第10話 辞表
二百二十八時間。
その数字を聞いた時には、もうほとんど決めていた。
レグエル課長は、一週間戻ってこない。
それを聞いた時点で、俺はもう逃げることを考え始めていた。
課長が戻ってくれば。
俺一人で全部やらなくて済む。
休める。
寝られる。
帰れる。
それだけを希望にして、ここまで耐えてきた。
それなのに。
課長は来ない。
身体はもう限界だった。
それでも、レグエル課長に頼まれた手前、百時間くらいなら何とか耐えようと思っていた。
あと四十時間ほど。
それを乗り切れば、さすがにゆっくり休めると思っていた。
なのに。
あと四十時間だったはずが。
一気に百六十八時間。
合計、二百二十八時間。
「……もういい」
未練はなくなった。
この職場から逃げる。
俺は、そう決めた。
それでも。
俺は仕事をしていた。
「課長代理、こちらをお願いします」
「……はい」
資料を受け取る。
町。
川。
山。
道路。
人口。
気候。
生活圏。
読む。
覚える。
……ふりをする。
「……」
頭の中にあるのは、もう仕事じゃない。
いつ逃げる。
どうやって逃げる。
そればかりだった。
俺は資料を広げたまま。
机の引き出しを、少しだけ開ける。
紙を一枚取り出した。
資料の陰に隠す。
ペンを持つ。
『辞』
「課長代理」
「はい!」
慌てて紙を資料の下へ隠した。
セリエルがこちらを見ている。
「先ほどの資料は、もう覚えられましたか?」
「え?」
「覚えられたのでしたら、領域支配をお願いいたします」
「ああ……」
まずい。
「まだ、ちょっと終わってない」
「そうですか」
セリエルが資料を見る。
「また少し時間がかかっていますね」
「……すみません」
「もう少し急いでお願いいたします」
「はい……」
セリエルが離れていく。
「……」
よし。
俺はもう一度、資料の下から紙を出した。
『辞 表』
書く。
時々。
資料を見る。
覚えているふりをする。
また紙へ目を落とす。
『世界管理の仕事を辞めます』
「……」
理由。
少し考えてやめた。
書き始めたら、たぶん長くなる。
もうこれでいい。
「課長代理」
「はい!」
また紙を隠す。
「まだですか?」
「もうちょっと」
「分かりました。ですが、できるだけ早くお願いいたします」
「はい……」
セリエルが離れる。
「……」
完全に。
仕事をしているふりをしながら辞表を書いていた。
俺は資料を一枚めくる。
少し読む。
辞表を書く。
また資料を見る。
また辞表を書く。
そしてようやく。
「……できた」
辞表が。
領域支配じゃない。
辞表が完成した。
「……」
さて、どうする。
このまま立ち上がって部屋を出れば。
絶対に誰かがついてくる。
休憩と言っても案内される。
飲み物なら持ってこられる。
俺が自分でこの部屋から出られるのは。
「……トイレか」
たぶん、それしかない。
トイレなら。
一応、外へ出られる。
もちろん誰かはついてくるけど。
中で一人になれれば。
逃げる隙があるかもしれない。
「……よし」
次にトイレへ行く時だ。
そこで逃げる。
「課長代理」
「はい?」
一般天使が天域盤を持って立っていた。
「資料は覚えられましたか?」
「……」
俺は机を見る。
さっきまで辞表を書くために使っていた資料。
まだ全部は覚えていない。
「もう少し」
「分かりました」
一般天使が少し離れる。
「……」
今すぐトイレと言って逃げたい。
でも。
ここで仕事を途中にしたまま立ったら。
セリエルに何を言われるか分からない。
一般天使にも変に思われるかもしれない。
だったら。
「……これだけ終わらせるか」
最後の一件。
これだけはやる。
俺は資料を読む。
今度はちゃんと読む。
町。
川。
山。
道路。
人口。
気候。
生活圏。
頭に入れる。
さっきまで逃げることばかり考えていたせいで。
なかなか集中できない。
「……違う。こっちか」
確認する。
もう一度覚える。
しばらくして。
「課長代理?」
セリエルの声がした。
「はい?」
「まだでしょうか?」
「もう少し」
「先ほどから少し時間がかかっております」
「……すみません」
「できるだけ急いでお願いいたします」
「はい。頑張ります」
素直に答えた。
ここで余計なことを言う必要はない。
もう。
これが最後なんだから。
「……よし」
資料を閉じる。
「覚えた」
「では、お願いいたします」
「はい」
一般天使が天域盤を持ってくる。
俺は右手をかざした。
目を閉じる。
町。
川。
山。
道路。
境界。
頭の中に区域を作る。
精神を集中する。
『領域支配完了』
「ありがとうございます!」
「……どういたしまして」
終わった。
本当に、これが最後だ。
一般天使が天域盤を持って離れていく。
「……」
俺は机の引き出しを、少しだけ開けた。
中に。
さっき書いた辞表を入れる。
その上に天使札を置いた。
「……これでいい」
今見つかる必要はない。
俺がいなくなってから見つけてくれればいい。
引き出しを閉める。
そして。
何でもない顔をして。
「セリエル」
「はい?」
「トイレ行ってくる」
セリエルがこちらを見た。
「またですか?」
「……またって」
「先ほども行かれていたかと」
「何時間前だよ」
「それほど経っておりませんが」
「いいだろ、トイレくらい!」
というか。
ここしか外に出してもらえないんだよ。
「すぐ戻るから」
「分かりました」
セリエルが一般天使を見る。
「ご案内をお願いします」
「はい」
「……」
やっぱり、一人では行かせてくれない。
「……」
こいつら。
やっぱり俺を見張ってるんじゃないか?
俺が逃げ出さないように。
たぶん。
いや、もう間違いない。
でも、それでいい。
ここからだ。
俺は立ち上がった。
これが、この部屋から出る最後になる。
そう決めて。
俺は一般天使と一緒に、課長代理室を出た。




