第9話 二百二十八時間
三度目の夕方。
疲れた精神と身体で仕事を続ける。
資料。
暗記。
領域支配。
次。
また資料。
また暗記。
頭がぼんやりしてくる。
「……」
セリエルを見る。
何か大きな半透明の板を操作していた。
机の上に置いてあった板へ指先で触れる。
すると。
ふわり。
板が宙へ浮いた。
淡い光が走り、
表面に文字が浮かび上がる。
「……それ何?」
思わず聞いた。
「これですか?」
セリエルがこちらを見る。
「天信盤のことですか?」
「天信盤?」
「はい」
「そういう名前なんだ」
見覚えはあった。
新人教育の時。
ララエルも使っていた。
仕事案内所でも、
似たものを見たことがある。
ただ、
名前までは知らなかった。
「仕事の連絡に使うやつ?」
「はい」
「へえ……」
「課長代理の天信盤もございますよ」
「俺のも?」
「はい。机の中に入っております」
「どれ?」
引き出しを開ける。
奥に、
同じような半透明の板が入っていた。
「あ。本当にある」
「課長代理用です」
取り出してみる。
結構大きい。
軽く表面へ触れる。
ふわっ。
「おお」
天信盤が目の前へ浮かんだ。
淡い文字が現れる。
『世界管理局・気象管理部・雨雪管理第十七課』
その下。
『課長代理 フンノシエル』
「……ここでも名前出るのか」
まあ。
俺のだから当たり前なんだけど。
指で文字へ触れてみる。
表示が変わった。
「結構便利だな」
「業務上の連絡でしたら、こちらで確認できます」
「みんな持ってるの?」
「いいえ。業務上必要な部署や役職に用意されております」
「普通の連絡は?」
「手紙が多いですね」
「へえ」
少し触ってみる。
表示を変える。
戻す。
また浮かせる。
操作自体は、
そこまで難しくなさそうだ。
「……ん?」
そこで。
ふと思い出した。
「セリエル」
「はい?」
「課長」
最近。
俺の頭の中にあるのは、
ほとんどそれだった。
「レグエル課長ですか?」
「うん」
俺は天信盤を机へ戻した。
「課長、どうなった?」
「ああ。その件でしたら」
セリエルが、
自分の天信盤を見る。
「先ほど療養所から連絡が入っております」
「本当?」
俺は思わず身を乗り出した。
待っていた。
ずっと。
この話を待っていた。
「いつ戻ってくるって?」
課長が戻ってくれば。
俺は休める。
この生活も終わる。
そう思っていた。
セリエルは、
少し申し訳なさそうな顔をした。
「精神的な疲労がかなり蓄積しているそうです」
「うん」
「しばらく休養が必要とのことでした」
「しばらく?」
嫌な予感がした。
「どのくらい?」
「一週間ほどです」
「……」
一週間。
「……一週間?」
「はい」
「戻ってこないの?」
「はい」
「……」
頭の中が、
一瞬で真っ白になった。
課長が戻れば。
それだけで頑張っていた。
なのに。
「じゃあ……」
声が出にくかった。
「その間は?」
「フンノシエル課長代理にお願いいたします」
「……」
セリエルは、
申し訳なさそうに頭を下げた。
「課長がお戻りになるまで」
「……うん」
「百六十八時間ほど、勤務をお願いいたします」
「……」
百六十八。
「……何時間?」
「百六十八時間です」
「……」
俺が呆然としていると、セリエルが少し首を傾げた。
「もしかして、計算が間違っていると思われましたか?」
「……」
「七日ですから……百六十八時間。はい、間違っておりません」
「……」
違う。
そこじゃない。
「それと、百六十八時間というのは今日からですので」
「……え?」
「これまでの勤務時間が、およそ六十時間ですから」
セリエルが少し考える。
「合わせますと、二百二十八時間ほどになりますね」
「……」
二百二十八。
「……二百二十八時間?」
「はい」
「……」
百六十八時間で驚いていたら。
増えた。
二百二十八時間になった。
俺は。
何も言えなかった。
さっきまで覚えていた町も。
山も。
道路も。
全部。
頭の中から全て消えた。
残ったのは。
二百二十八時間。
その数字だけだった。




