第6話 この天使が悪魔に見えてきた
とうとう朝になった。
正確には、
俺が仕事を始めてから二度目の朝だった。
「課長代理、おはようございます!」
「おはようございます!」
「本日もよろしくお願いいたします!」
日勤の天使たちが、元気よく課長代理室へ入ってくる。
昨日の夕方に帰っていった連中だ。
夜勤組と交代して、ちゃんと家に帰った。
ちゃんと休んだ。
そして元気になって戻ってきた。
「皆さん、おはようございます」
隣から、明るい声がした。
セリエルだった。
「今日もよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いします!」
「……」
こいつも元気だった。
昨日から一度も帰ってないよな?
俺と一緒に、ずっとここにいたよな?
寝てもいない。
ほとんど休憩もしていない。
なのに。
なんでそんな爽やかなんだ。
「フンノシエル課長代理」
「はい」
「こちらをお願いします」
朝一番。
机の上に資料が置かれた。
「もう?」
「はい」
写真。
地図。
人口。
町。
道路。
山。
川。
気候。
新しい情報。
「こちらの区域は初めてですね」
「うん」
「では、基礎情報からお願いします」
「……はい」
読む。
覚える。
写真を見る。
地図を見る。
もう一度読む。
頭の中で地域を作る。
天域盤に右手をかざす。
目を閉じる。
町。
川。
山。
道路。
境界。
集中する。
右手の銀色の文字が光る。
『フンノシエル』
精神力を流す。
そして。
『領域支配完了』
「できた……」
「ありがとうございます」
担当天使が天域盤を持っていく。
「では次です」
「もう?」
「はい」
別の天使が待っていた。
その手には、
別の天域盤。
別の資料。
「こちらをお願いいたします!」
「……はい」
一人終わる。
次が来る。
そいつが終わる。
また次が来る。
机の上の資料は、
なぜか全然減らない。
「これ、さっきより増えてない?」
「三件追加されました」
「俺、一件しか終わってないんだけど」
「はい」
「追いつかなくない?」
「頑張りましょう」
「精神論で解決するの?」
セリエルは笑顔だった。
悪意はない。
本当に頑張れば何とかなると思っている顔だ。
だから余計に怖い。
「……ちょっと聞いていい?」
「はい」
「レグエル課長も、ずっとこんな感じだったの?」
「もちろんです」
「もちろんなんだ」
「レグエル課長は非常に優秀な方でしたので、もっと多くの案件を処理されていました」
「もっと?」
「はい。領域支配にも慣れておられましたので」
「夜も働いてた?」
「処理しきれない場合は」
「結構?」
「かなり」
「……」
だから倒れたんじゃないのか。
「連続勤務って、どのくらいやってたの?」
「二百時間程度でしたら、珍しくありませんでした」
「二百時間!?」
思わず資料を落としかけた。
「それ、八日以上じゃん!」
「はい」
「寝ずに?」
「ほぼ」
「休みなし?」
「多少の休憩は取られていました」
「どのくらい?」
「三分から五分程度を何度か」
「それ休憩って言わねえよ!」
セリエルは少し不思議そうな顔をする。
「天使ですので」
「出た」
「死にません」
「だからって働かせていいわけじゃないだろ!」
「肉体的には大きな問題になりませんよ」
「精神的に問題が起きて、今療養所にいるんだよね!?」
「はい」
「自分で答え出してるじゃん!」
セリエルは少し考えた。
「では、フンノシエル課長代理には二百時間は難しいですか?」
「無理!」
即答した。
「分かりました」
「分かってくれた?」
「着任されたばかりですし」
「うん」
「百時間にしましょう」
「なんで半分にしたら大丈夫だと思った!?」
「百時間勤務された後、半日ほど休んでいただければ」
「百時間働いて半日!?」
「かなり配慮しております」
「どこが!?」
「レグエル課長には、この程度の配慮は必要ありませんでしたので」
「前課長を基準にするな!」
俺は頭を抱えた。
「もう少し普通の働き方できない?」
「普通?」
「八時間くらい働いて帰るとか」
セリエルが黙った。
「……何、その顔」
「それでは業務が終わりません」
「即答しないで!」
「領域支配は上級天使にしかできませんので」
「分かってるけど!」
「一般天使の皆さんは交代で勤務しております」
「俺も交代させてよ!」
「交代できる上級天使がおりません」
「それだよ!」
そこだ。
一番の問題はそこだ。
一般天使は帰る。
夜勤組と交代できる。
でも。
俺の代わりはいない。
「……」
ただ。
レグエル課長が戻ってくれば、
上級天使は二人になる。
そうなれば。
少なくとも今よりは楽になるはずだ。
