第9話:引きこもり魔女、王都デートを強いられる
王宮の一室をあてがわれてから数日。
リリアーナの治療は、エルの事前の予測通り、毎日少しずつ黒い瘴気を削り取る形で順調に進められていた。命の危険はすでに脱し、彼女の顔色や呼吸は日に日に安定を取り戻しつつある。
――だが、問題があった。
「……暇だ」
豪華な天蓋付きベッドの上で、エルは盛大に大の字になってゴロゴロと転がっていた。 一日の中でリリアーナの治療にかかる時間は、集中してもせいぜい一、二時間程度。宮廷医師団が顔を真っ青にして準備した最高級の防音・浄化設備が整った一室で、手際よく邪気を祓い終えてしまえば、残りの時間は完全に「自由行動」だった。
最初は「ここは王宮! 一歩間違えたら打ち首の最前線! 慎ましく生きなきゃ……!」と全身の毛穴から冷や汗を噴き出させていたエルだったが、人間、環境への適応能力とは恐ろしいものである。
数日も経てば、「お城の廊下、ピカピカで雑巾掛けのしがいがありそうだな……」「庭園のあの珍しい薬草、ちょっとだけ採取して自分の調合に使っても怒られないよね?」などと、すっかり引きこもり気質の悪癖が頭をもたげ始めていた。
(うずうずする……! 薬草をすり潰したい! 新しい毒消しの調合実験がしたい! あるいは、このだだっ広い王宮の裏庭を耕してハーブ園に改造したい……!)
静寂の森で「孤独最高、スープが美味い」とマイペースに暮らしていたインドア魔女にとって、やるべきことがない贅沢すぎる環境は、逆に禁断症状を引き起こす猛毒だった。 エルはベッドの上でエビ反りになりながら、何とかその有り余る衝動を理性でねじ伏せようと必死に格闘していた。……つもりだった。
コン、コン。
静かなノックの音とともに、重厚な扉がスッと開く。 そこに立っていたのは、いつ見ても隙のない端正な身なりをした近衛騎士団長、クロエだった。 リリアーナの経過報告や王宮での不自由がないかを確認するため、彼は毎日この時間にエルの部屋を訪れるのが日課になっていた。
「調子はどうだ、エル」
「あ、クロエさん……お疲れ様です」
エルはベッドからモソモソと起き上がると、胡坐をかいたまま、まるで干からびた魚のような死んだ目を向けた。 そのあからさまに覇気のない姿に、クロエはわずかに眉をひそめる。
「どうかしたのか? 最近ずっと落ち着かない様子だが」
一国の騎士団長として数多の部下や敵の心理を読んできた男の洞察力は伊達ではない。エルとしては「ちゃんとおとなしく引きこもってますけど何か?」という澄ました顔でやり過ごすつもりだったのだが、心の中の「暇だ暇だ薬草すり潰したい病」の叫びが、見事に隠しきれなかったらしい。
「えっ……? わ、私、そんなに落ち着きなかったですか!?」
「あぁ。部屋の中をウロウロしては窓の外を遠い目で見つめ、時々床に這いつくばって何やらブツブツと呪文のようなものを唱えていたと、見張りの衛兵から報告を受けている」
(見張られてたーーー!? 治安維持の網がガチガチすぎて不審者チェックされてる!?)
