない」
「よかった……」
ただ、「あの勤務状況」と言われたのが少し気になった。
なんとなく嫌な予感がする。
「次からは、来られない場合は連絡だけでも入れろ」
「分かりました」
まともだ。
普通にまともな話をしている。
最上級天使だから、どんな恐ろしい相手かと思っていたけど、ちゃんと話が通じる。
それに、俺の名前を聞いても笑わなかった。
やっぱり普通の天使とは違う。
レグエル課長ほどではないけど、この人もかなりまともそうだ。
「ただし」
「はい?」
「何の罰もなし、というわけにはいかんな」
「罰!?」
「安心しろ」
ノクスが少し笑った。
「私は最上級天使の中でも、かなり優しい方だ」
「本当ですか?」
「ああ。だから今回は軽いもので済ませてやる」
「よかった……」
俺はほっとした。
ノクスが俺を見る。
そして、頭を見る。
「カッパシエル」
「フンノシエルです!」
反射的に叫んだ。
「しばらくそう呼ぶ」
「それが罰なの!?」
「軽いだろう?」
「どこが!」
周囲にいる上級天使たちの肩が少し震えた。
「笑うな!」
俺は周りを見渡して抗議する。
「まだ笑っておりません」
「まだって言ったよね!?」
さっきまでの理知的な雰囲気はどこへ行った。
全然違うじゃねえか。
ノクスが俺の頭を見る。
「報告にはあったが、実際に見るとなかなかだな」
「報告?」
「ああ」
ノクスが机の上から一枚の書類を取った。
「世界管理局から、お前の勤務中の報告書が届いている」
「そんなのあるんですか?」
「かなり詳しいぞ」
「……やっぱり嫌な予感が当たった」
「読み上げてやろう」
「いや、別にいいです」
「遠慮するな」
「遠慮じゃない!」
ノクスが書類へ目を落とす。
「『対象、フンノシエル。連続勤務による疲労が蓄積』」
「そこは普通ですね」
「『休憩時間の増加を複数回要求』」
「当たり前だろ! いえ、当たり前でしょう!」
「『三分の休憩では不足を訴え、五分への延長を希望』」
「そこまで書いてあるの!?」
一人の上級天使が顔を背けた。
「おい、笑うなよ!」
「まだ続きがある」
「もういいですって!」
ノクスは気にせず読み続ける。
「『勤務中、便所へ向かうことを希望する頻度が増加』」
「待って! やめて!」
周囲が静かになった。
嫌な静かさだった。
「『本人は便所内に安らぎを感じていた様子』」
「誰だそんなこと報告したの!?」
ノクスが報告書から顔を上げ、俺を見る。
「便所に安らぎを感じるとは。さすが、真のうんこだな」
「……え?」
「何でもない」
「いや、よくないですよ!」
俺はノクスを見る。
「前にも、俺の名前を見た天使に、似たようなこと言われたことがあるんですけど」
「ほう」
「何か意味があるんですか、この名前」
「……お前」
「はい?」
「自分の名前の意味を知らないのか?」
「知りませんよ!」
「そうか」
ノクスは楽しそうに笑った。
「そうかじゃないですよ! 教えてくださいよ」
「まあ、そのうち分かる」
「今教えてくださいよ!」
「話を戻すぞ」
「勝手に戻すな!」
ノクスは何事もなかったように報告書へ目を落とした。
もうこの人にいちいち丁寧に話す気がなくなってきた。俺はそう思った。
「『世界管理局内において、便所が本人にとって数少ない精神的休息場所となっていた可能性あり』」
「分析までされてる!」
何なんだ、その報告書。
俺の仕事ぶりを報告する書類じゃないのか。
「これは面白いな」
「面白がるな!」
「静寂と休息を司る私としては興味深い」
「そんな方向から興味持たないでください!」
「まだあるぞ」
「もう読まなくていい!」
「『長時間勤務による精神的疲労、およびストレスが原因と推測される脱毛を確認』」
