第8話:熱を帯びる左耳と、明かされない過去
「リリアーナ様、力を抜いて……ゆっくり目を閉じていてくださいね」
エルの穏やかで澄んだ声に促され、リリアーナは微かに震えていた長い睫毛を静かに伏せた。
エルはスーッと深く息を吸い込み、雑念をすべて肺の外へと吐き出した。
片手をリリアーナの胸元へ、そしてもう片方の手を、氷のように冷え切ったその額へとそっと重ねる。
次の瞬間――。
ぽわっ……エルの指先から、森の深い朝露を思わせる、瑞々しく透明なエメラルドグリーンの光が柔らかく溢れ出した。
それは、雨上がりの森に漂う青葉の香り、あるいは太陽を浴びた薬草畑の温かな匂いを纏っていた。光はまるで意思を持つ清らかな泉の水のように、エルの手のひらからリリアーナの透き通る肌へと滑らかに伝い、全身の血管を巡るようにスルスルと広がっていく。
瞬く間に、病床のリリアーナの華奢な体が、新緑のヴェールに包み込まれるように輝き始めた。
(……うわ、すっごい。やっぱり森の魔力、王宮の空気でもちゃんと呼応してくれる!)
エル自身も内心でホッと胸を撫で下ろす。
部屋を支配していたあの息が詰まるような冷気と、ドロドロした悪意の重苦しさがふわりと和らぎ、まるで真冬の寝室に突然ぽかぽかの春の木漏れ日が差し込んできたかのような温もりが満ちていく。
「な、なんだこれは……!?」
「光っている……!? 薬も器具も使わずに……!?」
先ほどまで喚き散らしていた医師団が、腰を抜かさんばかりに見張り、口をあんぐりと開けて固まった。王太子シルフまた、愛する人を包む美しい光の奇跡に、息を呑んで立ち尽くしている。
そして、部屋の壁際に控えるクロエだけは――その緑の光の奔流を見つめながら、水色の瞳を震わせ、胸元をぎゅっと押さえていた。
(この温もり……やはり、お前なんだな、エル……)
周囲の動揺など露知らず、エルの集中力は極限に達していた。
左耳のピアスがカッと青く共鳴し、エルの手のひらから溢れる緑の光はさらに密度を増していく。
そして――リリアーナの魂の根幹に食らいついていた、あのどす黒く濁ったタールのような呪いの瘴気めがけて、森の命を宿した浄化の奔流が真っ向からドォンッ!! と激突した。
チリチリと皮膚が焼けるような拮抗の末、エルのこめかみを大粒の汗がつたい落ちた。
(ぐぬぬ……! 思ったより根が深い! 引っこ抜こうとしたら大根どころか巨大樹の根っこ並みに絡みついてるじゃないの……!)
全身の魔力を針の穴を通すようにコントロールしながら、ドロドロの黒いモヤをじわじわと押し返す作業は、森で薬草を一日中すり潰す重労働の数百倍も体力を削るものだった。ふくらはぎがプルプルと震えそうになる。
けれど――淡いエメラルドの光がふっと収まるにつれ、奇跡は確かに起きていた。
まるで蝋人形のように青白く生気を失っていたリリアーナの頬に、ぽっと桜の花びらを散らしたような、瑞々しい血色が戻っていったのだ。喉の奥でヒューヒューと鳴っていた苦しげな息遣いも、すう、すう、と穏やかで深い寝息のリズムへと変わっていた。
「ふぅ……っ!」
エルは額の汗を袖で雑にぬぐうと、リリアーナの身体からそっと両手を離した。
魂の芯を侵食していた黒いタールは、とりあえず表面の半分ほどを削り取った状態だ。
「……一気に全部引き剥がすのは無理ですね。患者さんの体力が持ちません。毎日少しずつ、邪気を取り除いていきましょう」
エルのそのあっけらかんとした静かな言葉が落ちた瞬間、豪華な寝室の空気がガラリと一変した。
「じゃ、邪気……!? 今、邪気と申したか!?」
「バカな……! 呼吸が安定し、顔色が戻っている……!」
先ほどまで「インチキだ」「オカルトだ」と騒ぎ立てていた医師団が、寝台のリリアーナとエルを交互に見つめ、顎が外れんばかりの顔でワナワナと震えている。もはや威厳もプライドもどこかへログアウトしていた。
「邪気……ということは……!?」
シルフが息を呑み、目を見開いてすがるように身を乗り出してきた。次代の王の端正な顔が、驚愕と緊迫感で歪んでいる。
エルは肩で乱れた呼吸を整えながら、コミュ障の仮面をかなぐり捨てて、まっすぐにシルフ、そして腕を組んで佇むクロエを見つめ返した。
「はい。ですから最初から申し上げた通り、これは病気ではありません。――何者かが明確な殺意をもって仕掛けた、極めて強力で悪質な『呪い』です」
はっきりと告げられたその事実に、王太子の寝室は、再び絶対零度の氷底に沈んだかのような静寂に包まれた。
王太子の婚約者が、宮廷の厳重な警備の網をかいくぐり、何者かに呪い殺されかけていた。
それは単なる医療の失敗ではなく、国家の根幹を揺るがす「暗殺未遂」の宣告に他ならなかったのだ。
***
「貴方はこの部屋を使ってください」
クロエに案内され、エルはこれからしばらくの間、王都での拠点となる客室へと足を踏み入れた。
(ひ、広っっっ!? なにここ、私の森の小屋がまるごと二軒くらい余裕で入るんじゃないの!?)