たぶん。
「……休憩」
「はい?」
「とりあえず休憩させて」
「先ほど五分休まれましたが」
「何時間前の話だよ!」
セリエルが時計を見る。
「仕方ありませんね」
「仕方なくかよ」
「では、三分ほど」
「また三分!?」
「前回五分でしたので」
「帳尻合わせるな!」
それでも。
休めるだけましだ。
「分かった。三分でいい」
「承知しました」
俺は立ち上がった。
「どちらへ?」
「トイレ」
「承知しました」
課長代理室を出る。
廊下を歩く。
男子トイレへ。
今度は案内されなくても、
場所くらい分かる。
中へ入る。
個室へ。
扉を閉める。
「……」
静かだ。
誰もいない。
仕事もない。
資料もない。
天域盤もない。
「ここが一番落ち着くな……」
天界に来て。
まさか男子トイレに安らぎを感じるとは思わなかった。
しばらくぼんやりする。
コンコン。
「……」
聞こえなかったことにした。
コンコン。
「フンノシエル課長代理?」
「はい!?」
男の声だった。
「第一係長です」
「分かってるよ!」
「次の案件についてですが」
「俺、今トイレ!」
「承知しております」
「じゃあ後にして!」
「分かりました」
少し安心した。
「終わりましたら、お声がけください」
「はい!」
足音が遠ざかる。
「……まったく」
もう少しくらい、
ゆっくりさせてくれ。
コンコン。
「また!?」
「課長代理」
今度は。
聞き慣れた女性の声だった。
「……」
「課長代理?」
「ここ男子トイレなんだけど!」
「存じております」
「何で来たの!?」
「休憩時間が終了しておりますので」
「トイレ中だよ!」
「三分を超えております」
「トイレは休憩に含めるなよ!」
「案件が三件ほど溜まっております」
「俺がトイレ入ってる数分で!?」
「はい」
「少し待って!」
「どのくらいでしょうか?」
「それ聞く!?」
「急ぎの案件が一件ございますので」
「急かすなよ!」
「分かりました」
一瞬。
静かになった。
分かってくれたか。
「では、急ぎの案件だけ内容を読み上げますね」
「ここで仕事始めるな!」
扉越しに資料を読み始めようとするセリエルを、
必死で止めた。
「終わったら行くから!」
「承知しました」
「今度こそ待って!」
「はい」
足音が遠ざかる。
「……」
落ち着かない。
全然落ち着かない。
飯を食う時間もない。
寝る時間もない。
休憩は三分。
その三分すら、
トイレまで追ってくる。
「……ブラックじゃない」
もっとひどい。
「暗黒だろ、ここ……」
◇◇◇
入口でずっと待っていた一般天使とともに、課長代理室へ戻る。
「お戻りになりましたか」
「戻ったよ……」
セリエルが待っていた。
「では、先ほどの急ぎの案件からお願いいたします」
「はい……」
仕事が再開する。
資料。
暗記。
領域支配。
「次はこちらです」
「はい」
追加情報。
「こちらもお願いします」
「はい」
領域支配。
『領域支配完了』
「ありがとうございます」
「はい……」
一件終わる。
「では次です」
「はい……」
なんだろう。
さっきから、
俺の返事が全部同じになってきた。
「フンノシエル課長代理」
「何?」
「こちらもお願いします」
「はい」
セリエルは相変わらず元気だった。
淡い金色の髪も、ほとんど乱れていない。
白い天装も、相変わらずきっちりしている。
薄い青の瞳で、いつものように穏やかに俺を見ていた。
俺と同じだけ働いているはずなのに。
「……セリエル」
「はい?」
「本当に疲れてないの?」
「疲労はありますよ」
「あるんだよね?」
「はい」
「じゃあ、なんでそんな平気そうなの?」
「特に苦痛ではありませんので」
「苦痛じゃないの!?」
「仕事ですから」
「それで済ませるの!?」
セリエルは不思議そうに首を傾げた。
「課長代理だけに無理をさせるつもりはありません」
「それ、昨日も聞いた」
「はい」
「俺、ちょっと期待したんだよ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「私も課長代理とご一緒いたしますので」
「勤務を?」
「はい」
「休憩じゃなくて?」
「はい」
「寝るんじゃなくて?」
「はい」
「……」
真顔だった。
本気だ。
こいつは。
本気で俺を支えているつもりなんだ。
白い天装。
頭上の天輪。
淡い金色の髪。
薄い青の瞳。
丁寧な言葉遣い。
穏やかな笑顔。
どこからどう見ても、
天使だった。
悪意だって、
たぶん一つもない。
「課長代理」
「……何?」
「次はこちらです」
また資料を差し出された。
「……」
見た目は天使。
間違いなく天使。
なのに。
この天使が。
少しずつ、
悪魔に見えてきた。