エルは自分の不審者ムーブを頭から被りたいほどの恥ずかしさに襲われ、カァッと一気に顔を真っ赤に染め上げた。 あまりの分かりやすさに、クロエは思わず小さくふっと息を漏らすと、その整った唇の端を優しく緩ませた。
「そこまで暇を持て余しているなら、言えばよかったものを」
「だ、だって私、お仕事でここに呼んでいただいた身ですし、あんまりわがまま言って嫌われたら困るじゃないですか……!」
ブンブンと激しく首を横に振るエルの左耳で、ぷるると水色のピアスが小さく揺れた。 その子供のように素直でコロコロ変わる豊かな表情を見ていると、クロエの胸の奥がたまらなく愛おしさで満たされていく。記憶を失っていようとも、目の前の少女はあの日のまま、自分の前では決して壁を作らずに感情をさらけ出してくれるのだ。
「嫌うなどあり得ない。……それに、王宮に飽きたというなら、少し外の空気を吸いに行くか?」
「えっ……外の空気ですか?」
パッとエルの瞳が輝いた。 すかさずクロエが差し出したその提案は、引きこもり魔女の退屈を吹き飛ばす、最高すぎる特効薬となるのだった。
「では、ぜひ裏の庭へ!」
エルがキラキラと目を輝かせて提案すると、クロエは「……裏庭?」と、キョトンと綺麗な銀色の眉を丸くした。
「……なぜ裏庭へ? 王都へ来ているのだから繁華街へ買い物に行くものと思っていたのだが……」
「えぇ!? 別に欲しい物なんて何もないですよ。ここには何でも揃っていますし」
確かに、王宮の客室はベッドもソファも最高級品で、生活必需品から何から最初から完璧に用意されている。さらに、部屋の掃除や身の回りの世話をしてくれる専属の侍女まで手配されているのだから、この豪華な部屋の中で大人しく引きこもり生活を送る分には、不自由など何一つなかった。むしろ、インドア派のエルにとってはこれ以上ない極楽環境である。
だが――。
「……女性というものは、買うものがなくても街へ買い物に行き、華やかな雰囲気を楽しむものではないのか?」
「……。私、娯楽とはかけ離れた生活をしてきたもので……」
ふっとトーンを落とし、どこか遠い目をしながら静かに話すエル。
その言葉を聞いた瞬間、クロエはハッと息を呑んだ。
そうだ。彼女はずっとあの深い森の奥で、たった一人で暮らしてきたのだ。
美味しいお酒や可愛い服、流行りのスイーツなんてものとは無縁の、朝から晩まで薬草をすり潰してスープを啜るだけのストイックすぎる引きこもり生活。誰かと街へ繰り出してウィンドウショッピングを楽しむような青春の思い出なんて、あるはずがなかった。
(俺が……彼女に、ちゃんとした「外の世界の楽しみ」を教えてやらなければ……!)
クロエの中で、騎士団長としての使命感とはまた違う、強烈な保護欲とデートプランニングの闘志がメラメラと燃え上がった。いくら快適な王宮とはいえ、このままでは彼女が「王宮=ひたすら部屋で天井を見上げる場所」という悲しい記憶しか持って帰らなくなってしまう。
クロエは意を決するようにスッと背筋を伸ばし、エルの真っ直ぐな瞳を見据えた。
「……それではいけない。王都まで来て、裏の庭の雑草を眺めて終わりというのは、あまりに惜しい」
「えっ、でも……」
「買いたい物がなくても構わない。美味しいお菓子を食べ歩き、賑やかな市場をただ冷かして歩くだけでも、いい息抜きになるはずだ」
クロエのその優しく、しかしどこか有無を言わせぬ真剣な声色に、エルは思わずたじろいだ。
(え……? これって、もしかして……俗にいう「お出かけ」ってやつ……?)
生まれてこの方、誰かと街を並んで歩いた経験など片手で数えるほどしかないエルにとって、「イケメン騎士団長様と二人で王都の繁華街デート」というパワーワードは、キャパシティを軽くオーバーする破壊力を持っていた。
「わ、私なんかと一緒に出歩いて、クロエさんのお仕事の邪魔になりませんか……?」
「今日と明日は、リリアーナ様の経過も安定しているため俺の勤務はオフだ。心配いらない」
「オフって……そんなピンポイントで休みの日を引き当てるものですか!?」
慌てて両手をブンブンと横に振るエルをよそに、クロエはすでに頭の中で完璧な王都エスコート計画を組み立て始めている。
(まずは王都で一番評判のいいハーブティーの専門店か、あるいは焼き立ての甘い菓子が買える露店通りか……!)