客室という謙虚な呼び名がついているものの、そこは高い天井からクリスタルのシャンデリアが下がり、床には足音が吸い込まれるような上質な絨毯が敷き詰められた、貴族の別荘も裸足で逃げ出す豪奢な一室だった。
「に、荷物はここへ置いておきますね……」
エルは恐る恐るつま先立ちで歩き、天蓋付きのふかふかベッドの横に、森から担いできた小さな革のカバンをコトッと下ろした。
……置いた瞬間、凄まじい違和感が部屋を支配した。
最高級のシルクと金糸の刺繍が施されたベッドカバーの真横に佇む、長年すり鉢の粉と薬草の汁を浴びて変色し、角がボロボロに擦り切れたエルの相棒。まるで王族のフルコースディナーの真ん中に、畑から引っこ抜いてきた泥つきの大根をドンと置いたような居心地の悪さである。
あまりの不釣り合いっぷりに、エルは肩をすくめて思わず「ふふっ」と自嘲気味に笑いを漏らしてしまった。
「……何か?」
背後で見守っていたクロエが、水色の瞳をすっと落として怪訝そうに眉を寄せる。
「あ、いえ! ここにあるもの全部が眩しいくらいキラキラしてるのに、私のカバンだけびっくりするくらいボロボロだなぁって思って。なんだか申し訳なくなっちゃって……」
エルが照れ隠しにポリポリと頬を掻くと、クロエは「キラキラ……」と、その言葉を舌の上で転がすように静かに反芻した。
そして、ふっと表情から微かな体温が抜け落ちる。
その透き通るような水色の瞳の奥に、王宮という巨大な鳥籠の奥底でドロドロと蠢く「底知れない闇」を見据えるような、冷徹で苦々しい色がスッと宿った。
「……キラキラして見えるのは、ほんの表面だけだ。そう見せかけているだけにすぎない」
低く乾いた声で吐き捨てられたその言葉。
それは、どれほど磨き抜かれた大理石の床の下にも血と陰謀の臭いが染み付いていることを知る男――そして、リリアーナという無垢な少女を呪いの淵へと突き落とした「見えない敵」が、今もこの煌びやかな光のすぐ裏側に潜んでいることを熟知している、王国騎士団長としての偽らざる実感だった。
「では、そう見えるようにクロエさんや皆さんが頑張ってるんですね!」
重苦しく沈みかけた空気を察知したエルは、人付き合いの経験値不足を必死のガッツで補おうと、えいやっと言葉を紡ぎ出した。
「だって、森の奥で暮らしている余所者の私から見て『うわぁ、全部キラキラしてる!』って見えたんですから。皆さんの血のにじむような努力が、大・成・功してるって証拠じゃないですか!」
不安を吹き飛ばすように、エルはくしゃりと屈託のない満面の笑顔を向けた。
世間知らずで、裏表がなくて、どこまでも澄み切った陽だまりのような笑み。
その無邪気すぎる言葉に、クロエは打たれたように息を呑み、わずかに水色の瞳を丸く見開いた。
それから――氷の彫像のように冷淡だった彼の唇の端が、信じられないほど柔らかく、切なげに綻んでいく。
「……そう貴方に見えているなら、命がけで頑張ってきた甲斐があるというものだ」
次の瞬間。
「……っ!?」
ふわり、と頭上に心地よい重みが乗った。
クロエの革手袋を外した大きな手のひらが、そっとエルのつむじの上に置かれたのだ。
壊れ物を扱うように、慈しむように、ポン、ポン、と優しく二度。
髪の毛を撫でられるその感触は、冬の夜風に凍えていた心臓を直接あたたかい毛布でくるむような、甘く懐かしい温もりに満ちていた。
「今日は過酷な移動に、大仕事までさせた。疲れただろう。……早く寝るように」
それだけを低く穏やかな声で告げると、クロエは名残惜しさを振り切るようにスッと手を離し、翻したマントの衣擦れの音を残して部屋の扉を静かに閉めて出ていった。
バタン、と上品なラッチの音が響き、室内に完全な静寂が戻る。
残されたエルは、両手を胸元でぎゅっと握りしめたまま、口をぽかんと開けて石像のように立ち尽くしていた。
(…………え?)
(ええええええええええっ!?)
思考回路が完全にショートした。
(な、な、な、なに今の……!? なんで撫でられたの!? 私、よく出来ましたの花丸でももらったの!?)
