第7話:氷点下の正論と、動き出す奇跡
「殿下、お待ちください!!」
シルフが力強く頷きかけたその瞬間、部屋の隅の暗がりから、まるで怒れる七面鳥のような勢いで誰かが突進してきた。
白衣の裾をバサバサと激しく揺らしながらズイッと前に進み出たのは、立派な髭を蓄えた初老の宮廷医師だった。
「魔法などという忌まわしきオカルトをリリアーナ様に使うなど、断じて……断じて許可してはなりませぬ! どこの馬の骨とも知れぬ森の魔女に、殿下の尊き婚約者様の御体を触れさせるなど、正気の沙汰ではございませんぞ!」
医師の顔は憤怒と焦燥で熟れたトマトのように真っ赤に染まり、額には青筋がビキビキと浮かんでいた。
この国において、魔法とは「人知を超えた災厄」であり「忌むべき禁忌」というのが長年の常識だった。かつての大乱の引き金となった歴史も手伝い、とくに格式を重んじる王宮内での魔法の行使は最大のタブー。
ましてや、王国最高峰の頭脳と技術を誇る宮廷医師団が総出で匙を投げた難病である。そこへぽっと出の「森の引きこもり小娘」がやってきて解決しようものなら、医学の権威も彼らのプライドも木っ端微塵の粉砕骨折コースなのだ。
「我ら宮廷医師団が総力を挙げても原因が掴めぬ難病なのです! それを魔法などという怪しげなインチキで誤魔化そうなど……! もしリリアーナ様の御身に万が一のことがあれば、貴様、どう責任を取るおつもりか!!」
唾を飛ばしながら鬼の形相で詰め寄ってくる医師。
(うわぁ……すごい飛沫……)とエルが一歩引いたところで、室内の空気は一触即発の氷点下へと張り詰めた。
エルは言い返すこともなく、ただキュッと肩をすくめてその怒号を受け止めた。
一人で森に暮らしてきた世間知らずとはいえ、「魔女」という肩書きが世間からどう見られているかくらいは知っている。差別、偏見、恐怖。森のふもとの村人たちが異常に優しかっただけで、外の世界の標準的な反応がこれなのだ。
(まあ、そりゃ怒るよねぇ……。お医者さんたちの立場からしたら、怪しい祈祷師が病室に乱入してきたようなもんだし……)
エルが心の中で至極もっともな納得をしている間にも、寝台を取り巻く黒いモヤは、まるで医師の怒声に煽られるかのようにドロドロと嘲笑いながら濃さを増していた。
リリアーナの呼吸が、さらに一段と浅く、微弱になっていく。
(でも、プライドを守るために患者を死なせたら、医者として本末転倒じゃないの……?)
チリチリと皮膚を焦がすような熱を放ち、激しく脈打つ左耳の水色のピアス。
エルは唇をギュッと噛み締めけると、迷いを振り払うように、その熱い石へとそっと指先を伸ばしたのだった。
痛いほど熱く脈打つ左耳のピアスに、エルがそっと指先を触れようとした、その時だった。
ふと気配を感じて隣を見上げたエルは、思わずヒッと喉を鳴らして固まった。
そこにいたのは、昼間に荒くれ者を酒樽へダンクシュートした時ですら見せなかった、凄まじい氷点下の殺気を全身からダダ漏れさせているクロエ団長だった。
彫刻のように整った顔立ちが、氷の彫像のように冷酷に引き結ばれている。何よりその透き通った水色の瞳の奥で、青白い業火のような激情がメラメラと音を立てて燃え盛っていた。
「ひっ……!」
さっきまで唾を飛ばして威勢よく喚き散らしていた初老の医師が、まるで肉食獣に喉元を睨まれたウサギのようにカチコチに凍りつき、ヒエッと言葉を詰まらせてズルズルと後ずさった。周囲の医師たちも蜘蛛の子を散らすようにサッと距離を取る。部屋の温度が冗談抜きで体感五度くらい下がっていた。
(ひ、ひえぇぇ……! 団長さん、目が完全に『これ以上喋ったらミンチにするぞ』の目になってる……!)