「準備ができたら部屋の前で待っててくれ。すぐに出発する」
「ちょ、まっ……! 待ってください、私、着ていく服がこれしか――」
「今のままでも十分に似合っているが……もし必要なら、街の仕立て屋で新しい服でも見繕おう」
「新しく服を買う!? そんな贅沢な……っ!」
半パニック状態になりながらも、エルの胸の奥では、長年眠っていた「未知の世界へのワクワク感」が、じわじわと頭をもたげ始めていた。 そして、左耳で揺れる水色のピアスが、まるで「行ってこい」と背中を押すように、心地よい熱を帯びて小さく共鳴するのだった。
クロエは部屋を出てからほんの数分もしないうちに、驚異的な手際で戻ってきた。
「待たせた。では行こう」
「……全然待ってませんけど。なんなら、部屋を出て秒で戻ってきませんでした? 一体何しに行ったんですか?」
エルがキョトンと首を傾げるのも無理はない。クロエは部屋の外で待機していた護衛に、今日の警護態勢の引き継ぎと、王都の街へ繰り出すための馬車の手配を完璧に済ませてきたのだが、不器用な彼のことだ、それをわざわざ言葉にして可愛く説明するような真似はしなかったのだ。
説明を省いたまま、クロエはすっとエルの側まで歩み寄ると、何の躊躇いもなくその温かな大きな手をそっと伸ばし、エルの細い指先に自分の指を絡ませた。
そして、そのまま優しく腰を落として、至って真面目な顔で告げる。
「――エスコートをさせていただいても?」
「ひぃっ!?」
あまりの急展開に、エルは変な裏返った声を上げて盛大に飛び退いた。
生まれてこの方、男の人にそんな少女漫画のワンシーンのようなセリフを言われたことも、手を取られたこともない。引きこもり魔女の恋愛耐性はゼロどころかマイナスである。どう反応していいか分からず、真っ赤に沸騰した顔のまま後ずさり、首がもげそうな勢いで頭をぶんぶん横に振った。
「む、無理です無理です! 手なんて繋いだら転びそうだし、そもそも私なんかと並んで歩いたらクロエさんの威厳が音を立てて崩れ去ります!」
「崩れなどしないが……」
一方のクロエも、生まれてこの方、女性をエスコートしようとしてこんな文字通りの「野生の小動物リアクション」をされた経験がなかった。
(……? これは純粋な拒絶なのだろうか、それとも恥ずかしがってパニックを起こしているだけなのだろうか……?)
王国最強の騎士団長でありながら、恋愛スキルにおいては完全に初心者マークが取れていないクロエは、エルの必死な拒絶が本気なのか照れ隠しなのか判別できず、ガシッと固まって動けなくなってしまった。
麗しきイケメン騎士団長と、真っ赤になって泡を吹く引きこもり魔女。
廊下の真ん中で手をつないだまま微動だにしない、あまりにもシュールで絶妙に噛み合っていない二人。
そんな異様な空気を盛大に切り裂くように、すぐ傍らの扉から、お腹を抱えて震える別の誰かの声が届いた。
「ふっ……くっ……あはははははっ! これは傑作だな、クロエ!」
「……っ!」
クロエがハッと顔を険しくさせ、エルも慌てて視線を向ける。 そこからひょっこりと姿を現したのは、先ほどまで寝台で眠っていたはずの――見事な金髪を揺らす王太子、シルフだった。
「……殿下」
クロエの低い声には、愛する部下のプライベートな初恋を盛大に目撃されたことに対する、全宇宙を凍らせるような殺気がほんのり混じっていた。
「いや、すまないすまない! 廊下が妙に静かだったものだから気になってな。まさか我が国の最強の盾が、女性の手を取るだけでそこまで挙動不審になっているとは思いもよらなかったよ」
シルフは面白そうに楽しげな笑みを浮かべつつ、ぐったりとしているエルへ優しく声をかけた。
「驚かせてすまないね、エル殿。彼はこう見えて不器用だから、あまりいじめないであげてくれ」
「い、いじめてません! 私が勝手に変な声を出しただけです……!」
王太子を前にして、エルは慌ててペコペコと頭を下げた。 だが、シルフは意味深な笑みを崩さないまま、クロエの肩をポンと軽く叩いた。
「せっかくのオフなのだろう? 王都の街は今、祭りの前でなかなか賑わっている。ふたりとも、堅苦しいことは抜きにして楽しんでくるといい」
「……御意に。では、失礼します」
これ以上王太子に茶化されてはたまらないと判断したのか、クロエはすっと立ち上がると、再びエルの手首を優しく、しかし絶対に逃がさない絶妙な力加減で掴んだ。
「ほら、行くぞ、エル」
「ちょ、引っ張らないでください! 私、心の準備が――!」
こうして、半ば強引にクロエに引きずられるようにして、引きこもり魔女の人生初(?)の王都デートが、盛大なドタバタとともに幕を開けるのだった。