生まれてからずっと森の小屋で一人きり、薬草図鑑とリスくらいしか相手にしてこなかった引きこもり魔女にとって、「頭をポンポンされる」などという行為は未知との遭遇以外の何物でもなかった。もはや精神的核爆発である。
触れられた頭のてっぺんから、じわじわじわ……と火薬に火がついたような熱が顔全体へ猛スピードで駆け巡っていく。
頬どころか首筋、そして耳の先まで、熟れきったリンゴのように真っ赤に沸騰していくのが鏡を見なくても痛いほど分かった。
そして。トクン、トクン、ドクン……!
左耳のピアスが、まるで自分自身の胸のときめきと完全にシンクロしたかのように、かつてないほど熱く、けれど酷く愛おしそうに確かな鼓動を刻んでいた。
胸の奥の、あの厳重に封印したはずの「記憶の扉」が、今にも蝶番ごと吹き飛びそうな勢いでぎゅっと締め付けられる。
「あ、あ、あったかい……っていうか、心臓がうるさい……!」
エルは両手で真っ赤になった自分の両頬を挟み込み、熱暴走した頭を冷ますこともできないまま、豪華な絨毯の上でただ呆然と立ち尽くすのだった。
***
パタンと上品なラッチの音が廊下に響き、重厚な扉が完全に閉ざされた――その、わずかコンマ一秒後のことだった。
「……っっっ!!」
クロエは音速で両手で自らの口元をガッチリと覆うと、音を立てないように膝からその場へ崩れ落ち、深夜の廊下に盛大に蹲ってしまった。
壁に額を押し当て、肩を小刻みに震わせながら、荒れ狂う呼吸を必死に整えようとする。けれど、胸の奥底からマグマのようにせり上がってくる熱い激情と、爆発寸前の愛おしさは、王国最強の自制心をもってしても到底抑えきれるものではなかった。
(な、なんだ今の破壊力は……! 反則だろ……っ!)
「努力が大成功」と、あの満面のひまわりのような笑顔で見上げられた瞬間の衝撃。
理性を総動員して「冷徹で頼れる大人の騎士団長」を演じきり、なんとか頭を撫でるだけで踏みとどまった自分を、クロエは今すぐ自室のサンドバッグごと全力で殴り倒したい衝動に駆られていた。
ずっと、ずっと会いたかった。夢にまで見た、たった一人の少女。
あの日、王宮の血塗られたしがらみと自身の宿命ゆえに、森の小さな小屋を去らざるを得なかったあの日から、片時もエルのことを忘れたことなどなかった。
けれど、自分の不在と喪失の悲しみに耐えかねたエルが、ヤケクソの自爆魔法で自らの記憶から自分の存在をすべて綺麗さっぱり消去してしまったと知った時、クロエの胸は張り裂けんばかりに痛んだのだ。
すべてを忘れ、静寂の森で平穏を取り戻した彼女の前に、中途半端な覚悟や未練で現れることなど許されない。
どれほど恋い焦がれ、森へ駆け出したい衝動に駆られようとも、彼女を二度と脅かさない確固たる力を手に入れるまではと、己の血を吐くような修練と過酷な任務でその足を縛り続けてきたのだ。
そして今日、ついに果たした再会。
記憶を綺麗さっぱり失っていようと、彼女は何も変わっていなかった。
荒くれ者に絡まれれば箒を持って威嚇し、死にかけの馬を見れば自分の激痛を忘れて労い、他人の悪意の渦巻く王宮ですら、誰も傷つけまいと真っ直ぐに光を放つ。あの嵐の夜、震えていた自分を小さな腕で抱きしめてくれた、優しくて不器用なエルのままだった。
そして――何より。
(あのピアスを……ずっと、つけていてくれたのか……)
エルの左耳で揺れていた、あの水色の石。
あの日、いつか必ず戻るという唯一の証として残していった片方のピアス。理由も、意味も、誰から貰ったのかすら思い出せないはずなのに、彼女は何年もの間、片時も肌身離さず耳元に飾り続けてくれていたのだ。
それを確認した瞬間から、クロエの内面は感動のあまり決壊寸前だった。視界にあの水色の揺らめきを捉えるたび、胸が張り裂けそうになり、気を抜けば口角が天井知らずに跳ね上がりそうになるのを、超人的なポーカーフェイスで必死に「冷徹な氷の仮面」の下にねじ伏せていたのである。
クロエは乱れる息を吐き出しながら、自らの胸元――軍服の奥深く、心臓の真上に忍ばせてある「もう片方の水色のピアス」の上から、ぎゅっと指先を押し当てた。
(……エル。もう二度と、お前を一人きりにはしない)
月明かりが差し込む冷たい廊下で、顔を上げた騎士団長の水色の瞳。
そこにはもはや、国を背負う冷酷な剣の気配など微塵もなかった。
記憶を取り戻そうと、失ったままであろうと、この命を賭してただ一人の不器用な魔女をあらゆる悪意から守り抜くという、どこまでも熱く、揺るぎない誓いだけが静かに灯っていた。