エルはクロエの横顔を見上げながら、ブルッと背筋を震わせた。
そして、その凄まじい気迫の理由を、頭の中で超高速で都合よく変換してしまったのだ。
(そうよね……。夜通し馬を飛ばして私みたいな怪しい引きこもりを引っ張ってきて、反対する医師団を全力で威嚇するくらいだもの。団長さんにとっても、リリアーナ様は命に代えても守りたい、かけがえのない大切な人なんだわ……)
きっと、身分違いの切ない忠誠心か、あるいは密かな恋心なのかもしれない。
そう勝手にロマンスを脳内補完した瞬間、なぜだろう。エルの胸の奥が、ぎゅーっと雑巾のように絞られるような、ちくりとした痛みを覚えた。
(……なんで私、ちょっとモヤッとしてるのよ。馬鹿みたい。私はただの雇われ魔女なんだから、他人の色恋に嫉妬してる場合じゃないでしょ!)
心の中で自分に猛烈なツッコミを入れ、エルは必死に胸のざわめきを押し殺した。
けれど――。
クロエが腸を煮えくり返らせている本当の理由が、リリアーナのことなどではなく、「何年もかけてようやく見つけ出し、連れてきた自分の大切な魔女を、目の前で『どこの馬の骨』呼ばわりされたことへのブチギレ」だという事実に、記憶を綺麗さっぱり消去したエルが気づくはずもなかった。
「医師団、口を慎め」
低く地を這うようなクロエのドスの利いた声が、張り詰めた室内に重く響き渡る。
柄に添えられた彼的手指が、ミシリと革の手袋を軋ませていた。
「医師団が治せないのだから、違う方法を試すのは至極当然だろう」
クロエの声は決して怒鳴るようなものではなかった。
しかし、その静けさこそが尋常ではない怒りを孕んでおり、部屋の空気どころか室温そのものを一瞬で氷点下まで叩き落とすような重みを持っていた。
「そんなに魔女殿を批判するのなら、お前らが今ここで、この瞬間にリリアーナ様を治せるのか?」
「うっ……」
「治せないだろう。……時間がない。彼女の命は一刻を争っているんだぞ。自己保身と無能の言い訳でその命を縮める気か」
水色の瞳から放たれる絶対零度の眼光に射すくめられ、医師団は完全に息の根を止められたように言葉を失った。
「そ、それは……し、しかしだな……」
初老の医師は顔を真っ赤から一転して土気色に染め上げ、唇をわなわなと震わせながらごにょごにょと後退るしかない。
何日もの間、最高級の強壮薬から秘伝の解毒剤まであらゆる手を尽くし、それでも病状を悪化させる一方だったのは他でもない自分たちなのだ。「じゃあお前が治せ」と言われて繰り出せる手札など、彼らには一枚も残っていなかった。
(うわぁ……ド正論の切れ味が物理攻撃並みに鋭い……! 騎士団長様、口喧嘩も王国最強なの……!?)
エルが内心でブルブル震えながら感心していると、重苦しい静寂を破り、凛とした足音が響いた。
「――クロエの言う通りだ」
口を開いたのは、寝台の脇から立ち上がった王太子シルフだった。
シルフは凍りつく医師たちを冷徹な眼差しで一瞥すると、エルに向き直り、未来の王としての威厳を込めて深々と頭を下げた。
「エル殿。外聞も、掟も、すべての責任は私が持つ。だから……どうか、リリアーナを救ってくれ」
次代の国王からの、これ以上ない絶対の言質。
部屋の中を満たしていた医師団の反発という名の雑音は、完全に消え去った。
エルは胸元に手を当て、深く、長く息を吸い込んだ。
左耳のピアスは相変わらずジリジリと熱く脈打ち、まるで「思う存分やってこい」とエルの背中を小突いているかのようだ。
「――はい。お任せください」
おどおどした引きこもり魔女の顔は、もうそこにはなかった。
エルは毅然とした足取りで寝台のすぐ傍らまで進み出ると、ドロドロと黒い瘴気が渦巻くリリアーナの胸元へ向けて、静かに、迷いなく両手をかざしたのだった。