「やめろ!」
ノクスの視線が、ゆっくり俺の頭へ移った。
「『特に頭頂部の脱毛が顕著』」
「読むなって!」
「『外見上――』」
「そこから先は絶対読むな!」
ノクスが止まった。
「……」
「……」
「読みたい」
「駄目!」
「報告書だからな」
「関係ない!」
ノクスが読み上げた。
「『頭頂部のみ毛量が減少し、河童に類似した状態となっている』」
「誰が書いたんだよそれ!!」
「ぶっ!」
ついに側近の一人が吹き出した。
それをきっかけに、
「ふっ……」
「くっ……」
「……申し訳、ありません」
周囲にいた上級天使たちが次々に顔を背け、笑い声が広がった。
「笑うな!」
「お前たち」
ノクスが側近たちを見る。
「失礼だぞ。本人は真剣なんだから」
「そうですよ!」
俺もすぐに同意した。
「便所に安らぎを求めるほど追い詰められていたんだぞ」
「言わなくていい!」
「そしてストレスによって頭頂部が――」
「もう一回言おうとするな!」
ノクスも側近たちも、皆、肩を震わせている。
「あなたも笑ってるじゃねえか!」
「すまん」
「さっき一番優しいって言いましたよね!?」
「ああ」
「どこが!?」
「カッパシエルで済ませている」
「全然優しくねえよ!!」
俺の声が部屋に響いた。
周囲の上級天使たちは、まだ笑いを堪えている。
ノクスも口元を押さえていた。
「……まあ、この話はこのくらいにしておこう」
「最初からしないでくださいよ……」
ようやく終わった。
俺は大きく息を吐く。
「じゃあ、天冠をお願いします」
「ん?」
「俺、それを受け取りに来たんですよね?」
「ああ、そうだ」
「これまでの話、天冠の授与に必要だったんですか?」
「いや」
「必要なかったの!?」
ノクスがあっさり答えた。
「報告書を読んだら面白そうな奴だったのでな。少し遊んでみたかった」
「遊ぶなよ!」
「天冠の授与自体は、すぐ終わる」
「そうなの?」
「ああ。本来なら名前を確認して、授けて、それで終わりだ」
「じゃあ早く始めてくださいよ!」
「分かった」
ノクスが報告書を閉じた。
「では、天冠の授与に移る」
「お願いします……」
やっとだ。
ようやく本来の用事が始まる。
ノクスが手を伸ばすと、側近の一人が小さなものを持ってきた。
「これが天冠だ」
「天冠……」
見た目は、細かい装飾の入った小さな金色の冠だった。
「本来なら、名前を確認して、これを授けて終わりだ」
「本当にすぐ終わるじゃないですか……」
「だから言っただろう」
「今までの時間、何だったんだよ……」
「楽しかったぞ」
「俺は全然楽しくなかったです!」
「態度」
「……すいません」
また頭を下げた。
周囲から小さな笑い声が聞こえる。
「では、フンノシエル」
「はい」
「頭を下げろ」
「お願いします」
俺は少し頭を下げた。
ノクスが天冠を持ち上げ、頭の上へゆっくり載せる。
「……」
ずるっ。
天冠が滑った。
ぽとっ、と床へ落ちる。
「……」
部屋が静かになった。
「今、落ちました?」
「落ちたな」
「何で?」
ノクスが俺の頭を見る。
「引っかかるものがない」
「言うな!」
「申し訳ありません」
側近の一人が耐えきれず顔を背けた。
「お前、今笑っただろ!」
「笑っておりません」
「肩震えてるぞ!」
ノクスまで口元を押さえている。
「あなたも!」
「すまん」
「笑ってるじゃねえか!」
「いや、まさか天冠が滑り落ちるとは」
「俺だって知らなかったよ!」
「もう一度やるぞ」
「ちゃんと押さえててください」
「分かった」
今度はノクスが天冠をしっかり押さえた。
「では」
天冠が金色の光を放った。
「おお……」
今まで見たことのないくらい強い光が、俺の頭の上を包み込む。
やがて天冠そのものが少しずつ透明になっていった。
「消えてる?」
「そのままでいい」
天冠が完全に光へ変わり、その光が俺の天輪へ吸い込まれていく。
「……!」
天輪が光った。
今までより明らかに大きく、明るくなっている。
「おお……」
これは、ちょっと格好いい。
上級天使。
シエル級。
ようやく、それらしくなった気がする。
「これで天冠の授与は完了だ」
「……終わり?」
「ああ」
「本当に?」
「今度こそ本当に終わりだ」
「よかった……」
「天輪を見てみろ」
俺は近くの光沢のある壁を見る。
そこには俺の姿と、頭の上で強く輝く天輪が映っていた。
「……」
確かに天輪は立派になった。
光も強い。
ただ、その強くなった光が、薄くなった俺の頭頂部に反射している。
「……」
周りが静かだった。
「何?」
「……」
「何だよ」
「ふっ」
誰かが吹き出した。
次の瞬間、周囲の上級天使たちが一斉に顔を背ける。
天輪の光が頭頂部に反射して、そこからさらに光っているように見えるらしい。
笑いを堪えきれなくなった天使たちの声が、一気に部屋中へ広がった。
「また笑った!」
「お前たち、笑うな!」
ノクスが周囲の上級天使たちをたしなめた。
「本人が気にしているんだ。笑うのは失礼だぞ」
「そうですよ!」
俺も抗議した。
「だから、お前たちも……ふっ」
「……」
「ははははは!」
「結局あんたが一番笑ってるじゃねえか!」
「すまん……」
「全然反省してない!」
「いや、天輪が明るくなったせいでな」
「何?」
「頭まで光って見える」
「言うな!」
俺は頭を押さえた。
押さえても意味はない。
天輪は頭の上。
光も止まらない。
「ゴゴゴ・ザ・シャインに見られたら絶対笑われる……」
「シャイン?」
「知り合いです」
「その名前も大概だな」
「俺もそう思います」
ノクスがようやく笑いを収めた。
「これで、上級天使として必要な手続きは済んだ」
「はい」
「今後、必要な場面ではその権限を使える」
「分かりました」
「職務に励め」
「はい」
ようやく終わりらしい。
「じゃあ、今度こそ使者部門へ行きます」
「ああ。頑張れ」
「はい」
俺は扉へ向かう。
「フンノシエル」
「……何ですか?」
嫌な予感がして、振り返った。
ノクスが楽しそうに笑っている。
「また遊びに来い」
「嫌です」
「即答するな」
「今日だけで十分です」
「そうか?」
「そうです」
ノクスは少し残念そうに笑った。
「では、次の報告書を楽しみにしておこう」
「楽しみにするな!」
「使者としてのお前の活躍を期待しているぞ」
「それだけならありがたいんですけどね!」
「面白い報告が届くことも期待している」
「やっぱりそっちも入ってるじゃねえか!」
周囲の上級天使たちから、また笑い声が漏れた。
「まあ、頑張れ」
「はい……」
「また遊びたくなったら、こちらから呼ぶかもしれん」
「絶対呼ぶな!」
思わず叫んだ。
「……」
ノクスが俺を見る。
「最上級天使に対する態度ではないな」
「……すいません」
俺はすぐに頭を下げた。
また笑い声が上がる。
「では、期待しているぞ。フンノシエル」
「はい……」
俺は今度こそ扉を開けた。
「それと」
「まだあるんですか!?」
「その頭、大事にしろよ」
「余計なお世話だ!」
扉を閉めた。
天冠はもらった。
天輪も立派になった。
上級天使として必要な手続きも終わった。
これでようやく、次の仕事へ進める。
それはいい。
ただ、最上級天使に完全に顔と名前を覚えられてしまった。
しかも、あまりよくない覚えられ方で。
「……もう呼ばれませんように」
俺はそう願いながら、再び通常区画へつながる黄金の扉へ向かった。




